幕末もコレラの洗礼

中国湖北省武漢から始まったコロナウイルスの感染はあっという間に世界各地に急速に広がっている。
根源地の防疫は元より人と人との接触避け、消毒の励行など行っており、国によっては封鎖効果で一時より、沈静化傾向に見られるが、世界レベルではどんどん広がり、収束の見通しが出来ない深刻な状況に陥っている。
9年前東北地震から原子力発電所の被災から停電。石油コンビナートの壊滅から石油の供給不足からライフラインの確保にガソリンスタンドに長蛇の列。噂デマもあって、買占めがあって米が消え、生活用品である、水、牛乳,パンETCが先読みで買いだめで商品棚から、消えていった。
そんな再来か、コロナ防疫からマスク、テイッシュパーパ、トイレットペーパーが消えていった。
近代文明化学が進んだ今日でも、難解な病に有効な手段を持てずひたすら沈静化を待つだけの深刻な状態にある。


◇幕末時の深刻な流行り病
こうした流行り病は今に始まっているわけでは無く、幕末には日野で起きており、今日のような防疫体制もなく、未成熟な医学もあって、甚大な被害をおこしている。
元亀元年(1570)~幕末(1860年代)まで大凡300年間は幕府の天領であった。日野は江戸を守るような要衛の地として、住民を手なづけるため年貢の割付も低く、幕府に対する忠誠心は強かった。
しかし天保の凶作からの飢餓から百姓一揆を生み、物価騰貴から庶民を追い詰め、寛永6年のペリー来航による対外防衛の幕府負担が困難にあり、献金の上納を領地の住民に強要した。
幕府の瓦解が目に見えるころ献金を巡る混乱が生まれ、一稼ぎしようとした輩もあり、やくざの流行る土壌でもあった。
幕府は天領には江戸に近い所は江戸で常駐し、支配しており、日野もその一つ現地不在もあって十分な取締が出来なかった。
各地に蜂起した百姓一揆や浪人に手を焼いた江川担庵の発想により『農兵隊』の組織化を採用をした。幕府の威信が掛かっていた兵農分離の建前も時代の流れは、最早崩れていた。


<『日野宿組合農兵隊』旗>>
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こうした状況から『日野宿組合農兵隊』が誕生する。名主佐藤彦五郎は幕府の役人があてにならず自らの自衛意識から剣術を稽古し、浪人の取締など警察機能も自前で備えこれに当たった。

こんな状況の中で、流行り病としてコレラが流行った。今日のような組織的な防疫体制も取れず、幕府も住民にお任せ、恐ろしい病魔の洗礼にあう。
数多くの犠牲者の中に明治4年(1871)4月1日流行り病の名で新選組井上源三郎の兄で千人同心井上松五郎が亡くなった。継いで28日妻が、5月9日長男定治郎20歳の若さで後を追い、瞬く間に身近な3人が病魔の災禍の前に命を失う。たった1か月余りに3人が亡くなったが、昨今では志村けんが掛かって間もなく亡くなり、危急の伝わり方は昔も今も変わらない。改めてその感染力の強さに思い知らされる。


< 恐ろしいコレラの災禍の渦に巻きこまれる。写真は三途の川の亡者の着物をはぎ取る「奪衣婆」 >
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◇当時の記録から(佐藤彦五郎日記)
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それぞれの時代で、悪病退散にひたすら祈祷と『芳香剤』を巻いたこと。特段の対策もないまま大量な犠牲者があった深刻な状況であったことを伝えて居る。それぞれ時代は異なるが、以下のように記録されている。

①安政5年(1858)9月
流行病にて人多く死去し、昨中旬より町内、御嶽山御神豹に社を建て、昼夜念仏を百万遍と唱え農業・家業忘れるほどの騒ぎ。世の中の不穏に付き、三日三晩、鎮守神において福島村神主親子が悪病退散を祈祷を就行した

江川代官所の公事方の加判役(大幹部)柏木総蔵が江戸宿植木屋藤兵衛方へ 今流行病の予防の裁きは『芳香剤』は奇特の病にこの上ないと推量、支配所名主へ『芳香剤』を施せと指示する。
『芳香剤』3斤の目方の袋、千袋を9日、13日施す。

②文久2年(1862)にはコレラは当時コロリと言った。日野にも激烈に蔓延し死去するもの実に百余人、仏棺が街道に列をなしたと云う。
この時私財米穀を救撫し、かつ薬剤を広く施与した為、将軍家より奇特の賞として前後二回白銀を賜った。
なお、当時かねて家に蔵してあった多数の大般若経巻が疫病除けの呪いになるとて望まれるまま、幾巻も貸し出したと云う。
(近年この経巻は大昌寺へ寄進してしまった)


◇コレラの庚申塔

こんな大きな災禍に後世に伝えようと庚申塔が立てられた。
その一角に歴史の意気証人の一つである、庚申塔が確かこの辺にあったと微かな記憶を頼りに訪ねて見たら、かなり風化した姿で残されていた。
場所は都道から一歩離れ日野警察裏側の脇道でかっては賑わいを見せていた旧甲州街道の一角である。以前は雪印があったが都市開発で周辺が一変してしまった。
周辺の土地開発が進んで居る様で、様子が一変してしまった。


<2020年3月現在の庚申塔>
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たまたま、以前に行った時の画像が手もとに残されておりその画像を含め載せてみる。
当時は庚申塔はもしっかりした台座に据えられ既に文字は読めないが脇に案内板があり全体を通して威厳は保っていた。
現在はその案内板の姿は無くなり庚申塔も激しく風化し、前面は剥離し崩れかかり、その文字も読み取りずらい状態に変わっていた。17年程でこんなに変わってしまうのであろうか、その痛々しい姿がとても残念であった。


<2003年当時の姿>
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蔓延1年(1860)に自然石で作られた庚申塔である。
 当時、悪性のコレラが流行ったが、この塔に日夜祈願したところ、1名の患者も出なかったとの言い伝えがある。

魔の手が地球上に襲いかかり、未だ根本対策を立てられず、見通しもたたない現状であるが、100年以上前から繰り返されている。こうした犠牲者を生んだ、生き証人が街の片隅にひっそり佇み、消えかかっている。

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佐幕思想を追った近藤、土方

平成から令和へ迎え、明治維新から150年の節目の年であった。
この明治維新に崩壊寸前の幕府の矢面に立ち、新選組が戦い散っていった。
『殉節両雄碑』が高幡不動の境内に立ち、戦い集団を引っ張った近藤勇・土方歳三両雄を称えている。
彼等がその支えとなったのが強烈な佐幕思想から成り立っている。
 普段、何気なく目にする日野宿から、佐幕思想との繋がりを辿ってみた。

◇幕府支える武士への憧れ

1)その代表格の一人が日野誕生の「土方歳三」でもあった。
豪農層から出て、天然理心流の剣術を身につけ、激動期に武士の世界に入ることが、近藤勇や土方歳三始め新選組の隊士が抱く、ある種のステータスであった。
 農民から武士への道は、折しも崩壊しかかる徳川幕府を支えようとすることは、多摩地域での幕府の報恩に報い るための宿命でもあった。
その源を辿れば八王子・日野など地域の千人同心が武田遺臣であり、徳川家への報恩思想が根強く脈々と受け継がれている。
その影響下にある近藤や土方にも共通の報恩思想が息づいているものと考えられる。
一方では地域は幕府の主要な財源となる年貢収取の対象となる田畑を持つ天領(てんりょう)は、江戸時代における江戸幕府の直轄地の俗称であった。

2)お侍になりたい願望を具体化。

<『乃武乃文』(すなわちぶすなわちぶん)正斎老人貞亮書の扁額>
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近藤や土方、そして新選組隊士の大半が農家出身で、武士になりたいとその思いを今日に伝え残されるものは日野 宿本陣の玄関口に飾られる四字銘扁額なのであろう。
 『乃武乃文』正斎老人貞亮書の扁額である。
この四文字の先である、武士を追っかけ華々しく散っていった。

これを書いた『柳田正斎(やなぎだしょうさい)』は寛政9年(1797)~明治21年(1888)下総国佐原(千葉県佐原市)生まれの書家・漢学者・漢詩人。
名乗は貞亮。 若くして昌平黌学問所に学び、剣道を通じて千葉周作と親交する。
 柳田家は江戸時代の儒学者正斎そして泰麓、泰雲と受け継がれ、現代は八ヶ岳泰雲書道美術館で柳田書法が展示されている。

3)『乃武』で歳三が習った天然理心流
江戸中期に天明や天保の飢餓を生み出し、農村も荒廃させ治安が乱れた。幕府は関東取締出役の設置や改革組合村の設置で農村の取締の強化を図った。
浪人や無宿者の横行は、宿場内に自ら剣術の稽古がなどの自衛策が自然と生まれた。
このような背景から、剣術が流行り、その一つである天然理心流が日野に浸透した。
土方歳三は安政6年3月に日野新井村土方勇太郎他4名と一緒に天然理心流に入門している。
土方の剣術の書状は残されていない為、どの程度の腕前であったのだろうか、良く判っていない。
しかし万延元年(1860)府中六所宮の天然理心流の奉額式には納額式には刃引の形を披露しており、同年に発行された『武術英名録』に天然理心流、歳三の名前が載せてあり、一流の剣客と評価されている。


4)『乃文』で歳三が学んだ本田覚庵
本田覚庵と言えば幕末の”三筆”の一人である書家の市河米庵の弟子で土方家とは親戚関係で覚庵より書を習ったと言われている。
 土方家から本田家まで約5キロの距離、徒歩で1時間余である。歳三はこの覚庵に書道を習い、万延元年に9回、 文久元年に3回、文久2年に3回、合計15回本田家を訪れている。
 土方の書簡は小島家には京都へ行く、以前のものと、以後のものが残っているが、その書簡は上洛 以前のものは字が小さく、筆跡は女性のように優しいと言われている。
本田家には近藤勇も7回も通っており、上洛する前に剣術稽古の傍ら、本田家に足繁く通い、書や学問を学び、知性と教養を深め、近藤・土方の武士集団としての人格形成に擦り込まれていく。

(現在でも残る本田家)
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江戸時代初期から約350年間続く下谷保村の名家で母屋は慶安年間(1648~51)の建築と言う。
代々著名な文人を迎える当家の家風が守られ著名な漢詩人との交流もあり地域文化の拠点でもあった 一個人住宅が今なお、住まいとして使われている大変貴重な文化資産である。
母屋は茅葺きの屋根はそっくり、現状維持のままトタンで覆っているようである。
トタン下は分厚い厚みの屋根にすっぽり覆われていた。土間から囲炉裏、歳三が尋ねた面影など当時の姿、そのままの家の中を拝見した。

◇粛清の厳しい戦闘集団
1)浪人集団から組織集団「新選組」へ
時あたかも尊王攘夷(天皇を尊び、外国人を排除)が水戸学で生まれ、桜田門外の変が起きた。井伊大老が倒され弱体化された幕府の再建が急務であった。
幕府再建の一策として清川八郎が在野の有志を、浪士組として取り立てるが、近藤、土方も幕府の浪士組に参加し上洛する。
しかし清川は攘夷決行で江戸に引き上げる。これに反発し公武合体までは京都の天皇・将軍警護すべきと、芹沢鴨・近藤・土方らが京に残り清川から離れ、壬生浪士が生まれる。
その間、将軍警護の会津藩・薩摩藩のクーデターで討幕を目論む長州を京から追い出し、会津藩の配下で活躍する。
一方では組織の中核でもあったが粗暴な振る舞いをする芹沢一派は排除する。
武士ありきで単なる浪人集団から組織集団への羽ばたきは厳しい規律も備え、浪士組から新選組へと変わりその実績から、周りの目も変わってくる。

2)武士以上の厳しい『軍中法度』

歳三が着用した鎖帷子(くさりかたびら)と手甲である。
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池田屋騒動や禁門の変では隊士らは重装備で戦いに臨んだ。戦闘集団として変わっていく象徴的な武装姿である。

近藤勇が一番熱い夏の真っ盛りの池田屋事件で着用して戦った鎖着こみはで重さが6キロある。
鎖で出来ているので刀で切れず、護身用となったが、汗まみれの苦闘の中の戦いであった。

新選組は京の町に火を放ち、長州のクーデターを未遂に留めた池田屋騒動では討幕派志士を倒した。
池田屋の報復を背景に長州藩の京都攻撃の『禁門の変』の戦いがあり、新選組も活躍する。新選組の活動は激動の嵐の渦の中に自ら突き進んでゆく。
文久3年池田屋事件の功績で幕府から幕臣取り立ての申し出があったが、身軽な道を選び辞退する。
その功績から入隊希望で隊士総数は一気に140人ほどになり1番から10番組に組織に編成されている。 歳三の組織論がより厳しく隊規を造り筋金入りの組織が生まれている。
 『軍中法度』で具体的に①武士道に背くこと②局を脱すること③勝手に金策いたすこと④勝手に訴訟を取り扱うこと、この4か条を背く時は切腹を申しつくること。この厳罰主義が歳三の姿勢を伝えて居る。
 池田屋事件の以前に『壬生浪士掟』の隊規があり脱走者は発見したら殺害するということが既に決めら れていた。

3)粛清の嵐
動乱の京に忽然と現れ尊攘派浪士達を震撼させた新選組。元々浪人集団であったが、会津藩預かりの幕府公認の組織としてまとめ上げるには「血の粛清」が必要であった。
新見錦、芹沢鴨、平山五郎、野口健司,山南啓介、河合喜三郎、武田観柳斎、伊東甲子太郎、藤堂平助等々30名以上が粛清の嵐に消えていった。
中でも派閥争いで壬生浪士組の筆頭であった芹沢含めた一派。新選組史を刻んだ油小路事件の伊東以下の御陵衛士の一派。多摩以来の朋友で副長の山南など、新選組が粛清の繰り返してまでも守らなければならないのが「体制」であった。

<浪士組を脱退し、そのまま壬生に留まり新選組が結成される。その新選組の屯所となった八木邸当初は母屋の東の離れだけであったが、母屋まで占拠された。平時は宿舎であったが芹沢とその一派の襲撃もここであった>

<新選組の屯所となった八木邸>
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4)悲願の武士、取り立て
 慶応3年6月新選組を幕臣に取り立てられる。総員105人の隊士のうち、近藤が御目見得以上の身分となって見廻 組与頭、歳三は見廻組肝煎、,副長助勤は見廻組の格式が与えられる。
しかし、それ以前に新選組を離れ伊東甲子太郎以下の御陵衛士は幕府取り立てを受け入れなかった。
御陵衛士になびき新選組から離れようとした隊士7,8名が切腹、処刑されている。
尊攘思想の色合いから討幕に傾注し、勇殺害計画した伊東甲子太郎以下の御陵衛士が暗殺される。

◇戊辰戦争へ 新選組も渦の中
日米修好条約の締結など強権から薩長が反発し武力討幕を画策する。徳川慶喜は立て直しを務めたが成果が得られず大政奉還を朝廷に申し出、265年続いた幕府が滅びる。
慶応4年1月 『鳥羽伏見』開戦 する。
 薩長は薩英戦争・下関戦争で外国軍と戦った経験を踏まえ,洋式の軍備で旧幕軍を圧倒し、撃破した。
 旧幕軍は反撃したが、錦の御旗を掲げた征討軍の前に朝敵とされてしまい、戦意を喪失 し 新選組も含め京都から大阪へ撤退する。
徳川慶喜江戸へ 新選組も富士山丸で江戸へそれぞれ撤収を図る
戊辰戦争も西から東へ甲州勝沼~流山~宇都宮~会津~仙台へ転戦する。
幕軍の敗戦に新選組も当初の仲間が離れ、離合集散を繰り返す中、敗報が続く幕軍と共に更に北へ向かう。
4月流山で勇は東山道軍に掴まり板橋で処刑され、新選組史に大きな転機を迎える。

◇歳三、北の大地、函館で散る
歳三、宇都宮城の攻防戦で負傷し、会津城下で療養し2か月余前線離脱する。
新政府に抵抗する奥羽越列藩同盟が誕生したが米沢藩・仙台藩が離脱し崩れる。最後の砦、会津城も1か月籠城戦で堕ちる。
歳三は榎本武揚率いる艦隊で仙台を離れ新天地蝦夷地に向かう。仙台残留に歳三の生来の仲間であった斎藤一が離れる。
蝦夷で上陸後い箱館五稜郭を落とし箱館政府をを樹立する。
歳三はこれまでの実績を踏まえ『陸軍奉行並』に上り詰め、幕軍の最前線で新政府軍に向き合い戦ったが、明治2年5月11日、一本木関門で戦死、華々しい生涯を閉じる。

『殉節両雄碑』

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『近藤・土方の二人は時代の変革の中、最後まで徳川幕府に対する節義を守り、朝敵の名を冠せられたまま激流の中に没していった。』
と称えた『殉節両雄碑』 。
没後、両雄を称える顕彰する『殉節両雄碑』が篆額は松平容保、撰文は大月盤渓、書は松本順により、明治21年高幡不動の境内に建立される

何故、佐幕思想かを含め、以下HPで書いてみた。併せて御覧ください
日野宿と佐幕思想の繋がり

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ああ~上野戦争

◇彰義隊立ち上がり
鳥羽・伏見の戦いで敗れた徳川慶喜は大阪を見捨て江戸城へ,更に江戸城を明け渡し、上野の寛永寺の支院の大慈院に籠って旗本の混乱・刺激を避けようとした。しかし幕府の混乱は避けがたく秩序も治安も荒れた。この窮状に情けないと一ツ橋家の人たちが立ち上がり、賛同者を集め渋沢誠一郎、天野八郎らが中枢を担う彰義隊が結成された。彰義隊は謹慎の身である慶喜護衛を旗印に寛永寺を拠点とした。
これより先有栖川宮を総督とした東征軍が江戸へ迫ってきた。


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慶喜から密命を負った山岡鉄舟は西郷隆盛を駿府に訪ね、徳川家救済と江戸無血開城への道を開いた。
江戸城攻撃中止となりを慶喜命乞いは何とか通ったが、慶喜は水戸へ落ちた。
将軍江戸を去ることで柱を失い市中は混乱した。彰義隊も歯が抜けるように脱落者が増え渋沢も離れた。
それでも江戸城明け渡しで、血気にはやり生き残りの彰義隊が東征軍との対決姿勢が血気にはやった。幕府陸軍兵士等が盗賊と化し、幕府復興を名目に放火や強盗を働いた。
事態の沈静化を願った勝海舟ら旧幕府首脳は、幕臣・山岡鉄舟を輪王寺宮の側近・覚王院義観と会談させ彰義隊への解散勧告を行ったが、説得に応じなかった。
江戸の治安悪化の要因は彰義隊と断定し、新政府から彰義隊討伐の布告が流された。

◇戦闘の火蓋が開かれる
慶応4年(1868)旧暦5月15日(新暦で7月3日)梅雨時の朝から雨が降る中此処に立て籠もった彰義隊に対して総監督大村益次郎の元、新政府軍が戦いを挑んだ。
東征軍、彰義隊が対座したまま、双方決めてを欠き、動かなかった。
こうした局面に長州陣大村益次郎が三条・岩倉具視らの支援を取り付け、西郷のもっていた指揮権を一時的に取り上げ、東下した。東征軍の指揮系統を含め実権は完全に長州側が握り、配下に薩摩がつくことになった。
江戸城の大下場(二重橋の外)に1万2千の兵が集結した。
上野、正面・黒門口は薩摩、因旛、肥後の三藩、搦手((からめて)城の裏門や敵陣の後ろ側)の根津、谷中は長州、佐賀、久留米、佐土原、大村諸藩、他の諸藩は神田川を第二の絶対防御圏として非戦闘地域に拡大を防いだ。
決戦日を5月17日と喧伝し、その策略に乗せられ前々日、彰義隊は暇乞いで山を降りてしまった。その隙を突いて15日東征軍は戦闘は黒門口小倉壮九郎の一番遊撃半隊と川路之進足軽隊で開戦となった

<戦闘、放火場所は地図上の寛永寺消失、神木隊戦闘、黒門表記された場所である>

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◇アームストロング砲火で状況一変
六つ半(午前7時)黒門口に向かった一番遊撃隊に対する足軽隊の発砲によって開戦となる。
 午前中の戦況は彰義隊有利に展開した。ところが午後になって山下、雁鍋に据えた東征軍のアームストロング砲が火を噴き威力を発揮することより、戦局は一変した。もっともこれには裏があって、大村が事前に長州の一隊を会津支援隊と偽って、上野に入れ、彰義隊は砲撃を中止して出迎えた。味方の砲声を合図に正体を表し、上野の山内がパ ニックになったのが真相で、完全に大村の作戦に騙された。
これがきっかけで彰義隊が崩れ、根本中堂は火に包まれる夕刻、彰義隊はちりじりになって会津方面這走した。
戦火を開いて、彰義隊は半日で壊滅した。

◇激戦の黒門周辺(黒門は現在圓通寺に移築)

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黒門は元々寛永寺の山門であった。ここの黒門口に薩摩藩と鳥取藩が居り、長州藩は谷中の方に居た。
南側に当時は呉服屋さんであった,松坂屋があり、其処に砲門が据えられた。
 一斉砲撃でこの周辺に彰義隊が多く立て籠もったので一番の激戦地であった。その黒門は現在箕輪の円通寺に移築されているが、当時の激しい戦いに無数の弾痕跡が残されている

◇穴稲荷門(現花園稲荷神社)での戦い
敢然と戦った「榊原家」
榊原家は元々高田藩で徳川創業以来270年間使えてきた、徳川四天王(井伊、本多、酒井、榊原)と称される、 由緒ある家である。徳川慶喜が大政奉還し、藩主のいる国元では朝廷に恭順の意志を表したが、江戸詰め侍は脱藩して約86名が「神木隊」を結成し、旧幕軍に身を投じ、上野山で壮烈な死闘を演じた。
 神木隊の名は榊原の榊の字を二字に分けて付けられたものである。
神木隊は浩気隊と穴稲荷門(現花園稲荷神社)で大砲と小銃で構え、不忍池を小舟に乗って弁天の中島から来る倒幕軍を迎え撃った。
<不忍の池から、右側が弁天堂、向かい側が小舟に上陸図る討幕軍を迎え撃った神木隊が陣を張った穴稲荷門>
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<穴稲荷門(現花園稲荷神社)>
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しかし、要となる黒門口(現京成上野駅付近)が破られると穴稲荷門も皆破られた。
 弾丸を全身に受けながらも敵軍に立ち向かい山内の清水堂割腹したり、14、5名の敵に取り囲まれ落命し、死後 蹂躙されたり、なぶり殺しにされそうになった者など凄惨極めた戦いであったようだ。
 上野の山での戦いでは17名戦死したと言われている
因みに神木隊士の墓は 池袋の清慶山本立寺にある。境内の御本堂前に「神木隊戊辰戦死の碑」が建っており、上野の山の戦い、および 函館五稜郭の戦いで26名の戦死者の名前が載っている。


◇象徴的な寛永寺も焼き尽くされた
江戸時代、上野公園の地は寛永寺の境内で堂塔伽藍が立ち並んでいた。現在の噴水道一帯を廻廊がめぐら され勅額門を入ると根本中堂が建っていた。
 根本中堂は横45m、奥行42m、高さ30mの広大な中堂が建てられ、堂内は本尊の薬師如来が奉安してあった。
 瑠璃殿は中堂の別称で、坂東第一といわれたほど、荘厳華麗であった。瑠璃のように美しかったであろう。
 寛永寺堂塔伽藍は慶応4年(1868)彰義隊の戦争の時に焼かれてしまった。
<根本中堂があった現在の噴水道一帯>
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<消失直後の根本中堂>

戦闘中は建物はあったが、戦闘2日後、再び彰義隊が現れたら困ると、新政府軍が火をかけたと言われている。
 本堂は1625年博物館のある所に建てられていた放火直後の姿である。
寛永寺は完全に焼き尽くし、国法的な堂塔伽藍(がらん)など歴史的な遺産も消えてしまい一面の焼け野原、僅かに付帯設備の屋根と柱が寂しく残される。
江戸市民が此の焼けただれた山内に、失った遺産の惨状の姿見物に大挙押しかけ、失ったものの大きさを悲しみ悔やんだと思われる。
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◇彰義隊墓
▽遺体は放置された
 此処に彰義隊の遺体が大量にあった所である。新政府軍は寛永寺関係のお坊さんは上野の山から一切降りろ、 誰もここへ上がってきては駄目だと厳命した。
二つの墓があって、小さい墓石は戦い直後、寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に堀り出された建てられた彰義隊の墓である
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上野の山に官軍の死体は片づけられているのに、彰義隊の死体はごろごろ放りぱなしに捨ておかれた。これを直 視した神田の三河屋の骨董屋を営む幸三郎はたまりかね、三ノ輪の円通寺「大禪佛磨大和尚」と相談し、官軍側に荼毘の許可を得た。幸三郎は若い集を動員し266の死体を集め、山王台の塵溜(ちりだめ)に入れ、荼毘にし、一 部は埋めた。
焼いた骨は円通寺で持ち帰り、墓石をたてて手厚く葬った。残る遺体は土中に埋められた。その跡地が、現在の上野公園にある彰義隊の墓であるとされる。
但し、墓標の文字まで制約が加えられ、墓標の文字が限定され、山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の刻み込まれた三文字が、苦衷の証として此処の墓石に残されている。
 三河屋の幸三郎の自費で一切をやったと言う、下町江戸っ子の美談として讃えられている。

上野戦争に絡み上野・谷中歴史散策  でも案内しています。こちらもご覧ください

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大型台風で眠りから覚めた日野宿

令和を迎え未曾有の大型台風19号が関東から東北へ駆け抜けてゆき各地に爪痕を残していった。
江戸と甲州地域を結ぶ旅人の道として甲州街道は歴史的にも大事な役割を持ち、現代でも一大物流の輸送路の役割を担っている。
この甲州街道はどうしても多摩川を超えなければならない。大きな川幅に普段はそこそこの雨量では川幅に救われ、静かに流れている。
それが今回のような滝のような雨が長時間続くと、牙をむき出し、物凄い勢いを持った水流が、川筋の構造物を破壊に結びつけるエネルギー をもっている。

◇崩れた日野橋
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流れ込んだ雨水がどんどん増え水深が高くなり、水流も益々早くなりそのエネルギーに日野橋を支えていた橋桁が、基礎部分をも根こそぎ、はがし地底で擦れてしまった。橋桁の移動が、上部の橋の路面が引きずられ、別の橋桁に載せられた路面とずれが生じゆがんでしまった。

この基礎を固められたコンクリートの巨大な橋桁が、激流の前に敢えなく、移動してしまった

 

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このため本来にある路面がゆがみ、凹凸が出来しまっい、輸送路としての機能を失った。大変危険のため、橋は閉鎖された。

波打つ路面に被害の甚大さを物語る。幹線路を失い、復旧もかなり長期間予想される。この多摩川越えは並走する「立日橋」や「日野バイパス」で横断できるが、交通量の多いところで、日野橋不通で大渋滞が生じている

<至難の多摩川越え>

元々この甲州街道の多摩川越えは代々渡船であった。

江戸時代を通して渡船場は治安上の重要な役割を果たし、将棋で言われる有名な諺で「王手は日野の万願寺」と例えたように軍事上重要な役割を持っていた。
貞享元年(1684)渡船場の位置が万願寺から日野渡船場に移り、その経営は日野宿に任せられ宿役人の監督下で渡船が運行されるようになった。
◇宿の財政を担った
文政7年(1824)御定渡船賃は宿役人から提示され渡船賃は一人10文(約400円)であり。武家、住職、近在25か村は無賃、但し近隣25村は代わりに年々穀物を徴収し、渡船の管理運営費に充てた。
安政5年(1858)6年、の当時の記録から渡船も軌道にのり渡船の総収入から必要経費ひいた収益が宿場財政大きな部分を占めたといわれている


この渡船も安全走行のため、川が増水し、水深が1丈(約3m)から1丈2,3尺を超えると「川留め」と言われ、船は出せなかった。水深1丈以下で舟明け」となった。

◇魔の手は往時から

今回、日野橋陥没が起きた。

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水難事故は往時から度々起きたようで、その魔の手が今日まで続いているようである。
弘化3年(1846)今日同様、長雨が続き、「川留め」からようやく「舟明け」となった。

「川留め」で待機した旅人含め馬船に34人が一気に乗り込み満船、舟はかたむき、川の中程まで来たとき、突風が吹き、高波が船には入り、船は転覆、旅客は川に投げ込まれる。船頭2人以外は全員が激流に巻き込まれ、溺死する痛ましい事故事故が発生した。
増水した急流に流され死骸は多摩川の下流へ、遠く川崎あたりまで流れていったという。

この増水は広域におよび、多摩川、浅川の合流点付近は水没し、石田寺北にあった土方歳三の生家でも、物置、土蔵が押し流され、母屋まで流されそうになった。水難を聞きつけ近村の人々によって、西方の現在地に移築している。

◇明治維新以降
渡船場の経営は日野宿から日野町へと受け継がれる。
◇日野橋完成以降
大正15年(1926)この日野橋が完成し、歴史的な渡船の業務はこの橋の完成をもって終了した。

 ◇日野宿問屋役、佐藤彦五郎

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佐藤家は正保(1644、~48)頃から彦右衛門を襲名し日野宿問屋役を務めていた。
最後の寄せ場名主として幕末から維新にかけて治安維持とも併せこの渡船維持したのは佐藤彦五郎であった。
彦五郎は明治35年9月17日76歳ですでに深い眠りについているが、今回の多摩川の狂乱が呼んだに日野橋橋梁の事故にきっと驚いてるに違いない
「文明の発達した今日、強靭化された構造物も未だ未だ自然災害には弱い」改めて思い知らされた。

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スタンプラリーで賑わった日野宿本陣

18号台風の影響か、今朝は風を伴う激しい雨、こんな日に運悪く本陣当番であった。
平日、悪天候の中、来館者が何時くるか、判らないのであるなら、時間を有効につかうしかない。
待機覚悟で、普段読めない資料を抱え、待ち時間を有効に使おうと、いざ戦いの場に臨んだ。
その怪しき天候も覆われた雲が徐々に解け、嘘のように青空がどんどん広がった。

本陣前および交流館では平日に関わらず、開館前に集団が集まり、待機する姿は普段とは全く異なる姿に、一瞬何事かと思った

この群れあいはスタンプラリー始まりであった。
何時も出迎えで使われる旗のデザインが、リアルな歳三写真から、アカデミックなイラストの「薄桜鬼」 に変わった。
旗始め、案内用のパンフレットなどの準備にこのラリーにかける、関係先の気合の入れ方は半端ではなかった。
ネットの世界、ネットを通じて呼びかけ、この旗の元へ満を持して駆けつけた集団であった。
 薄桜鬼は新選組を背景とした恋愛ロマン、と聞くが、若い女性フアンをターゲットにと思い、やはり若い人、女性が多かったが、中にはおじさん達も結構多かった。 

時間が来て山門を開けるとフアンがドットと敷地の中へ、流れ込み、玄関前に置かれたスタンプ台に殺到する。
しかし、その群れあいを目の前に、スタンプを押したら、館内に入らず、そそくさと次の拠点に慌ただしく向かって行ってしまった。
開館時はそんなことで、目の前の騒ぎを見ながら、掲げた旗は揺れながら、スタンプラリーの案内役になびいただけに留まった。
人の群れに、係の人が、何とか入ってくれないかと懸命に誘導案内したが、問いかけに頷くものの、心此処に非ずで、ともかく次の拠点へスタンプ集積に、完璧に洗脳されていた。ただ端に歴史とは無関係に日野駅から始まる8カ所の拠点巡りのスタンプ集めにすぎなかった層の集まりでもあった。


ん~ん、人寄せパンダも此処までかと、半ば諦めていた。
しかし、それも時間の経過と共に、寄ってみようとするフアンが現れ、その何割かが入館された。

平日、しかも雨の中、足を運ぶ人も少ないと思っていたが、予想は完全に覆った。
昼を前後に切れ目なく入館され閉館まで来館ラッシュが続き、何時になく対応に追われ,うれしい悲鳴をあげたた。

◇案内思考にその引き出しの中身
さ~て、満足して頂くためには、どう望むかはこれまでと特別変わったことはなかった。
①入館者に注がれるのはやはり歳三であった。
歳三が武士の姿で散って行った男の美学やロマンなどの人格形成に幼少期を過ごし、浪士組と羽ばたいてゆく過程で支えた佐藤彦五郎とその妻のぶの関係など系譜を前に皆、集中していた。

②慶応4年、新選組鳥羽伏見の戦いで破れ、江戸に撤収後、甲陽鎮撫隊で勝沼の戦いで破れ、四散する中、彦五郎も巻き込まれ、五日市への逃避行。匿われて、助命嘆願され晴れて戻れたが、その許可は西郷どんであったことなどなど。

③名刀の康継が何故、歳三から佐藤家に贈られたのか?、上記で彦五郎一家が五日市に逃避するが、息子が八王子に官軍につかまり、持っていた刀を取り上げられた。その話に歳三が可哀想と源之助に譲った。


④慶応3年薩摩藩邸から出没した薩摩御用盗事件で彦五郎以下日野剣士と八王子壺伊勢屋での大乱闘事件


⑤明治13年明治天皇行幸、随伴者はなんと300人近くの大量。その中に新政府を委ねる、伊藤博文、長州系公家の三条実朝など討幕の先頭をきった、連中が旧佐幕であった当地への来訪であった。

とうとう、底の深い引き出しの披露に、熱くなり、語ってしまったが、最後まで耳を傾けて頂き、感謝でしかなかった。

◇国境の垣根を越えて
香港で若者のデモ活動で顔隠しに黒マスク姿が最早定番になっているが、来館者で烏天狗の出で立ちの中国暦女であった。
外見上は同じ東洋人で姿は全く識別出来ない
日本語は判るか、訪ねると、大丈夫となまりのある言葉に日本人ではないことが判った。二人の出身地は上海と北京のかなりの離れた場所で、あるがその知り合いの結びつきは何とネットを通じて「薄桜鬼」であった。
同じ中国人でも、日本のアニメによる結びつきで大変驚いてしまった。
それでもこちらの説明が理解できず一方的になってしまうので、一つ一つ確認しながらの説明であった。
話の説明段階で「やまなみ」の話に、首を傾げていたが「さんなん」さんですねと、返す言葉に、驚いてしまった。
形はどうあれ、「薄桜鬼」を通じて、国を越えて、新選組が浸透している事実に驚いてしまう。
中国共産党の主権で拡張一方、一帯一路の路線で突っ走る中、いろいろ国際的にも問題を起こしている。しかし一方ではこう言う庶民層で日本文化がしっかりと浸透していることを思い知らされた。
微力ながら、ささやかに、交遊が深められたことに感謝する。

気合を入れ、一方では飛び交う蚊と戦いながら、何とか充実した一日が終わった
日の落ちるのが早く、既にうす暗くなった道を家路に付いた。

お客様を相手に緊張感も解かれ、どっと疲れが、足元も多少怪しく、越えねばならない、神明の坂が、重く長いハードルであった。

 

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武田の遺稿を残す八王子を巡る

八王子横山十五宿は甲州街道中、最大の宿場町として、また多摩地域の物資の集散地として栄えた。
八王子の歴史を飾る代表的な千人同心、松姫、大久保長安、などなど武田遺稿から誕生していることに改めて思い知らされた。
戦国時代から幕末にかけて、今日の八王子に繋がる遺跡を訪ねて、JR八王子駅の南側からJR西八王子駅に至る周辺を歩いてみた。
◇八王子郷土資料館にて
<倒幕の先頭を走った浪士落合直亮像>

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八王子の土地柄、佐幕地帯でありながら幕末期に倒幕の先頭を走る人物が居たことに驚いてしまう。何故そこまで掻き立てしまったのであろうか?
落合家は関東防衛の軍事拠点の一つ小仏の関守に徳川代官配下の最前線の要職を代々続けられていた。
直亮は、江戸中期に興った国学の流れに染まって行く。
20才で後を継ぎ関守になるが、家督を弟の直澄に譲り、関所番をやめてしまい国学と兵学で名声あげた国学者で尊皇譲位の挙兵で同志を募った相楽総三の元へ走る。
西郷隆盛は王政復古の契機を掴み、倒幕を画策する。薩摩屋敷へ、続々と浪人が集まり、直亮も門人五人を率いてに入る。浪士隊を組織、 総裁は相楽総三、直亮は副総裁となる。
「御用党」と称し、関東周辺の放火など錯乱計画を次々に実行する
テロ活動で、江戸市中を混乱させた。 激怒した幕府側は薩摩屋敷を焼き打ちする
藩邸から脱出する浪士たちを指揮し、翔凰丸に乗って江戸を出港、幕府海軍の回天丸らと砲撃戦を繰り広げながらも逃げ切った
これが引き金となって幕府と薩・長が鳥羽 伏見で戦うの戊辰戦争へと入る。
京に入り、西郷隆盛と面会し、薩摩藩邸焼打ちから、今日の戦争となり、愉快な時が来たと、功をねぎらわれる。
 相楽総三は赤報隊を編成し、官軍の東海道鎮撫総督の指揮下に入り建白した「年貢、 半減令」で民心に応えた。しかしが太政官はこれを実施すると財政に欠陥を生じ、一度許可した布告令を取り止めた。一方では設楽らが力をつけることを封じるため相楽以下は偽官軍と称され下諏訪で総督府に捕縛、処刑される。
 相楽総三の死を知った直亮は、それを操った岩倉具視を殺害しようとしたが、失 敗し、岩倉に諭され、帰順してしまう。
 明治期には西郷隆盛に関東の事情を伝えたり岩倉具視にも協力し、新政府の要人に絆を深め、岩倉の政治力で地方の政治に携わるように世話を受ける。
 明治元年(1868)落合直亮は陸前志波塩釜神社宮司、伊那県判事、3年後に伊那県大 参事(副知事)に昇進した。しかし、翌4年に冤罪で失脚、多くの国学者と同様に閉職に甘んじ、不遇のうちに明治27年没する。

◇信松院

<階段の頂部に荘厳な本堂が構える、信松院>

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松姫は武田家に縁のある多くの人達の精神的支柱となっている。

さらに養蚕と絹織物の普及に努め、今日の八王子の養蚕業に継がれるなど八王子の看板のお姫様である。
松姫は永禄3年(1560)武田信玄の4女として誕生する。7歳で織田信長の嫡男「信忠」と婚約するが両家が三方が原の戦いで婚約は破棄する。
信玄没後、織田勢が甲州征伐を開始、これに抗戦した髙遠城主の実兄(信玄5男)の仁科盛信は信忠の降伏勧告を拒否し自刃する。
松姫は姪たちを連れて従者とともに山中を逃避行し恩方村全照庵に逃れる。


<松姫は心源院をを訪ね、入道し信松尼と名乗る。>

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代官頭大久保長安や同心の庇護の元、現在の台町付近に信松院を営み、3人の遺児を養育する傍ら、近隣の子供たちに読み書きを教えた。
栄えある武田の娘でありながら、結婚の夢叶えず、身内の不幸など重ね追われ身。仏門に入り、遺児や子供たちの養育に生涯を八王子にかけた。

◇信松尼と会津松平家の始祖「保科正之」の奇縁
信松尼の晩年、二代将軍徳川秀忠の愛妾のお静の方が身ごもり、正妻の嫉妬を避けて身を隠した時に、それを守ったのが姉の見性院と信松尼と言われている。この子供が高遠の領主保科正光に養子として入り、後の会津松平家の始祖となる保科正之である。
髙遠の落城と兄の戦死から、始まった信松尼の逃避行は最後に守った子供を城主として返すことで叶えられたのでは無かろうか。


(松平家14代藩主の新選組パレード参加)

<信松院の加護に育った松平家の始祖と繋がりから時代を超えて14代目松平保久氏が日野に晴れやかな姿で登場された。>

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幕末動乱時期に会津松平藩は京都守護職として治安維持に一役を担い、その配下に新選組が活躍し、全国にその名を留める。義を信じ貫く心は会津も新選組も同じ、となびくものがあり、会津松平家第14代当主も自ら新選組パレードに参加された。日野と背中合わせの八王子の信松尼の手招きか、時代を超えて縁を感じる。


◇金丸四郎兵衛
金丸氏は甲州武田家の旧臣で後に徳川氏に仕え、四郎兵衛は各地の代官を勤めている。
 正徳4年(1714)7代将軍家継の生母月光院は自分の仕えている年寄り絵島を増上寺へ、代参させたが絵島は寺の接待を断り、山村座の芝居見物に行ってしまった。
 芝居が終わると茶屋に役者の生島新五郎を招いて大酒宴が寺の訴えから発覚し「絵島は遠島、生島新五郎は流罪」となる「絵島生島事件」であった。
代官・金丸四郎兵衛が関与し、「絵島生島事件」に連座して浪人となった。他の事件に巻き込まれため八王子の姉に頼ってきたものの、自首を勧められ、江戸へ帰る途中日野宝泉寺で切腹した。
 寺では四郎兵衛の遺骨を寺内に葬り、墓石を建て弔った。いつの頃かこの「金丸の墓」の墓石を撫でると病気が直ると言われ詣でる人も多かったと伝えられる。
墓石の脇に案内板が僅かにその記録を留めていたが、案内板もなくなり、知る人ぞ知るで忘れられた存在になってしまった。
そんな金丸四郎兵衛の名前が載っている金丸家の墓碑を信松院の募域近くで見つけることが出来た

◇八王子作りの原点はここから
1)大久保長安の誕生
天文14年(1545)大久保長安は甲州武田領の出身で猿楽師大蔵太夫十郎信安の次男として誕生する。兄の新之丞と一緒に武田信玄に取り立てられ、後に武士となる。
 天正10年(1582)武田氏滅亡後、駿河に移り、大久保姓を与えられ、推挙で家康へ出仕した。
 石見銀山・佐渡金山奉行となり やがては、日本全体の金銀山の総奉行となってしまう。
その才覚と英知がビッグな役回りに幕府の頂点に登りつめ鉱山の開発や増産で、徳川政権の財政基盤を確立させた人物と伝えられている。

2)八王子の原点はこうして誕生
大久保長安は徳川奉行の重臣として活躍する一方の英知から、浅川の害から守る治水計画、千人同心を配置し外敵から守る警備機能、江戸に繋がる街道に接続させ,・物の流れから文化交易を図る。
江戸から10里、甲州に繋がる幕府の一大拠点として、幕政を支えた代表的な宿の姿がこの絵に凝縮されている今日の八王子旧市街の原形は完成した。
行政の中心である大久保石見守長安陣屋跡は石見屋敷は東西に二分されていた。

<大久保石見守長安陣屋跡>

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東西併せて、14,000㎡ 規模の大きさは時の統率指揮した大久保長安の力を象徴するものであった。

3)長安没後の大悲劇
慶長18年(1613)四月に没した。享年、69歳。
立場上金銀を扱う役割から、武州八王子で国奉行として晩年迄、羽振りを利かせていた。
 長安の没後にその生前の振る舞いに怪しむ者がおり、訴えられた。
 家康は調査を開始すると、金銀5千貫、無数の金銀細工の道具類を私蔵していた事が発覚した。
 家康は、遺族七人を処刑し、一族は滅亡させられると言う厳しく凄惨な処分を行った。
この厳しい処分に後難を恐れ関係縁者が長安の関連するものは一切処分してしまったと言われている。

 

◇血梅の話
1)血梅の命名
この紅梅は早春になると薄紅色の花を咲かせるが、花はガクが大きく、花びらの小さい原種に近いような花で、現 在の華やかなものが多い紅梅に比べると、少し寂しいような花である。この梅の枝を切ると、中は血がにじんだように真っ赤なので、血梅という名で呼ばれているという
2)千人頭「石坂」と新選組「近藤勇」が交わした約束
この血梅は、もと八王子千人町の千人頭「石坂弥次右衛門」の屋敷内に植えられてい た梅で、日野宿北原に住んでいた千人同心井上松五郎は、この「石坂弥次右衛門組」の世話役を勤めていた。
近藤勇が浪士組に入る前、石坂家を訪れ、庭に咲く血梅に目をとめて、慎ましく咲く様を激賞し,後日接木(つぎき)か取木(とりき)をして贈ることを約束した。
しかし、この約束が果たせないまま、二人は時代の波に呑まれてしまう。 
 慶応4年(1868)新選組は甲陽鎮撫隊として勝沼で破れ「近藤勇」は板橋刑場の露と消えてしまう。
一方、「弥次右衛門」は日光勤番、官軍に、無血で東照宮等日光を引き渡し、抗戦派から日光で東征軍に恭順を示した責任を問われ、切腹する。
当時、介錯するはずの息子が不在で老父であったが、老齢で上手く行かず、のたうち回り、苦しんでの悲劇的な最期であった。
3)「弥次右衛門」の墓
甲州街道の喧騒から離れた住宅氏の一角に「興岳寺」がある。墓域は住宅地の中、周囲の高層住宅から見下ろされている。
多数の墓石群のほぼ中央に小屋にある「弥次右衛門」の墓石がある。墓石の手前左右に、2基の灯籠と水盤が並んでいる。死を悼む石坂組の隊士達が寄進し、灯籠台座には「弥次右衛門」に従って、帰国した「松崎和多伍郎」を始めとする日光勤番隊士45名の名が刻まれ ている。
 日光市から送られた香台には「日光市」が刻まれ、熱い絆を読み取れる。

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日光の社寺は国の誇れる遺産として国を越えて世界文化遺産に登録されている。
 墓石・灯籠共かなり風化しており、崩れている姿が年の経過を物語る。
4)残った梅
時は経ち石坂家も八王子を離れてしまい、梅の木も絶えてしまった。
 両士が愛し、また激賞したというこの血梅は千人町の石坂家の隣家の庭にひっそり残っていた。
日野宿本陣の裏側に谷さんが育て、その枝を石坂家の末裔の方が菩提寺にそっと植えられた。

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「弥次右衛門」の墓に植えられ、形の上で先祖帰り出来た。「弥次右衛門」の傍で、慎ましく、咲き、血梅を語り伝えてくれるだろう


◇旅巡りも無事に
八王子郷土資料館を皮切りに、最後は宋格院で、この旅は何とか終わった。
 八王子史跡は戦国時代から始まって、幕末まで、あそこも此処も、地域に残された文化として武田遺臣が深く関わってくる。
武田信玄の影響力の大きさを八王子史跡を通して思い知らされた。

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三浦休太郎あて近藤勇の「手紙」

新選組にかかわる大きな事件が当時重なり、当時の緊迫した一片を伝える近藤勇の手紙が発見された。
坂本竜馬のいろは丸沈没事件から竜馬殺害される。
折しも、新選組から離れた伊東甲太郎以下御陵衛士殺害事件が重なる。
手紙に関わる事件として、いろは丸事件から、油小路事件で起きた出来事を含め時系列に並べ、この手紙の背景を整理してみた

<慶応3年(1867年)>、
★4月23日海援隊は龍馬以下、海援隊士が乗り組み、物資を積み、いろは丸長崎を出港して大阪方面を目指した。
瀬戸内海、航行中の紀州和歌山藩の明光丸と衝突し、沈没する。

<瀬戸内海で沈没したいろは丸>

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竜馬のいろは丸沈没で紀州藩に賠償金8万両(164億)の支払いを請求する。
★11月7日に賠償金は長崎で紀州藩は土佐藩に支払われた。

◇伊東甲子太郎らが新選組が御陵衛士に分離、同行した斉藤一が御陵衛士が勇の暗殺計画を聞きつける。
◇11月10日斉藤一が新選組に帰隊し 勇の暗殺計画を報告する
それを聞き激怒した新選組は伊東をはじめとする御陵衛士の殺害を計画する。

★11月15日 坂本龍馬、中岡慎太郎龍馬は京都川原町の近江屋で暗殺された。

暗殺(近江屋事件)の黒幕が多額の弁償金の怨恨から佐幕論者で紀州藩士三浦休太郎を容疑者にされる。
海援隊士・陸援隊は三浦休太郎を討つことを計画する。
危険を感じた紀州藩は、会津藩を通して新選組に三浦の警護を依頼した。三浦休太郎の護衛に急きょ新選組の斎藤一、大石鍬次郎ら7名がついた。

◇11月18日新選組は伊東甲太郎殺害し、伊東遺体引き取りで訪れた御陵衛士残党を襲撃する

<伊東甲子太郎が殺害された付近の本光寺>

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11月18日油小路事件で御陵衛士の中に二刀流の使い手で、凄腕の服部武雄がおり、近藤は戦える相手として斉藤一が必要と判断した。
斉藤は急遽三浦の警護を解いて油子路に向かわした

御陵衛士と新選組の大乱闘で服部武雄も亡くなった一人であった。
服部は油小路事件で伊東の屍骸を引き取りの際、ただ一人密かに鎖帷子を着ていた。
同志を逃がすために塀を背にして多勢の新選組を相手に討死覚悟で最期まで孤軍奮闘したと伝えられる。服部の身を挺しての奮闘で4人は逃走する。
この時の4人の中で、生き残った加納鷲雄であった。
後々、薩摩藩に入った加納は流山で捕まった勇の大久保大和の変名を見破り、勇を処刑に追い込んだ。

*事件当日、近藤勇から三浦休太郎あて詫びの手紙を書いている
新選組と御陵衛士との間では一旦御陵衛士に行ったものは返さないという約束から山口二郎とされている

★12月7日天満屋で三浦と新選組が宴会中に海援隊に襲撃される。(天満屋事件)

「ごめんね手紙」(勝手につけた名称)
油小路事件の当日、近藤勇が戻したことに対する三浦休太郎への詫び状である。
勇が書いた手紙が彦五郎に託されたが、五日市の羽生家に眠ったまま昭和63年(1988)羽生家から発見された。
慶応4年(1868)3月甲陽鎮部隊が勝沼で敗れ、後を追った彦五郎が厳しい探索の官軍に追われ、五日市まで逃走し、匿われたがその時に預け、120年間眠った「ごめんね手紙」であった。
当時の生々しい事件が重なり凝縮された中で、その一端の手紙が今日に伝えられ身震いを覚える2019年5月6日まで、佐藤新選組資料館で限定掲示された。

いろは丸事件から、油小路事件などの紹介記事はこちれでも掲載されています。ご覧ください

届かなかった近藤勇の「ごめん手紙」 

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深山の名勝を伝える「小石川後楽園」にゆく

小石川後楽園に散策がてら行ってみた。
後楽園と言うと、読売巨人のドーム型球場、ジェットコースター、ショッピング モールがある都市型エンターテインメント複合施設が浸透してしまうが、その隣接地帯に、水戸徳川家の手を尽くした深山幽谷の世界が残されている。
JR中央線沿うように流れる神田川を水道橋駅から渡れば目の前が歓楽地帯にあり、人並みの絶えない、雑踏でごった返す都会のど真ん中にある。
しかし、一連の後楽園のネーミングに押し流され、ここ小石川後楽園が後楽園の誕生の原点なのである。
今日に至って後楽園に敢えて小石川の冠をつけているのは識別するための呼称のようで、ここが後楽園の歴史の原点をであることを、余り知られていない。その広報活動を含めガイドさんは拘りをもって冠をつけず「後楽園」の呼称で通している。

慶長5年(1600)9月関ヶ原で勝利で家康は天下取りは一段落。ほっとしたのか、間もなく9男、10男、11男と子宝に恵まれた。それぞれ、尾張、紀州、水戸の御三家と言われる家康を継ぐ始祖が誕生している。その11男「頼房」水戸家の始祖なのである。
36万石の小藩主ながら負担となる参勤交代を唯一免ぜられる水戸藩誇りとなった「江戸定府」となっており、水戸徳川屋敷が誕生する。
初代「頼房」と二代「光圀」が継承し長い歳月をかけて寛永6年(1629)小石川(現後楽園)に9万9千坪の広大な上屋敷が回遊式庭園として築造される。

<水戸光圀>
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誉れ高い明の徴士、朱舜水は没落する、明から亡命する。光圀は人柄と秀でた学問に師として迎え、亡くなるまで礼を尽く厚遇している。
光圀は後楽園の造園にあたり、身近にいる朱舜水の意見を取り入れ、後楽園と命名され中国趣味豊かな庭園が誕生する。
その中国趣味として代表的な事例は、「円月橋」、「西湖堤」などで、具体化され、朱舜水の思いが残されている。
日本における各地の大名庭園作りに少なからず影響していると言われている。

<朱舜水>

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後楽とは遺臣「朱舜水」から名付けられ士は当(まさ)に天下の憂いに先じて憂い、すなわち 天下の楽しみに後れて楽しむ べしと言うことで「先憂後楽」は水戸藩の藩風になっている
中国明の遺臣「朱舜水」の書「後楽園」という扁額を入り口に掲げたと言われている。

園内は池を囲むように散策路があり、出入り口を起点に反時計方向に周回する。、熱を帯びた ガイドさんの案内に凡そ2時間、水戸徳川家の遺構を背景にタイムスリップ出来た。その代表点を紹介する

◇渡月橋(とげつきょう)

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京都の嵐山は平安時代の貴族の別荘地で観月の名所と言われている。それに類したものを後楽園でも作り たいと亀山天皇が仲秋の名月として月が橋の上を刻々と渡る風情を確かめられることから月橋(げっきょう)と言われている。
 流れる川は京の嵐山の下に流れる大堰(い)川で、現在の名称は桂川で統一されている。
 川と大小の石の配置、わずか10mほどの土橋の真ん中に立ち止まってみると、嵐山の風景を映している。

◇西湖の堤

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中国の杭州(現在の浙江省)の西湖の堤に見立てたものである。西湖の堤は中国の名勝地で現在世界遺産になっている。
 堤は道の両側に湖が広がる歩道である。現物はまるで西湖の上を散歩しているかのように錯覚してしまうと言われ、その神秘的な美しさは見る者を圧倒しする。
 美しい湖畔は季節や時間によって表情を変え、多くの人々を魅了している。

◇通天橋

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堰川にかかる橋である。紅葉の名所、京都東福寺の通天橋を模して造られたようである。
鬱蒼たる自然の中色鮮やかな朱色が、目立ち存在感を表している。
回遊路の頂部にあった観音堂から、今度は階段を一気に駆け降りと行きたい所だが、不安定な石段に、一歩 一歩確かめながら降りてゆく。ここは春が桜、夏は新緑、秋はもみじ、冬は落葉樹で四季折々の風情が確か められるが,皆足元に集中し、周りを見る余裕もない。
 紅葉の季節にはまた変わった風情が確かめられる絵になる場所である。先ほどの危険な急階段から、緩や か勾配の橋上で渓谷の風情を眺め、小休止出来る。
◇小廬山の山頂から

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山岳路から離れ、ぽっかり空間に晒され、小道を行くと小廬山の展望台に出る。
ここ小廬山は中国の景勝地から生まれ林廬山名前をつけた。
足元もおかめざさを超えて、園内の素晴らしい眺望が確かめられ、その風情に吸い込まれ、離れがたい場所である。鮮やかに刈り込まれた表面が、狂いなく、細部まで徹底した手入れに職人の心行きを感じる。
その背後は高層のビル群に取り込まれている様子が伺われる。その左側がお碗を被せたような ドームが控える。 時々、あがる歓声は遮るものなく、直に園内に響き渡る。その姿は見えないがジェットコースターの急降下での悲鳴だけが、あたりの静寂な空気を破り、伝わってくる。


◇円月橋

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この橋は石を組み合わせ、石と石が横にぶつかり合う力を利用しており、上からのひずみに強い。
側面のタイルの石積みも拘りを持って、デザインされている。 朱舜水の設計指導で製作 橋が水面に写る形が満月と言われでいるが、舜水の豊かな発想が生かされ、水面に輝いている。


◇藤田東湖の碑

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園内の西北端に藤田東湖の碑がある
幕末時、水戸藩は抗争の嵐の中、西郷隆盛・、吉田松陰など全国の尊皇志士に大きな影響を与えた藤田東湖は水戸学藤田派の後継として才を発揮し、水戸学の地位を確立する。
徳川斉昭に絶大な信用から藩政を支えたが、 尊皇攘夷の運動は水戸藩から始まり、桜田門外の変、東禅寺焼き討ち、坂下門など皆、水戸が出てくる。
その指導者は斉昭で、具体的な推進者は藤田東湖らの側近であった。
斉昭を支えるのは下級武士が殆どであり、中には農民出身も含まれ、 成り上がり者が権力を握り鼻を高くしたから天狗になったと言われている。
 藩の内政を重点に家柄の高い保守門閥派と、この天狗党との間に抗争が展開されていく。
 安政2年(1855)に発生した安政の大地震の際、母親を守ったが自身は力尽き下敷きとなって圧死する。


◇大泉水

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この庭園の中心的景観が大泉水と言われている。水面に浮かぶのは蓬莱島で中国に古くからあった神仙思想に基づく島で、東方のはるか彼方の海上にあったと言われいる。そこには、神仙人が住んでおり、今も幸福な生活を送っている理想郷だとの説く思想である。
 蓬莱島の先端に築造した庭師・徳大寺佐兵衛にちなみ「徳大寺石」や弁財天を祀った祠がある。


◇双葉葵で最後を飾る

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後楽園の園内周回、コースの最後を飾るにふさわしい葵の御紋に迎えられ後楽園の周回は終わった。加工された装飾品でなく、独特の模様をあしらった生の葉っぱは実に鮮やかに輝いていた。

詳細は記事はこちらでも、紹介されています。ご覧ください。
「深山の名勝を伝える小石川後楽園」

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「龍馬」と「おりょう」の軌跡が蘇る

寒風吹きまくり厳しい寒さの中、猫背の背中を更に折り曲げ、10数分続く神明の長い坂をおり漸く本陣に辿りつく。
当日は氷点下の世界、風が吹きまくり、体感温度は更に低く、こんな寒い日になんと言う巡り合わせの悪さ、と思いつつ、終日ここで守らなければならない。
この寒気に、来る当てのない客を前に本陣の隅っこの一角のホットカーペットの、温もりで人の気配を敏感に反応する砂利音に聞き耳をたて待機する。
静寂な館内、何処となく、日差しのない館内は薄暗く、開けっ放しの式台越しに、入ってくる風が館内を吹き抜ける。
そんな寒中の中でも厭わず、熱心なフアンが全国からやってくる。
親子、家族、友達と複数群れ会う集団はもとより、他人と群れず一人でじっくり見識を深めようと歴史の世界に心酔するフアンが多いのも、この世界の特徴かもしれない。
寒い中、であったが昼前後は温かさに後押しされ、入館ラッシュで切れ目なく、賑わいを見せ、対応に追われる。
しかし、日も陰る時間帯になると、人並みが徐々に途絶え、あの賑やかさは何処にと変化する。
緊張の対応から、周りを見回す余裕が生まれ、今日はこれで幕引きかなと、当日の終焉が自然と頭をよぎってくる。
◇人気のない世界に突如の来館者
人気のない館内は寒く感じられ、ホットーカーペットで暖を取りながら、止まってしまった時間の経過を追った。
日が落ちる早さもあって周辺が益々暗くなり、和室独特の雰囲気に此処で暮らしていた先人が見え隠れるような幻想の世界に包まれる。
最早、今日は此処までと思っていたが歴史好きの女性がやってきて、一旦閉じられた脳内が再び開かれる。
案内するにも、視点を合わせることも必要から、どんな期待感を膨らまして、此処まで来られたのであろうか、伺って見る。
現在は都心に住んで居るが、出は四国から、龍馬フアンと吐露された。幕末の世界、龍馬自身が全国くまなく駆け回っており、一通り龍馬の影を追っておられる様子であった。
龍馬と新選組の関係はその場では思いつかなかったが後でこんなことを思い出した

◇坂本龍馬と新選組
慶応3年(1867年)11月15日の坂本竜馬暗殺される。
紀州藩士の三浦休太郎は『いろは丸沈没事件』の際に多額の弁償金を負い、龍馬に対する恨みを持ち、坂本龍馬暗殺の疑いを持たれ海援隊から命を狙われていた。
そのため三浦は会津播を通じて新選組に身辺警備依頼していた。
慶応3年12月7日三浦が旅宿していた京の天満屋を海援隊と陸援隊が襲撃、新選組と斬り合い、近藤勇のおいで新選組の宮川新吉が戦死するなど双方で死傷者を出している大きな事件であった。天満屋事件とも言われ新選組が京都で剣と剣を交えた最後の戦いと言われている。
戊辰役に踏み入れる前に、倒幕の嵐が吹きまくり、龍馬と新選組との間でこんな接点があったのだ。
そんな話は出なかったが、直感的に、『龍馬VS新選組』の構図が僅かに、霞み、テーブルを挟んでお手柔らかにと思わず言葉が出てしまった。(笑い)

◇龍馬の踏み跡を巡る
全国を叉に駆けめぐった龍馬の追い込みは流石半端ではなかった。
以下、語られた思い出の場所は目を輝かし、澱みなく語って頂いた。
①龍馬襲撃された、京都伏見の寺田屋
②「中岡慎太郎」と共に凶刃に倒れた京都河原町の近江屋。
③寺田屋で負った傷の養生でおりょうと霧島などの温泉。流石、高千穂の峰の登山は控えた。
④美貌、フアンも多く晩年、おりょうが仲居を勤めた横浜台町の割烹料亭「田中家」
⑤横須賀市大津のおりょうが眠る信楽寺の本堂に木彫りの「龍馬」と「おりょう」「月琴(げっきん)」の姿等々かっての大河ドラマの『龍馬伝』に多少染まり、薄らいだ記憶の中から、断片的な単語が浮かび懐かしく蘇った。

◇驚きの見学先
ダイナミックに生きた龍馬が波瀾万丈の世界で華々しく戦い散っていった象徴的な、場所として①②は見逃せない場所であろう。
③の短いおりょうとの蜜月の旅を追って霧島まで行かれ、高千穂の峰の前で、悔しい思いで諦めた登山など場所を厭わず、追ったこと。

<1574mの「高千穂の峰」は二人が登山した山の一つである。
赤い土がわらわら零れ落ちてくるような急な傾斜は身を挺して這い登る中々厳しい山のようである。 着物に草鞋姿の二人、四つんばいになりながらの登山はさぞ、厳しいものであったろう>

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⑤の一フアンとして信楽寺におりょうの眠る墓参に留まるが、敢えて本堂に上がり、二人の馴れ染めた木造姿と龍馬が買った月琴(模造品)が置き並べられた神聖な世界を見てきたことなど半端ではなかった。
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龍馬の踏み跡を追い、全国を途破した筋金入りスーパー歴女であった。
龍馬愛に心酔されるお話に留まる所知らず、詳らかにご披露頂き、改めて、その一旦を触れられた。Oryou308◇惜しまれつつ退館
此処本陣は何時来たかは定かではなく二度目の来館であること、思わぬ龍馬との語り合いに驚かれたのではなかろうか・・・。
何時ものルーチンの流れに沿った御案内に入って頂いた。
もう閉館の声に、熱く濃い話を交えた話はそれまでとなってしまった。
幕末の空気が漂う館内に何時までも浸って居たかったようであるが、惜しみつつ、また来館での出会いが生まれることを、祈り、お別れした。

改めて、記憶が遠ざかった当時の写真を引っ張りだしてみた。

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本陣の梅も芽吹いた

◇歳三、没後150年
歳三が函館一本木関門付近で亡くなったのが明治2年で西暦に換算して1869年である。
今年が2019年であり丁度没後150年目の節目にあたる。
函館で旧幕府軍の幹部の一人として新政府軍と戦い、銃弾に倒れ生涯を閉じた。
旧幕府軍は降伏、日本は新政府の元、新しい時代を迎え、幕府を支えたサムライ文化の終焉でもあった。
平成29年度に、市内を通る中央線、京王線、多摩モノレール沿線24区市を対象として実施した「日野市認知度等調査」では、新選組と聞いて思い浮かべるキーワードの第1位が「土方歳三」であったようである。
 土方歳三の高い認知度を通して、市の認知度向上に繋げるため、歳三没後150年を迎える本年は、通年にない『歳三』にスポットを当てた活動が予定されているようである。
先日、物凄い烈風の中、市役所前の公園で僅か10数人前後でセレモニーを行われ、何事と思ったら、歳三ラッピングタクシーのお披露目であった。

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寒さの中もあって、関係者だけのセレモニーであったが、怒派手な車両が目についた。
タクシー車両として市内に疾走し、いやでも目に入る。
更に市内を縦断する鉄路では中央本線の特急の先頭車両にも歳三の絵姿が飾られ、甲陽鎮撫隊の影を追うように甲州路を疾走するImages1
目につきやすい、タクシー、特急列車が先ずは歳三宣伝の一役を担っている。
そんなこともあって、周囲は緩やかに歳三で燃えている。

農家に生まれながら、武士らしく生き、その統率力から旧幕軍の幹部として上り詰めた歳三は日野が生んだ幕末のヒーロである。
2004年、大河ドラマ新選組として、山本耕史がその役回りを見事に演じ、メデイアを通じて、新選組が再び火がついた。
あれから既に15年余りの時の経過、その大河ドラマを知らない世代もかなり居るぐらいにフアン層が変わってきていることも事実である。
その歳三(山本耕史)が再び日野にやってきた。Img1791
本陣に訪れ、応時を思い出しながら、土方を演じたことは役者人生でも大きな出来事の一つであったこと、一般市民との出会いで声をかけられ、新選組と土方歳三が、しっかり根を降ろしていることに感動しているようであった。丸みを帯びた風貌に10数年の経過も歳三の目がらんらんと輝いていた。

◇本陣の梅が芽吹く
日曜日もあって、木枯らし吹く、寒い日であったが、東京地方は全く雨がなく、からからの陽気。極寒の朝、中庭でホースで水撒き、水回りが凍りつき、思うように出てこず、敬遠されている。

「だから敢えてやってやるぞ」と水撒きに取り組む、漸く出てきた噴射水に、土の部分からもうもうと土埃が舞い上がり、たちまち大地に吸い込まれてしまうが、周辺の木々を含め、恵みの水洗礼に生き生きと蘇った。
中庭、回廊脇のの2本の梅の木、日当たりの良い方が早くも真っ赤なツボミが着実に春の訪れを伝えている。

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1月もあっと言う間に押し迫るこの時期であるが、時代をさかのぼると歳三の姉おのぶさんが佐藤家に嫁ぎ33年間、子育ても果し、明治10年1月、正月を迎えて間もなく47歳で雪の降る日に遺ってしまった。
梅の咲き具合から、彦五郎と生前の、妻おのぶさんと対話していたことを亡き妻との思い出を俳句で飾っている。
「散る雪や柳を見ても、梅見ても」
建物の前の真っ赤なツボミの梅の木に、多趣味の本郷名主佐藤彦五郎の俳号、春日庵盛車の一句に、以下の言葉を併せ残している。
33年の春秋も実に夢の如く、只幻に残りて一個の木枕へと応えず、(おのぶよと言っても応えなく)青木翁の愁情も今更思いやられるばかり(青木翁が亡くなり、寂しがっていたがそのときに余り聞いていなかったが、自分の妻を亡くして、今更思いやられる)
生前夫婦間で交わした対話に出てくる柳、梅を雪を素材に幻想的な世界、残された木枕を前に悔やむ思いを切々と伝えている。

そんな舞台装置を背景に茶間から見える姿が改めてこの俳句を作った彦五郎さんの感性が彷彿される。
日中は切れ目なく全国から来館者を迎え、恐らく新選組フアンが根強く繋がっている。
そんな話に一生懸命聞いて頂いたフアンに何か響くものがあったようで、嬉しかった。

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