「龍馬」と「おりょう」の軌跡が蘇る

寒風吹きまくり厳しい寒さの中、猫背の背中を更に折り曲げ、10数分続く神明の長い坂をおり漸く本陣に辿りつく。
当日は氷点下の世界、風が吹きまくり、体感温度は更に低く、こんな寒い日になんと言う巡り合わせの悪さ、と思いつつ、終日ここで守らなければならない。
この寒気に、来る当てのない客を前に本陣の隅っこの一角のホットカーペットの、温もりで人の気配を敏感に反応する砂利音に聞き耳をたて待機する。
静寂な館内、何処となく、日差しのない館内は薄暗く、開けっ放しの式台越しに、入ってくる風が館内を吹き抜ける。
そんな寒中の中でも厭わず、熱心なフアンが全国からやってくる。
親子、家族、友達と複数群れ会う集団はもとより、他人と群れず一人でじっくり見識を深めようと歴史の世界に心酔するフアンが多いのも、この世界の特徴かもしれない。
寒い中、であったが昼前後は温かさに後押しされ、入館ラッシュで切れ目なく、賑わいを見せ、対応に追われる。
しかし、日も陰る時間帯になると、人並みが徐々に途絶え、あの賑やかさは何処にと変化する。
緊張の対応から、周りを見回す余裕が生まれ、今日はこれで幕引きかなと、当日の終焉が自然と頭をよぎってくる。
◇人気のない世界に突如の来館者
人気のない館内は寒く感じられ、ホットーカーペットで暖を取りながら、止まってしまった時間の経過を追った。
日が落ちる早さもあって周辺が益々暗くなり、和室独特の雰囲気に此処で暮らしていた先人が見え隠れるような幻想の世界に包まれる。
最早、今日は此処までと思っていたが歴史好きの女性がやってきて、一旦閉じられた脳内が再び開かれる。
案内するにも、視点を合わせることも必要から、どんな期待感を膨らまして、此処まで来られたのであろうか、伺って見る。
現在は都心に住んで居るが、出は四国から、龍馬フアンと吐露された。幕末の世界、龍馬自身が全国くまなく駆け回っており、一通り龍馬の影を追っておられる様子であった。
龍馬と新選組の関係はその場では思いつかなかったが後でこんなことを思い出した

◇坂本龍馬と新選組
慶応3年(1867年)11月15日の坂本竜馬暗殺される。
紀州藩士の三浦休太郎は『いろは丸沈没事件』の際に多額の弁償金を負い、龍馬に対する恨みを持ち、坂本龍馬暗殺の疑いを持たれ海援隊から命を狙われていた。
そのため三浦は会津播を通じて新選組に身辺警備依頼していた。
慶応3年12月7日三浦が旅宿していた京の天満屋を海援隊と陸援隊が襲撃、新選組と斬り合い、近藤勇のおいで新選組の宮川新吉が戦死するなど双方で死傷者を出している大きな事件であった。天満屋事件とも言われ新選組が京都で剣と剣を交えた最後の戦いと言われている。
戊辰役に踏み入れる前に、倒幕の嵐が吹きまくり、龍馬と新選組との間でこんな接点があったのだ。
そんな話は出なかったが、直感的に、『龍馬VS新選組』の構図が僅かに、霞み、テーブルを挟んでお手柔らかにと思わず言葉が出てしまった。(笑い)

◇龍馬の踏み跡を巡る
全国を叉に駆けめぐった龍馬の追い込みは流石半端ではなかった。
以下、語られた思い出の場所は目を輝かし、澱みなく語って頂いた。
①龍馬襲撃された、京都伏見の寺田屋
②「中岡慎太郎」と共に凶刃に倒れた京都河原町の近江屋。
③寺田屋で負った傷の養生でおりょうと霧島などの温泉。流石、高千穂の峰の登山は控えた。
④美貌、フアンも多く晩年、おりょうが仲居を勤めた横浜台町の割烹料亭「田中家」
⑤横須賀市大津のおりょうが眠る信楽寺の本堂に木彫りの「龍馬」と「おりょう」「月琴(げっきん)」の姿等々かっての大河ドラマの『龍馬伝』に多少染まり、薄らいだ記憶の中から、断片的な単語が浮かび懐かしく蘇った。

◇驚きの見学先
ダイナミックに生きた龍馬が波瀾万丈の世界で華々しく戦い散っていった象徴的な、場所として①②は見逃せない場所であろう。
③の短いおりょうとの蜜月の旅を追って霧島まで行かれ、高千穂の峰の前で、悔しい思いで諦めた登山など場所を厭わず、追ったこと。

<1574mの「高千穂の峰」は二人が登山した山の一つである。
赤い土がわらわら零れ落ちてくるような急な傾斜は身を挺して這い登る中々厳しい山のようである。 着物に草鞋姿の二人、四つんばいになりながらの登山はさぞ、厳しいものであったろう>

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⑤の一フアンとして信楽寺におりょうの眠る墓参に留まるが、敢えて本堂に上がり、二人の馴れ染めた木造姿と龍馬が買った月琴(模造品)が置き並べられた神聖な世界を見てきたことなど半端ではなかった。
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龍馬の踏み跡を追い、全国を途破した筋金入りスーパー歴女であった。
龍馬愛に心酔されるお話に留まる所知らず、詳らかにご披露頂き、改めて、その一旦を触れられた。Oryou308◇惜しまれつつ退館
此処本陣は何時来たかは定かではなく二度目の来館であること、思わぬ龍馬との語り合いに驚かれたのではなかろうか・・・。
何時ものルーチンの流れに沿った御案内に入って頂いた。
もう閉館の声に、熱く濃い話を交えた話はそれまでとなってしまった。
幕末の空気が漂う館内に何時までも浸って居たかったようであるが、惜しみつつ、また来館での出会いが生まれることを、祈り、お別れした。

改めて、記憶が遠ざかった当時の写真を引っ張りだしてみた。

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本陣の梅も芽吹いた

◇歳三、没後150年
歳三が函館一本木関門付近で亡くなったのが明治2年で西暦に換算して1869年である。
今年が2019年であり丁度没後150年目の節目にあたる。
函館で旧幕府軍の幹部の一人として新政府軍と戦い、銃弾に倒れ生涯を閉じた。
旧幕府軍は降伏、日本は新政府の元、新しい時代を迎え、幕府を支えたサムライ文化の終焉でもあった。
平成29年度に、市内を通る中央線、京王線、多摩モノレール沿線24区市を対象として実施した「日野市認知度等調査」では、新選組と聞いて思い浮かべるキーワードの第1位が「土方歳三」であったようである。
 土方歳三の高い認知度を通して、市の認知度向上に繋げるため、歳三没後150年を迎える本年は、通年にない『歳三』にスポットを当てた活動が予定されているようである。
先日、物凄い烈風の中、市役所前の公園で僅か10数人前後でセレモニーを行われ、何事と思ったら、歳三ラッピングタクシーのお披露目であった。

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寒さの中もあって、関係者だけのセレモニーであったが、怒派手な車両が目についた。
タクシー車両として市内に疾走し、いやでも目に入る。
更に市内を縦断する鉄路では中央本線の特急の先頭車両にも歳三の絵姿が飾られ、甲陽鎮撫隊の影を追うように甲州路を疾走するImages1
目につきやすい、タクシー、特急列車が先ずは歳三宣伝の一役を担っている。
そんなこともあって、周囲は緩やかに歳三で燃えている。

農家に生まれながら、武士らしく生き、その統率力から旧幕軍の幹部として上り詰めた歳三は日野が生んだ幕末のヒーロである。
2004年、大河ドラマ新選組として、山本耕史がその役回りを見事に演じ、メデイアを通じて、新選組が再び火がついた。
あれから既に15年余りの時の経過、その大河ドラマを知らない世代もかなり居るぐらいにフアン層が変わってきていることも事実である。
その歳三(山本耕史)が再び日野にやってきた。Img1791
本陣に訪れ、応時を思い出しながら、土方を演じたことは役者人生でも大きな出来事の一つであったこと、一般市民との出会いで声をかけられ、新選組と土方歳三が、しっかり根を降ろしていることに感動しているようであった。丸みを帯びた風貌に10数年の経過も歳三の目がらんらんと輝いていた。

◇本陣の梅が芽吹く
日曜日もあって、木枯らし吹く、寒い日であったが、東京地方は全く雨がなく、からからの陽気。極寒の朝、中庭でホースで水撒き、水回りが凍りつき、思うように出てこず、敬遠されている。

「だから敢えてやってやるぞ」と水撒きに取り組む、漸く出てきた噴射水に、土の部分からもうもうと土埃が舞い上がり、たちまち大地に吸い込まれてしまうが、周辺の木々を含め、恵みの水洗礼に生き生きと蘇った。
中庭、回廊脇のの2本の梅の木、日当たりの良い方が早くも真っ赤なツボミが着実に春の訪れを伝えている。

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1月もあっと言う間に押し迫るこの時期であるが、時代をさかのぼると歳三の姉おのぶさんが佐藤家に嫁ぎ33年間、子育ても果し、明治10年1月、正月を迎えて間もなく47歳で雪の降る日に遺ってしまった。
梅の咲き具合から、彦五郎と生前の、妻おのぶさんと対話していたことを亡き妻との思い出を俳句で飾っている。
「散る雪や柳を見ても、梅見ても」
建物の前の真っ赤なツボミの梅の木に、多趣味の本郷名主佐藤彦五郎の俳号、春日庵盛車の一句に、以下の言葉を併せ残している。
33年の春秋も実に夢の如く、只幻に残りて一個の木枕へと応えず、(おのぶよと言っても応えなく)青木翁の愁情も今更思いやられるばかり(青木翁が亡くなり、寂しがっていたがそのときに余り聞いていなかったが、自分の妻を亡くして、今更思いやられる)
生前夫婦間で交わした対話に出てくる柳、梅を雪を素材に幻想的な世界、残された木枕を前に悔やむ思いを切々と伝えている。

そんな舞台装置を背景に茶間から見える姿が改めてこの俳句を作った彦五郎さんの感性が彷彿される。
日中は切れ目なく全国から来館者を迎え、恐らく新選組フアンが根強く繋がっている。
そんな話に一生懸命聞いて頂いたフアンに何か響くものがあったようで、嬉しかった。

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大河ドラマ『西郷どん』 も終わった

大河ドラマ『西郷ドン』も終わってしまった。

<雌雄を決する戦いの場であった現代の熊本城>

Image111その舞台となった西南戦争は圧倒的な物量を誇る政府軍に抗戦し、熊本から始まり、宮崎の延岡地方の和田越えで数千の薩軍、数万の政府軍と最後の大会戦で敗北した。既に300余の薩軍は重包囲網を突破し、道無き山岳路を駆け抜け鹿児島の城山で戦い、西郷以下亡くなり、西南戦争は終わった。
仰向けに天を仰ぎ亡くなる姿は印象的であった。

<花岡山で陣を敷く西郷軍が大砲を引き揚げ熊本城を砲撃する。
城下には火の手が上がり城は煙に包まれる。西郷軍は熊本城を落とせず撤退する>

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◇西南戦争終了後

激しい政争の渦の中政局牛耳ったは大久保利通は西南戦争後、西郷の信奉者から紀尾井坂で大久保が暗殺される。残された記録から、大久保は全身に16箇所の傷を受けており、そのうちの半数は、頭部に対するもので「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」とあり、激しい怨恨も込められていた。

◇大河ドラマ始まる前、供養祭で大河ドラマの話が話題に
2017年3月新選組隊士百五十回忌総供養祭で松平家14代目藩主松平保久さん「会津藩と新選組」講演された。
『元々接点のなかった「会津藩と新選組」は"誠と愚直"の言葉が二者を繋げるキーワードである。
大河ドラマ「八重の桜」でかなり朝敵の汚名が消せると言う思いで、皆大騒ぎして見ていた。かなり会津贔屓でドラマ化され、私自身としては嬉しかった。
来年の大河ドラマは西郷隆盛を予定されて居るが、個人的には八重の桜の再放送でもあったらなんて、冗談で思ったりしている』
(会場はどちらかといえば東軍よりの聴衆で、自然に反応し爆笑、大拍手、一番会場が盛り上がった)
会津藩を称して『愚直』ということであった。
松平容保公は松平慶永公から京都守護職を拝命されたときに、危険な役回りに藩内でも反対者が多い。
決定に躊躇したが、最後は真之公が作った会津藩の憲法、家訓(かきん)15箇条から、苦渋の決断であったようである。
これが、戊辰役で、味方が続々離脱する中で最後は会津藩だけが取り残され、結果的に2973名の大量な犠牲者からなる悲劇が生まれる結果になってしまう。
そんな「八重の桜」が『西郷ドン』に繋がり、倒幕を終え、明治6年の政変が新日本の向かうべき世界が描かれている。

◇展開は「激しい抗争の嵐の維新」であった
岩倉使節団帰国後、政局は大久保利通を中核の派とそれに反対するる真っ二つに分裂し、西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・江藤新兵・副島種臣のらが離れ、併せて自由民権運動や士族反乱が生まれていく岩倉具視が襲撃され、初代司法郷の江藤新平は佐賀の乱で処刑後梟首される。
西郷は反政府活動家に担がれ反政府の要として政府軍と戦う西南戦争で戦死する。
最後に西郷の信奉者から紀尾井坂で大久保が暗殺される。
国造りを巡る派遣争いから、一連のテロ活動や国内内戦で瞬く間に政府の中核が次々と失っている。

◇福沢諭吉が、西郷隆盛をべた褒め
そもそも西郷は、維新の時には徳川幕府を転覆し、維新後は西南戦争で不運に失敗に終わった。
しかるに最初の反逆には忠義の名を与え、後の反逆には国賊の名を与える、というのは筋の通らない話だ。
西郷が征韓論に破れて鹿児島に退いた時、政府による圧制が強まり、その噂が西の方にも流れてくるようになって、西郷旗下の連中は義憤に駆られ政府転覆の挙に及んだのである。
西郷の側の抵抗精神とは、政府の暴虐を正して一国を発展せしむる原動力となるものだ。人民の間に抵抗精神がなくなれば、その国民は衰退するほか道はない。
したがって西郷のような抵抗精神の豊富な人材を持ったことを、日本人は誇りとしなければならない。
西郷といえば、維新最大の功労者である。その功労者を、維新政府は、権力争いの末に殺してしまった。
福沢は、西郷の死が日本にとっていかに損失となったかを嘆きながら、この小論を結んでいるのである。

◇戦いの最中『明治天皇行幸』が行われた
こうして勝者・敗者の鮮烈を究める激しい抗争の中、生き残った要人が政治の中核を担う。
その事件も覚めやらぬ中、明治天皇以下中枢を担う三条実朝、伊藤博文他、要人300~400人の行列の豪壮な国内各地への明治天皇行幸に行われている。
激しい政権争いの中、勝ち取った大久保が新しい国づくりに邁進する中、恐らく企画した行幸に違いない。
そんな成果の行幸を見ないまま、消え去り、その遺志が三条実朝、伊藤博文によって継がれた。

明治10年西南戦争勃発時期に天皇は近畿地方を行幸中で京都を巡行する直前に西郷軍が進撃開始。天皇は東京へ戻らず急遽京都に滞在された。

このきらびやかな行幸の蔭に雌雄を架けた抗争が渦巻いていた。

<明治天皇の行幸姿>1181

・・・と色々話題はつきない

その一端について>『ようこそ幕末の世界』で纏めてみました。
ご覧いただければ幸甚です。

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武田信玄の陣中食『ほうとう』

風林火山は、甲斐の戦国大名・武田信玄の旗指物(軍旗)に記されたとされている。
「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」(疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し)の通称である

◇武田信玄の強さ

        <風林火山の旗をかざし、赤備えの軍団>

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    <武田勝頼香まつりから、甲冑姿も、まぶしく勇ましい>Img1511武田信玄には赤備えの軍隊があった。武具、甲冑を赤一色で統一したド派手な見た目の軍隊である。
さらにその軍隊は騎馬隊で構成されており、戦場では半端ない強さを発揮した。
武田信玄の掲げる旗印『風林火山』の『火』の意味は、侵略すること火の如しであるが、武田の戦法もまさにその通りだったようである。
敵陣に、騎馬隊が一気に突っ込んで先ず敵陣を崩す。追い打ちをかけるように槍隊、歩兵が更にに突っ込んで敵を倒す。怒涛の攻撃で敵を圧倒し、甲斐を制圧し、周辺地域も配下に領地を広げた『武田の騎馬隊は最強』『武田の赤備えは最強』と世に有名になった。

◇ほうとう
<笹子峠を越えて西側は甲府盆地、ここ一帯を国中と言われる>
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この弛まざる武田軍のエンジンを動かす燃料は『ほうとう』あった。
武田信玄の領地甲府盆地は国中と言われ、その代表食は『ほうとう』である。うどんとは一線を画し、食塩を全く加えないことによって、こしが少なく、汁の中で煮込むと、麺からでんぷんが溶けてとろみが付くため独特の風味が作り出される。味噌を主体に薄く伸ばしたもちもちとした独特の食感は堪らなく美味い。
この『ほうとう』は戦国時代同地方を席巻した武将、武田信玄の陣中食であったと、言われ、身近な食を通じて果てしない戦国武将のロマンに繋がってくる。
郷土食として誕生し、同地に根付いている背景にはこんなことが言われている。
慶長3年(1598)の見地目録にある甲斐の米の生産は22万8千石、上杉謙信の39万7千石で6割程度で、米が採れない土地柄から、小麦、大麦他の雑穀が中心の粉食文化が発達している。
群雄割拠の戦国時代、武田、今川、北条、上杉、織田の激しい戦いの中、戦略の一つに『塩』を巡る
駆け引きがあったことなど、面白いが如何に大事であったかを物語る。
永禄10年(1567)武田信玄は今川氏との同盟を破棄し、東海方面への進出を企てるが、それに怒った今川氏は北条氏と協力し、武田領内への「塩留め」を行う。
海に面していない甲斐・信濃(現在の山梨・長野)武田の領地は、塩を取ることが出来ず領民は苦しんだ。
この、武田の領民の苦しみの事態をみて、見過ごすことが出来なかった、信玄の好敵手上杉謙信は義を重んじ、越後から信濃へ塩を送り、武田氏とその領民を救った。
由来「敵に塩を送る」と言う言葉に繋がっている。
今日、有名な言葉として知れ渡るが、それ以上に敵対関係にある相手でも、相手が苦しい立場にあるときに救いの手を差し伸べた上杉謙信の懐の深さを思い知らされる
流通機構が発達した今日、容易に手に入る塩も、諺に載るぐらいに、当時では海から離れた土地では希少な存在であった、事が判る。
常食に近い、「ほうとう」の手法に希少な塩を使わない、製法を練り上げたことは充分考えられる。
仕上げられた製法から、独特の口当たりののもちもち感はこんな意外な所から生まれている。
◇陣中食としての『ほうとう』

Img155小麦粉、味噌、鍋さえあれば、山中であろうと場所を問わず何処でも簡単に作ることが出来る。
消化も良く、直ぐにエネルギーになるから陣中食としてさ最適である。
戦いの移動過程で野生動物の出会いに狩りで捕えたイノシシ、鹿などを鍋にぶち込み、一段とバラエティに飛んだメニュウにしたに違いない。
ほうとうは米に比べて軽く、機動性を求められる、山野の野戦移動など『疾如風』(疾(はや)きこと風の如く)武田軍の強さを支えたのもこの軽便性でもなかろうか

◇余りの美味さに

Img_761611甲州街道、旧勝沼宿の西側に位置する勝沼町の、御屋敷にある慶千庵で中庭の風情を確かめながら、武田信玄の思いを馳せながら、じっくりと『ほうとう』の味を堪能した。

  <ドンブリ鉢に一杯に豊かな食材とあわせ、濃厚なほうとう>

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これから陣移動にも関わらず、大きなドンブリに味の染みこんだ野菜、ほうとうなどなど、かなりのボリュウムに、美味さの余り、幸せ一杯と感動し、完食してしまう。
加齢と共に食も狭くなった昨今、並以上に食べてしまい、「疾(はや)きこと風の如く」とはほど遠い食後の立ち上がりであった。
「ああ、これではとても武田軍に付いていけないなあ~と思いつつ、よっこいしょ」と重くなった体にムチ討って、甲州街道を東に向かった。

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「明治天皇行幸」の影に政府内の激しい抗争の嵐

       <甲州猿橋での明治天皇行幸姿>Image51

<明治6年、洋風に断髪された若き明治天皇>Img144明治13年6月16日、明治天皇が甲州路から木曽路を京都へ御巡行され、激しい雨の中、馬車で日野佐藤邸へ到着した。雨は激しさを増し、道路上に砂礫を撒くのみで、馬車は泥に車輪を取られ、難渋したと言われている。
明治天皇を乗せた重厚な儀装車を中心に前後を固めた小旗の日章旗を掲げて儀仗兵達
の物々しい制服姿の一団は街道筋の人々を驚かす、重厚で壮大なシーンであったと想像する。
随行者は300~400人と言われ、二品貞愛親王、太政大臣三条実美(長州系公家)、参議伊藤博文、同寺島宗則、他内務郷、文部郷、宮内郷、陸軍中条、などなど国の中枢を担う要人が多数含まれた。
日野宿では宿の指導者たちが、羽織・袴に威厳を正し明治天皇の巡行を迎えた。
元々幕府の天領地の日野に幕府が倒れ明治維新後、明治天皇と言うVIPを日野でお迎えすることになった。

◇何故、このような大々的な行列が必要であったか

<明治6年の政変で勝ち辣腕を振るった『大久保』>

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明治10年代は地租改正反対一揆や自由民権など高まり、力のみでは抑えきれないものがあった。時の明治政府は明治国家として人々の心を集め捉える必要があった。
そんな背景の中の明治天皇巡幸は「貴種崇拝」と言われ日本人の皇室など高貴な人を尊敬し,あがめることを、国民に植えつけ、皇室を通じて人心を捉えた。
恐らく岩倉具視・大久保利光の路線から明治10年代に大々的に行幸が行われた。
日本の近代化を目指し、政府内部の激しい路線闘争が生まれ大久保利光が勝利し、西郷派を放遂し、近代化路線へ一気に舵を切る。
明治維新の意志を込めて、明治天皇、以下三条実美、伊藤博文以下壮大な随行者、荘厳
晴れやかな行幸のパレードの蔭に時の要人が直前に次々と消えていった。
激しい抗争の中、国の中枢を担う、大久保は士族に襲撃され、西郷は西南戦争で散り、江藤は佐賀の乱で斬罪梟首で悲憤の最後で亡くなる。其の他の参議も第一線から消え去ってしまう。


近代化路線の意志を継いだ節目の行幸前に揺れ動いた激しい抗争と事件を追ってみる

◇明治6年の政変
<明治6年派遣延期を決めた会議、左から、大久保利通、光岩倉具視、三条実美>

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明治維新が行われ、日本か国家造りにかかるおり、世界帝国主義がアジアを呑み込もうとする時勢に「強兵富国」の近代路線に迫られた。
<多くの人々に見送られ、停泊中のアメリカ号へ、向かう使節団一行を載せた小舟。主役3人の姿が見える>
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明治4年~6年岩倉具視・大久保利光・木戸隆則・伊藤博文一行の米欧視察からの国際感覚を背景に西欧化することで「富強への道」を実現することであった。
一方、米欧視察団の留守居役 『西郷隆盛』 『江藤新兵』は四民平等・農民耕作権・鉄道・電信・太陽暦着々と改革を押し進める

留守中に『朝鮮問題勃発』し『西郷』は非武装で談判することになったが、天皇の裁量から岩倉の決断待となった。
視察団帰国後『三条』・『岩倉』から『大久保』へ参議起用を依頼する。

使節団は肝心の日米通商条約の改定が出来ず、『使節団派遣』は実質的に失敗、帰国後『大久保』は政界への復帰は責任から辞退する。
政治の混乱もあって『三条』・『岩倉』は『大久保』参議説得に集中し、『西郷』の派遣が店晒しに、結論は二転三転する。
『三条』・『岩倉』の『大久保』への懇願は続き、『大久保』は根負けし、参議をき受ける。しかし、『西郷』の派遣見合せを条件に引き受けたが、『三条』・『岩倉』周りの意見に動かされ『西郷』派遣すると裁定してしまった。
この約束違いの決定に『大久保』は怒り狂い再び辞意を表明し、衝撃を受けた『岩倉』も辞意し『三条』は苦悩の余り人事不省に陥り執務不能になる。

この間、政治の空白に『伊藤博文』の『大久保』への非常手段の提案で、「天皇の誘導を図る」献策が通ってしまい最終的に『西郷の朝鮮派遣不裁可』となる。
この裏取引、不明朗さの決定に『西郷』は抗議し辞表を提出する。
『岩倉』・『大久保』ラインと対立した『板垣』『後藤』『江藤』『副島』4参議も辞表を提出した。
この政変から生まれた対立の構図が、以降の活動に鮮明となる。

◇『佐賀の乱』
<佐賀の乱首謀者として、元参議『江藤』も斬罪梟首>

Img145明治政府は四民平等を目指し士族特権解消を強力に押し進めた。
渦巻く士族の不満から参議『江藤新兵』を擁して大規模な武力反乱が始まる。

明治7年『江藤』・『副島』は『板垣』と共に自由民権運動を始める。
『岩倉』は征韓論者の『武市熊吉』高知士族らに赤坂喰違坂で襲撃されるが暗殺未遂に終わったが 西郷の朝鮮派遣問題は尾をひく。
政府当事者は神経過敏になり『江藤』の帰郷に異常反応する
佐賀県士族は下野した『江藤』を頭に『憂国党』は佐賀県庁に入る。

内部郷の『大久保』は軍事・刑罰で現地へ、総計1万の政府陸海軍が出動し、鎮圧する。
『大久保』の強権は留まることなく、かっては政権の中枢を担う参議の一人であった『江藤』をも容赦なく斬罪梟首する。

◇『大久保』軍隊動員など強固な専制国家
<自由民権運動に走った元参議『副島』>

Img146明治8年『大久保』専制政治に流れ、 殖産興業の一方『警察政治』をしき、専制国家建設に狂奔した『自由民権運動』を抑圧した。
軍隊による鎮圧などの挑発で『大久保』政権の基盤強化する。
『廃刀令』を機に熊本で『神風連』の反乱、更に『秋月の乱』『萩の乱』に引火し、牙城の薩摩退治にかかる。

◇西南戦争
<死後、キヨソーネが描いた西郷像>
Img147
下野し帰郷した『西郷』は山野で狩り、田畑を耕す隠居生活を送っていた。
争点であった、自身の朝鮮派遣に一度決まったことが、寝業、裏技で覆されてしまう不信の義はとても耐えられず、政治の世界から身を引いたと思われる。
西郷を追って、軍人官吏や郷党の若者は反政府運動に燃え、西郷の消えかかった火を付けてしまった。
予期以上に燃え広がるエネルギーに鎮静化のため『私学校』が作られた。
一方では『大久保』の腹心『川路利良』警視長官は鹿児島出身警官120名余を帰郷させ『私学党』の離間工作やスパイ活動に従事させた。
政府は輸送船を送り、鹿児島の火薬庫の弾薬を運び出そうと画策したが、私学校の生徒は火薬庫を襲い弾薬を奪い取った
私学校党は1万3千の薩軍、熊本で7千の他県の士族を加え大隊編成の行軍体系で『西郷』の御輿を担ぎ出発した。
『西郷』出立の報に政府も呼応し『鹿児島県暴徒征討』の詔(しょう)を発する。
『谷千城』の3千の兵を率いるの熊本城攻防戦、『田原坂』で約半月死闘を繰り広げる熊本県南部の『人吉』、更に宮崎、延岡、鹿児島に転戦する。
明治10年、9月24日、城山にこもる370人を四方の政府軍が包囲して、総攻撃が始まり、『西郷』は敵弾を受け、亡くなり『西南戦争』は終わった。

その1年後、明治11年5月、『大久保』は紀尾井坂の変(現千代田区紀尾井町清水谷)で石川県士族・島田一良6人の襲撃にあい、斬殺される。
こうして激しい抗争を踏まえ、人心が納まらぬ中、明治13年 明治天皇の京都行幸が粛々とおこなわれているのである。

NHK大河ドラマ『西郷どん』もいよいよ大詰め、明治維新を迎えて間もなく、新政府が歩む過程で、眠っていたマグマが目を覚まし、次々と事件と激しい戦い  が生まれていった。その姿をこちらでも追ってみました。

明治維新推進過程の抗争

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甲陽鎮撫隊の地、勝沼にゆく

新選組をこよなく愛する会から依頼もあって、久しぶりの勝沼行きであった。
変転する予報に気をもみ、当初は雨であったが、見事に外れ幸い好天気であった。
紅葉の時期ともあって、登山姿に身を固めた客が、大勢いる中、JR中央本線で始発の高尾から乗車する。
ボックス席の一角を占め、これから向かう、勝沼へ、甲陽鎮撫隊の話など蘊蓄を語り合い、早くも、幕末一色にスイッチが入る。
大月当たりで、進行右手に見下ろす位置に甲州街道が並走し、走馬灯の様に移り変わる街並みに、『ほらほら、あれが下花咲本陣だよと』特徴ある姿に、果たして何人が捉えることが出来たのであろうか?、
電車は山間部の中へ、進み、笹子トンネルを抜け、甲府盆地一帯の所謂「国中」と言われる武田信玄の地域入り、あっと言う間に勝沼ブドウ卿駅に到着する。
<勝沼ブドウ卿駅>

Img_11601_3
駅沿いの専用軌道沿いに、東京方面に向かうと、観光の拠点、鉄ちゃんの拠点でもある大日陰トンネルの鉄道遺構があるが、地震の影響で2年程前から閉鎖されていた。
数年前に、ワクワクしながらトンネル潜るりの実体験をしたが、このトンネルの先が官軍が柏尾に襲いかかったルートで一度踏破したかったが、その機会を絶たれてしまった。
膠着状態の勝沼の決戦で土州藩の一隊は菱山(現勝沼ブドウ郷駅)を迂回し深澤部落から柏尾の陣にある敵の背後を衝かせ、幕府側一気に崩れたルートである。
勝沼ブドウ卿駅は高台に位置し、甲府から甲州街道を東下する、板垣退助、 谷千城率いる以下総員、1200名の東山道軍を見通せる位置にあるが、残念ながら、紹介する機会もなく控えるタクシーに慌ただしく乗車し、古戦場に向かった。

1)幕軍の陣を張った付近。

<甲州街道、現深澤川入口付近>Tinbutai201_3

崖が幕軍が陣を張った日向平であり、現在の甲州街道深澤入口で甲陽鎮撫隊は此処で陣を張る
<幕軍の陣地>
当時、江戸へ向かう唯一のルートが甲州道であり、幕軍の陣は交通の要所を抑えることで有効であった。
先端部分が出っ張り、Y字路で陣を構え正面からの敵に向き合えるが、側面からの攻撃には弱かった。山頂に陣を構えれば、下からの登坂者に対して上から制圧出来る位置にある。
そんな地形的な背景にありながら、三方から挟撃され、僅か2時間余りで甲陽鎮撫隊が破れ、敗退する。
肝心の戦闘場所は、明治13年、 明治天皇行幸で馬車が通るため、明治9年頃から改修工事が始まり当時の戦場跡が、道を下げる掘削工事で消えてしまった。
橋のたもとが明治天皇に示すために天上錘として碑がたてられ、戊辰の役のおり官軍が進軍し此処で、東国の最初に開いた戦いの場所と説明している。以来、古戦場と言う名前で伝えられた。
折しも大河ドラマ「西郷どん」で日本の近代化路線を走る、岩倉具視、大久保利光に抵抗した西郷は明治10年に戦死、翌年岩倉も紀尾井坂で襲撃される。大久保の意志は岩倉や伊藤博文に継がれ、明治維新の方針の国民膨示に地方巡幸を実施する。
大々的な従者を引き連れ、命運をかけた馬車道まで作ってしまった明治天皇行幸であったのである。目の前の陣を張った場所の変容した姿に、目まぐるしく変わった時代を見るようであった

2)岩崎山攻防戦
柏尾の陣から南側は日川が流れ、その川を挟んで向かい側が山になっており、広がった川を中心とした世界が俯瞰できる。日向平の南方に位置する岩崎山は諏訪兵と永倉新八の指揮する幕兵との戦闘があったが、瞬く間もなく敗れ、で余儀なく後退し柏尾の本隊に流する。
岩崎山を占拠した官軍は、日川の渓谷越え、日向平の側面から追撃する。

3)柏尾橋
<深澤川を挟んで、両軍戦った場所、手前側に旧橋の欄干が見える>

Tinbutai301
甲陽鎮撫隊の陣を張った場所は深澤川と言われる急峻な渓谷にある。この深澤川に柏尾橋が架けられ、甲州街道を勝沼と江戸方面に繋がる橋として大変重要な役割を担う。
古い橋の橋桁と草藪の影に対岸の橋桁が僅かに見える、その下が深澤川である。対岸の民 家付近は甲陽鎮撫隊が破れ、退陣するおり、火がかけられた。
この先が深澤川で切り立つ崖で、谷底のようになっており、落ちたら二度と上がれないような、奈落の底である

<垂直に切り立つ石積み>Image211_2木立の裏側に石積みの壁がほぼ垂直に切り立っている姿が写真を通して僅かに見える。
甲陽鎮撫隊と相対座した新政府軍の陣座はこの谷底の深澤川で向き合うが、大変短い距離である。

4)祇園淵
   <幕軍兵、追い詰めら飛び込み、逃げた祇園淵>
Tinbutai302_2柏尾の陣の古戦場から水力発電所で整備された緩やかな坂道を降りきった所に、見事な飛瀑に息を飲んだ巨大な滝壺の祇園淵に到着する。
追い詰められた幕兵の一部は逃げ場を失い、滝壺にダイブ、日川沿いに逃げたと言われる。、激しいしぶきを上げる、自然から生まれた急に開けた炯眼、懐の深い、日川沿いの舞台の出会いに、同行者の感動の声が上がる。

5)陣中食で信玄公に心酔
<一杯入ったほうとうのドンブリ>

Img_11681_2アップダウンのある古戦場周辺を散策し、一段落、車で予約積みの勝沼町の慶千庵に向かい武田信玄の陣中食のほうとうを食べる。
元々水田の少ない土地柄、それに取って代わる陣中食が甲斐の郷土食として育った。
此処は拘りを持って味噌味、野菜満載の「ほうとう」食べ身も心も武田信玄になり濃い味に心酔した。

6)甲州街道を東下
さてここから、甲府から甲州街道を東下した板垣退助率いる東山道軍にならって、勝沼宿を抜け、更に大善寺へ向かう。

7)勝沼宿
勝沼宿は甲府盆地の東端の宿として、問屋場、本陣と複数の脇本陣が構え繁栄を極めたが当時の建物は殆ど無くなりブドウ農家に変わってしまった。
僅かに江戸後期、以来と言われる貴重な仲松屋住宅の東屋敷が残される。板葺き二階建てで道路側には縦の格子が使われ落ち着いた雰囲気作りに一役買っている。この手の建屋が街道筋に軒を連ね、厳めしい 武装した新政府軍の一行が、屋敷の前を通過、柏尾の戦場へ向かった姿を見届け、幕末か維新へ激しく変わる時代を越えて語り伝えている。

勝沼宿から前方を見上げると、丸で剃り込みを入れた異様な柏尾山の姿が嫌でも目に入る。
鎌倉時代からブドウ害虫駆除に柏尾山の「鳥居平」で10月に鳥居型の山焼きが鳥居焼が
行われる。柏尾山の山頂の鳥居平では伐採され、刈り取られた部分が鳥居の姿が甲州街道からはっきり見える。

8)大善寺
ほうとうで重くなった体に、腹減らしと、気負い込み、 旧田中銀行、本陣跡、勝沼氏館跡を見て、大善寺を目指す。カーブを伴う緩やかな坂道が、延々と続き、中々大善寺の看板が見えず、途方にくれたが、ムチを入れ、足を引きずりながら何とか辿りつく。
休む間もなく、本堂(薬師堂)に通じる待ち受ける急階段の難所が立ちはだかり、疲れ切った足腰に絶望感も漂うが、此処が最後と思って、気力で登る。

勝沼戦争で甲陽鎮撫隊は大善寺に本陣を置こうとしたが、大善寺には徳川家、縁の寺宝があるという理由から諦め戦闘による、草刈り場になることは避けられた。
<紅葉真っ盛り>

Img_11771_2
本堂で参拝し、此処まで辿りついた無事に完走できたことを感謝する。
階段脇に、真っ赤に色づいた紅葉の花舞台をたっぷり堪能しながら、勝沼旅は無事終了した。
<新選組の羽織と真っ赤な『誠』隊旗>
Image111_2
同行の皆さんは新選組縁の地として、大善寺の山門で新選組羽織で身を包み、持参した大きな『誠』の隊旗を掲げ、記念撮影する。
満足した笑顔に新選組に心酔する思いが、この甲州の地で叶えられたようであった。

当該記事はHP『勝沼宿と柏尾古戦場跡』 でも詳細が書かれており、併せてご覧いただければ幸甚です。

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佐藤彦五郎逃亡先五日市、『羽生家』を訪ねる

慶応4年(1868年)3月、鳥羽伏見の戦いに破れ甲陽鎮撫隊に名を変えた新選組が甲府城を目指した。
この勝沼戦争に日野宿問屋佐藤彦五郎は近藤に協力しようと、日野宿の農兵で組織し、甲陽鎮撫隊の後を追った。

       <新選組祭り、先頭に武装姿の彦五郎役>

Toubou01<日野宿農兵隊が使用した旗>

Yasutugu104しかし甲陽鎮撫隊は甲府城先取に失敗し、板垣退助率いる東征軍と勝沼で戦い破れた。
逃げ戻った彦五郎は「朝敵」とされ東征軍に追われ、親戚や知人を頼って身を隠した。
その約一月後、流山に転陣した近藤は東征軍に降伏し、板橋刑場で斬首された。
そんな背景もあって東征軍の厳しい探索は戦慄が日野宿を走った。 身に迫ってくる、厳しい追求の中に彦五郎始め家族全員がそれぞれ逃げまくった。
彦五郎(42歳) 妻のぶ(38歳) 二女とも(5歳)を下女あさ(18歳)に背負わせ日野宿から西へ下った。
東光寺道より粟の須、多摩川周辺から五日市街道を西下二宮村茂平宅に辿り着く。
途中粟の須で官軍の追求もあったが何とかかわし、逃れた。茂平氏の案内で五日市在大久野村なる、羽生家にすでに夜半の1時頃で着いた。
<果てし無く続く塀の広大な敷地の羽生家>
Image111同家主人始め皆起き出て、茂平氏より委細を聞きかつ同情せられ、奥座敷に招かれて食事万端手厚き待遇を受け、全く安心して床に着いた。
もう此処まで来れば、追っ手は此処まで及ぶことはないだろう、緊張感を解かれ安堵感と長旅の疲れで、深い眠りにつき、一先ず長い長い追送劇の一日はようやく終わった。
彦五郎一同は此処で匿われ、暫く長逗留し、懇切なる待遇を受け、その間茂平氏 からの日野宿はじめ官軍の動向を伺った。
◇助命嘆願の工作
彦五郎は傘を冠りござをまとい、脚絆草鞋のの商人体で潜伏した居た大久野村からただ一人、様子を探りに出た。
粟の須の井上家で捕縛された息子の源之助が釈放され、騒動以来、初めて親子対面、一座嗚咽の声に満ちた。
明方近く彦五郎は出立。砂川街道を廻って江戸に入り、忍びしのんで、向島に潜んでいる近藤、土方を訪ねて、 一族赦免の件を相談した。
近藤は大久保一翁に、土 方は海舟勝安房守に、密使を立て懇々書き送るところあって、朝廷寛典(かんてん)の御処置を希願した。
数旬の後、日野佐藤彦五郎一家差構(さしかまい)なしと、大本営詰め西郷候より達しがあり、漸く離散潜伏していた家族一同が、帰宅することが出来た。
こうした、近藤、土方らの働きかけとは別に地元日野宿から帰村嘆願が官軍に提出され嘆願叶い、彦五郎は帰宅が出来た。

◇そんな羽生家を訪ねて見た。
、小田原から、兄弟で当地に移り、農林業に従事する。兄弟がそれぞれ後を継ぎ、、現在は上羽生、中羽生、下羽生含め、年一度、中羽生家に集まり、山に登って住職が、お経を上げた後、、先祖様の感謝の念をこめて、宴がもたれる。

五日市街道の幸神、(地図上では大久野中学校)から分岐した道が『羽生通り』と言われ、この道沿いに誉れ高い名家 『羽生家』の一族が住まわれている屋敷がある。
この『羽生通り』の先がこんもりした森に繋がるが、羽生家がある

◇羽生家
(敷地と建物)
1)広大な敷地
敷地面積は大凡25、000坪と言われ、羽生通り沿いに、羽生家の屋敷の一角に到達する。数少ない巨大な3階建ての倉が、更にその脇に巨大な薬居門が、でんと構え、地域の歴史を今日に伝えるシンボル的な役割を担っている。
周りに建物がなく、板塀越しの倉、切妻屋根の風格を備えた門を前に重厚な格式と歴史にタイムスリップ出来る。
その倉に沿える様にある巨木は昭和18年頃植えられ、小字落合の雑山にあった4~5尺の欅で、幹周320cm、推定 高さは31mと言われ、日の出町の名木の一つと言われている。

Toubou404

①番小屋付き通用門)
広大な敷地は黒い板塀が敷かれ、南都方向には石垣など築かれている。奥が番小屋付きの『通用門』で通常の敷地の出入り口利用される。出番所が付いており、立派な詰め所を供え門番を配置する 。

Toubou501

② 薬居門

Toubou504明治15年製の薬居門は随所に装飾金具を付け、重厚な構えは表門として格式を備えている。
門は木目が揃い吟味された材料を使い、高さ5~6mの壮大な構造の門である。構造的に少し重心が後ろの方に行くように、塀の奥側に屋根の中心になるような構造になっている。
屋敷の出入りは通用門で薬居門は何時も閉まっており、冠婚葬祭や年に何回かの祭りの時の限定利用に、門の重さ、風格を感じられる

*薬居門:本柱の後方に控柱2本を建て、切妻屋根をかけた門

③ 中庭
表門を潜って、正面の主屋に結ばれる花道は石畳が敷かれ両側は庭石と植木が植えられ風情を備えた日本庭園風に綺麗に整備されている。
主屋の前は性格の異なる2つの庭園が板塀によって仕切られ、手の込んだ庭作りに、持ち主の思い入れに格別のも のを感じられる

④ 主屋

主屋は、数年がかりで建築し、明治24年(1891)に完成した。当初の平面構成は東西2列、8間(14.5m)に並んでいる。
表門は南側に格式を重んじた入母屋造りの屋根に式台付きの玄関口で出迎えられ、繋がる部屋には欄間や床の間 棚、付書院が設けられ、高い格式が備えられている。

春夏秋冬の絵は大政奉還図を描いた立川に住んでいた『邨田丹陵(むらたたんりょう)』の一級品の作品が飾られてある。
等々、羽生家にある書・絵からも、当時の高位な人脈にも繋がっている。

⑤)6棟の土蔵
敷地内は6棟の土蔵があり、白漆喰で比較的小振りな穀蔵と味噌蔵の3棟は江戸後期に建築され、大火事で屋根が焼け落ち修復したと言われている。
残りの3棟は火事の後、明治中期に建築されたものと言われている。これ程多くの蔵が建てられた のも『大久野焼け』の甚大な被害の反省から地域共通の傾向と言われている

◇お宝発見
昭和63年(1988)頃、同家の土蔵から、近藤勇の手紙が発見された。佐藤彦五郎が同家に匿われた時に近藤の書簡を預かっていた彦五郎が置いていったと言われている。
彦五郎来所以来であれば土蔵の中に約120年眠っていた『三浦休太郎宛近藤勇書簡』が白日の元に晒された

Toubou602慶応3年(1867)11月18日付けの近藤勇から『三浦休太郎』宛であるが、未提出のままである。
紀州藩士の三浦休太郎は坂本龍馬暗殺の疑いを持たれ海援隊から命を狙われていた。そのため三浦は会津播を通じて新選組に身辺警備依頼していた。
この手紙では三浦の元に潜伏していた「二郎」という者を必要とする事件が出来たので無断で引き取ったことをわ びている。
手紙が書かれた翌12月には三浦が旅宿していた京の天満屋を海援隊が襲撃、新選組と斬り合いになった。三浦は軽症であったが、近藤勇の従弟で新選組の宮川新吉が戦死している。
油小路事件の当日に書かれた。その直前に『斉藤一』が御陵衛士 から脱走して新選組へ戻るが、その間 三浦休 太郎の元で斉藤一を使っていたが、近藤勇が戻した詫び状でここにある「二郎」は 斉藤一である。
近藤と御陵衛士 との約束で一端御陵衛士 に行った者は戻さないと言う約束であったので、斉藤一では帰れず「山口二郎」と言う名前を使っている

御陵衛士が新選組から離脱する渦中の生生しい話である。三浦休太郎への近藤勇のわびの手紙が此処五日市 大久野村、羽生家眠っていたのであった。
そんな記録を直に接する機会を頂き、身の引き締まる思いで拝見することが出来た。

詳細はこちらHP にも載せています、どうぞご覧ください

彦五郎逃亡記 

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『川辺堀之内城館

日野市内の台地の一角が森で覆われ、その部分がなんと城館であったと言われる、その痕跡が残されいると言う報告がされている。
市内でも里の風情を残す「川辺堀之内」であるが、折しも輸送ルートの一つとして国道日野バイパス道路誕生を控え 周辺に建設造機が入り、道路建設に自然の風情を含め大きく変わりつつある。
そんな環境変化を前に、僅かに残される、姿を捉え、一方ではここで残される歴史ロマンを求め、その痕跡を追って みた。

<川辺堀之内の城館の縄張り図>
南北に迫り出す台地の南端の海抜が83.8mある。台地の縁の部分で、南・東・西の三方向は細い線の表記で囲むに描かれているが、この部分が崖になっている。
台地から崖下の部分は東側は海抜80mある。崖下西側の耕作地帯が海抜74.2~74.8mとなっている。
従って10mの僅かな高低差の台地になっている。
高台の台地に欠落があるが、崖で囲まれ、一応城の形態になっている。

Tyuseihino01◇東側から台地の頂上を目指す
地図にある城館の東端部の全景である。バイパス道路のコンクリート壁が此処まで迫り、壁の上が小道で緩やかな勾配で台地の頂部に繋がっている。この道を登って台地の頂部を目指す。

『神の坂』

Tyuseihino202_2竹藪に僅かな空間に人が通れる位の道が整備されている。台地の頂部は宅地と併せ道が生まれているが、かっては台地に繋がる唯一の道であったようである。
この道は『神の坂』と言われ、お盆に先祖の霊が迷走しないよう、道で藁を燃やし、迎え火、送り火行った。かっての生活道路も、利用頻度が限られ生い茂る自然の中に埋没しそうである。
道の右手に絵馬始め江戸時代の貴重な歴史遺産が収蔵されている、お稲荷さんがある。収蔵品は市の歴史担当が一時、持ち返り、歴史視点から、のメスが入り、色々の歴史事実が明らかにされているようである。
藪を進むとお茶の植え込みが、途中で寸断され、往時の待機場の痕跡がある。
大八車などの待機所で、昭和30年代まで使っていた。待機所は上下2ヶ所あり、下の待機所に樹齢300年余に及びさるすべりの木が植えてあり、この道が当時からあったことが推測出来る。その切り株はお稲荷さんの所にある、

<墓石群>

Tyuseihino206
竹藪を進むと、台地の頂部に出て、増田家の墓石が並んでいる。

  幕末期、多摩地域では広い土地を背景に比較的豊かな豪農層を中心に『天然理心流』の剣術の流行った。
その格となる日野宿名主、佐藤彦五郎が道場を持ち剣術師範となっているが、川辺堀之内からも門弟が居る。
文久久3年(1863)神紋帳に門人の一人として、『増田紋之助』や同じく川辺堀之内から岸野新治郎、 伊藤百平、治郎など名前が神紋帳に名前が入っており、往時から川辺堀之内を代表する名家でもあったのである。

<台地からの展望>

Tyuseihino205慕域の広場は台地の東端に位置する。頂部から南側を俯瞰する。
直下の水田から、その先がこんもりした森の中に延命寺が見える。その先が浅川を越え、緩やかな斜面が多摩丘陵である。
その左手の森が高幡不動である。それほど高くはないが台地からこの開けた展望が要害の最適地と充分想像出来る。この眺望こそがこの城の生命線であった。

◇台地上部の様子
縄張りとは、城全体の平面プランである。川辺堀之内は城館の平坦な台地続きで北側の台地に空豪と土塁を設け南北約100m、東西約80mの城館である。
ゴルフ練習場側の北方の台地続きは地形が完全に開いているため、防禦の困難なこの方面に曲輪(くるわ)など設ける可能性は少ない

<歴史ロマンが眠る、竹林>

Tyuseihino307城館側は一面、竹林で覆われている。旺盛な繁殖力から、地面を掘りおこす「根切り溝」などの手入れが行き届かなく、 竹林は根を張り、この半世紀でも二倍以上の広さに拡大した。
未だ手の付けられない竹林から土器、石器、分銅、嘉永通宝、梅小鉢、醤油の壺、といった、歴史的な遺産が出土さ れているため、この辺り一帯は人が住んでいた証でもある。
この鬱蒼とした竹林が開発の手を阻んでいる一方、城館に繋る歴史ロマンが眠っているのである。

<城館の西側から見た全体像>
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城館の台地を西側の水田地帯から捉えて観る。北側のネットがゴルフ練習場に変わっているが、こんもりとした森が続き城館の北端がこのような形になっている。
水路は水田の活用共併せ、急な壁面は防御的な役割を持たせている。

◇台地頂部に土塁
台地の頂部のフラットな部分に、樹木が取り払われ、ポッカリ開いた急坂が見える、下に降りてみる

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断面がV字形になった堀である。途中で狭くなっており、曲がりくねり勾配も一番急になっている。狭い空間に急な坂で登坂側は身 動きが取れなくなり、 投石や槍などの上側からの攻撃に対して、登坂側は無防備である。地面・壁面のむき出し自然のまま、此処が一番城跡と思われる。

◇城館の南端側を見る

Tyuseihino501外壁の最下層は水路が走り、前述の西側から外周部を囲むように形成される。その水路を沿う用に小道が走る。
水路は途中でゲートがあり水田との導引の役割を持たしている。用水の壁面は石が積まれ垂直の建箇な堀りが形成される。更にその上が盛り土で固められ 急角度の斜面になっている。用水堀り側からの登坂は困難で防御的な役割がより鮮明に伝わってくる

<果たしてこの城は>
さて、城館の台地を上から、横から見て廻った。案内板もなく、不確かな情景だけで、それが何に結びつくの正に暗中模索であった。
本件に関し、1994年日野市教育委員会で発表された論文『縄張りから見た日野市域の中世城館』を参考に以下 、整理してみた。
◇この城館の性格
地形が険しく、敵を防ぎ、味方を守る土地柄を効率よく活かし、良くまとまった縄張りであるが所詮は最低限の労力で構築した小規模の城館である。
数十人規模の攻撃に対しては有効な防戦が可能であるが、大規模な包囲攻撃には一溜まりもなく、呑み込まれて しまうであろう。大軍が長期間に渡って籠城を続けられる要塞ではない
◇城館の利用は

Tyuseihino103_2天文 7年( 1538 )『後北条氏』と『山内 上杉氏』と関東官僚が二人存在し 、関東の支配権を主張する両者の覇権争いは激しくなる。
その後、支配合戦が続き、戦国 時代となるが、 相模から多摩川・浅川以南の多摩丘陵を制圧しつつある後北条に対抗して、扇谷・山内上杉氏側が構築した可能 性が高い。
戦国大名などの大勢力が戦時目的で築いた砦(前線基地の監視所として高幡城、平山の監視と推測される。.

一先ずこんな所が『川辺堀之内城館』であったことで話を納める。

覚悟はしていたが、藪の中、蚊の温床地帯で あった。城館に格好のかもが、やってきたと思い切り襲撃され、目茶苦茶に刺された。不審者の侵入に毒を持って征する、時代を越えて城を守っているようであった。

詳細はこちらHP にも載せています、どうぞご覧ください

川辺堀之内城館跡

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真田の強さ「六文銭」にあり

◇「司馬遼太郎」も絶賛する「真田昌幸」
上田城を造ったのは「真田昌幸」であるが、「昌幸」を時代を越えたヒーロとしていまだに地元に根強く慕われている
のは何故であろうか。
「司馬遼太郎」は上田に訪れ、「街道を行く」で「真田昌幸」を「司馬遼」流の独特の表現で以下のように絶賛している。
「昌幸」が近隣の家康嫌いで、その勢力を牽制して貰うこともあって上方の豊臣方と手を組んだ。秀吉の死後も忠実であったことは律儀者の信州人に好まれるところであろう。
                         「真田昌幸」

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                       「真田幸村」Ueda404
□徳川襲来から守った上田城
天正11年(1583)「真田幸村」の父「昌幸」が築城。当初から天守閣を持たない平城で現在は3つの隅櫓(すみやぐら)と石垣本丸堀が残っている。
城跡一帯はケヤキ並木が囲む公園となっており深い緑の中になっている。
<徳川軍の襲来を2度も破る>
①一回目、徳川軍を上田城に誘き寄せ、城内から撃退させる。
天正13年(1854)武田氏滅亡直後、「徳川家康」は「真田昌幸」に対し武田の旧領の沼田領の明け渡しを迫ったが「昌幸」は父祖伝来の土地として断った。
真田軍は上田城二の門際に誘き寄せ、矢玉を浴びせ城内から討って出て、徳川軍に大きな損害を与えた。
徳川軍は神川まで敗走したが、複雑な城下町にも伏兵や罠が仕掛けられ、徳川軍は混乱する。、増水した神川に流され多くの将兵が死亡した。
攻め寄せた7千の徳川勢に対して2千の真田勢は巧妙な戦術で徳川勢は思わぬ大敗となり、真田の死者40名余りに対して徳川方は1千数百名を出した。
②二回目、徳川秀忠の本陣を襲撃し、徳川軍を大混乱し敗退させる
慶長5年(1600)「徳川秀忠」率いる徳川本隊3万8千を中山道、それ以外を東海道に分けて西上し関が原の合戦に向かう途中再び、上田へ押し寄せた。
徳川の大軍を迎えうった真田勢は僅か2千5百ほどで昌幸は虚空蔵山(こくぞうさん)に伏兵を置いて「秀忠」本陣を急襲、上田城の城兵が討って出て徳川軍は大混乱に陥った。「秀忠」は上田城攻略を諦め抑えの将兵だけを残し て中山道を西上したが、木曽路の行軍に手間取り、関ヶ原合戦に遅参する憂き目に遭った。
この結果から、秀忠が家康から不信の念をもたれ合戦以降、江戸へ移った 秀忠は監視される。

地方の小城で石垣も少なく一見したところ要塞兼備な城とも見えないが、実際は周囲の河川や城下町を含めた全 体が極めて秀れた構造になっていた。
圧倒的数の多い徳川軍を2度も追い払った戦国の名城である。
<南櫓>

Ueda402◇真田軍の強さの秘訣は

①知能的に優れていた「真田昌幸」の采配
「昌幸」の場合は知能的に最も優れているといっていい。かれは義経や正成と同様、政略や調略を用いて敵を腐 敗させたり、利を与えて敵の有力者を寝返らせたりするような手を用いず、徹底的に軍事的でその巧緻さは それを芸術的に楽しんでいるのではないかと思わせるほどであった。
このあたりも、代表的信州人という印象を後世にまであたえる由縁である。
②真田軍を支えた『真田の六連銭』

Image1111)◇六文銭とは
六文銭(六連銭、六文連銭)は家紋の名称でもともと仏教の世界で言う六道銭のことである。
六道銭は三途の川の渡し賃、つまり通行料とされており、死者を葬る時に遺体と一緒に収めるものである。
真田の戦ではこうした仏教の考えを旗印に死をも厭わず、真田の精神力の強さはこの六文銭にかけたことが伝わって くる。
◇六道銭・・・広辞苑から
死人を葬るとき、棺に入れる六文の銭。俗に「三途の川の渡し銭」だと言うが、金属の呪力で悪霊の近づくのを避け ようとしたのが起源と言われている。

2)仏教に関わる、『三途の川の意味』

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三途の川は仏教において死者が死後7日目に渡るとされている川である。三途の元々の意味は悪行をかさねた者が行く、地獄道・畜生道・餓鬼道の3つの世界のことであったが、三途の意味が変形し、三途の川での3つと言う数字は世界の数でなく、通り道になっている。
三途の川を渡る方法は3つあり、生前の生き方によって、善人は橋、軽い罪人は浅瀬、重い罪人は流れの早い深みを渡ることになっている。
『死後、渡らなければならない三途の川』
さて衆生の生前の生き方はどうであったかのであろうか?、生前の悪事は死後も付いて廻り、三途の川に誘導される。

3)<六道の意味>
六道銭の六道とは仏教において命あるものは迷いの世界で現世とあの世の境界を繰り返すことを"輪廻転生"と言わ れている。
その輪廻する迷いの世界が仏教において地獄(道)・餓鬼(道)・畜生(道)・修羅(道)・人間(道)・天(道)の6つ世界(道)のことを言う。
六道」に輪廻し苦しむ衆生(生きている全て)を自ら赴き救済して下さる仏さまとして、六観音や六地蔵がある。
特に衆生の地獄からの救済を地蔵菩薩が導いてくれる。、地蔵の持つお徳仏門の教えを説いている

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修羅場を潜ったとか、地獄を見た何て言葉は此処から生れている。 この六道に苦しみを救ってくれる仏様が寺や街角で見かける「六地蔵」である。
整然と並んだ六地蔵さん。台座に書かれた名称がそれぞれ六道の役割を持っている。

4)真田の六連銭
死後の最初の行き先であろう六道に銭を持たせれば清く成仏できるだろうと、「六道銭」ができたようである。
信濃の名族滋野氏の流れの海野氏から生れ、その支流の真田氏が戦国武将で使われ"真田の六連銭"で有名となった。
三途の川は地獄道・畜生道・餓鬼道を表す様で、六道銭を持たせれば安心なのであろう。
「真田昌幸」は「武田信玄」に属し「信玄」の卓越した陣法と民政を身に付けた一人であったといわれている。
信玄の子勝頼が「織田信長」によって滅ぼされ、その「信長」本能寺で非業に死ぬと、武田の信州旧領は無主の国、東海の徳川家康と小田原の北条がそれぞれ草刈り場のように兵を入れた。
こんな背景の中にあったとき、「昌幸」が千曲川流域に独立国を作ろうとした。
「六文銭」「六連銭」の旗印が有効になったのはこの時からと言われている。

5)真田赤備え兜

Ueda503二度に亘り徳川の大軍の攻撃を退けた真田の「智勇」は天下に響き大阪夏の陣において武具を赤で統一し「真田 赤備え」部隊を率いた真田幸村が被った朱色で鹿角型の兜が「赤備え兜」である。
幸村公は「愛」と「義」の捨て身の活躍で「日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)」と称された。自ら信じる道を民ととも に歩んだ真田一族の熱き「和」と「仁」の心、真田魂が宿る真田杉の切り株を「赤備え兜」がお守りしている。
・・・「真田神社奉賛会」

上田城他、詳細はこちらでも書いています。ご覧ください

上田城

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「多摩と周辺地域での新選組」上野文化会館講演を実施

幕末史を追う某研究会から新選組をテーマに講演を頼まれてしまった。
会は研究の名前が付くぐらいに鋭い洞察力を背景に歴史事実を徹底的に調べ上げ、発表される会合である。発表する側は勿論、聞く側も、知識の集積から研ぎ澄まされた 論客の集団である。
参加される方には日頃の研究テーマの講演はもとより、こつこつ積み上げた膨大な資料を背景に 自論を書籍まで出版される学者、研究者までおられる。
こうした中で、多少新選組絡みの史跡に身を置き、興味本 位から身につけたじじいの話では場違いあろうと思いつつ、うかつにも引き受けてしまった。
講演を依頼されるのは大変光栄ではあるが、底の浅い、知識を前提に耳の肥えた専門家を前に果たして講演が勤まるのか、全く自信がなかった。
講演場所は花のお江戸でもあり、文化の中枢を担う、上野文化会館の会議室である。

Image2◇日頃の鍛練の成果

「おい、お前え、そんなにまでして、何を語るの?」
都内でも唯一の幕末の空気を残した建屋を舞台に新選組など関わる史実は宝の山であった。そんな史実を関連場所まで行き確かめ、説明の中に味付けしてゆく。
月2回で案内を続け、10数年積み上げから、歴史を通じて来館者と一緒に楽しんでゆく。
新選組関連の情報が渦巻く中でたっぷりと純粋培養された、新選組オタクが全国から沢山集まる。5月の祭りはそのピークで、かっては1000人/1日越えもあり、限られた時間であるが、真剣な眼差しで聞いて頂けるのは、喜びさえ生まれてくる。
そんな現場から生まれた体感を披露し、本日の戦いに挑んで見る。

◇上野戦争の真っ只中
上野と言えば戊辰役の行く末を占う「上野戦争」真っ只中の場所である。
武力倒幕を目指す薩摩藩・長州藩に対して牽制するため15代将軍、徳川慶喜は朝廷に大政を奉還した。
武力倒幕派は「王政復活の大号令」でクーデターを起こし、鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争が始まった。旧幕軍は戦いに敗れ、慶喜は大阪から江戸へ引き揚げ、戦う意志も無く、江戸城を去り此処上野で謹慎した。
徳川の天領から徳川に尽くしたい報恩意志から、多摩地域から決起に溢れ、彰義隊に参加している。
こうして直参、佐幕派 諸藩の脱走者、浪人とあつまり、彰義隊全体では2000~2500人と言われている。

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圧倒的な兵力、アームストロング砲など優勢な火器を持つ新政府軍に対し、彰義隊は刀を持って切り込み戦況をささえたがあっという間に、凄惨な結果に終わってしまった。
新政府軍によって火をかけられ、焦土化してしまった。
「大雨をやみなく砲声ますます激しく上野より出火あり、巳の刻ごろより、火勢天をつき火口45ヶ所になり、老幼婦女病者をたすけ、或いは葛篭(つづら)夜具包を背負ひ、東 西にはしり、南北にはしる」と、慶応4年5月15日の「新聞日誌」は上野戦争を報じている。
そんなことを多少意識しながら上野へ参戦、当日も梅雨真っ盛り、傘を離せない雨の中であった。

◇華やかな会場と隣り合わせ
上野文化会館は東西の有名なアーチストや楽団の演奏会場として名にし負う披露の場所でもある。
その会館と同じ建屋の4階に数室の会議室があり、その一つが講演場所であった。
ガラス越しの1階の華やいだ雰囲気のホールから、専用口で厳しいガードマンの監視の、4階まで上がると関係者だけが集まる、静粛な雰囲気での環境に一変する。

◇講演のお題目は
「多摩と周辺地域での新選組」
限られた時間の中、以下をポイントに披露した。
①名を広めた新選組の剣術、「天然理心流」
維新後、新政府から賊軍の武術として禁止された。板橋で近藤勇が処刑され、ことが及ぶことを恐れ、八王子戸吹、桂福寺の天然里心流宗家の墓を埋めてしまった。100年後、傷だらけの姿で深い眠りから覚めた。
②日野剣士が薩摩浪士と乱闘となった「壺伊勢屋事件」
新選組にならず日野に残った剣士は薩摩浪士と八王子の妓楼で大乱闘。双方で犠牲者が生まれ、日野宿から、身近な人が2人が犠牲となった。
③甲陽鎮撫隊として戊辰役の東の戦い、「勝沼戦争」
甲州街道の勝沼の柏尾の深澤川を挟んだで適地で甲陽鎮撫隊は陣をはり、善戦したが、三方から攻撃された新政府軍に敗れる。勝沼戦争に参加した日野宿の名主佐藤彦五郎一家も追われ、五日市に逃避する。その逃亡先の羽生家の2万5千坪に及ぶ広大な敷地と同地に残される羽生一族。
④歳三の菩提寺である「高幡不動」や多摩周辺地域に遺された史跡
「高幡不動」に残され、近藤、土方を戊辰役で讃える二人を讃える「殉節両雄碑」。碑の建立に篆額の揮毫作成に松本良順から、静岡に隠棲中の徳川慶喜に申請したが、文面にただ黙って波を流すばかりで、結局断念し、松平容保に依頼した。主君に尽くし亡くなった二人に背を向けて逃げてしまった、自責からの涙であった。

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出来ればオーバヘッドプロジェクターなど文明の利器を使いたかったが、叶わぬため文書化したら17Pにもなる、分厚いものになってしまった。
学校の教室の様な部屋で、聴取側は大きな机と椅子が用意されている。講演側は講演用の台を中心には ホワイトボードが左右に用意されてあった。Ph_chukaigi13_11_2
参加はフリー、何人集まるかは出たとこ勝負である。講演開始前に30数名におよび、資料不足となり、講演後送付することになった。
予期以上の参加者はひとえに新選組に対する、熱い気持ちなのだろうかと思えた。

◇講演も無事に終わる
長くて重い講演は質疑応答含め、制限内の80分に何とか終えた。
内容はともかく、途中でしり切れにならず、一通り項目は舐めて、納まった。原稿とは別に、タイムテーブルを準備し、 時折、テーブルをちらちら見ながら、時間調整した。
話したい項目はそれぞれ準備したが、時間を最優先し、読み飛ばしてしまったことは悔しいが話を戻すことは出来ない。
押し流されるようにテーブル優先に、これが講演なんだと、改めて思い知らされる。
最後の質疑は予期以上に多数あった。新選組に関わる感心の深さを物語る。底の浅い知識を背景に期待に添える回 答が出来るのか心配であったが、何とか乗り切った。
講演開始依頼、休み無くしゃべり続け、用意したお茶を口にする余裕も無く、スピーチングマシンは喉も痛く、限界であった。

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会場を後にして、文化会館の向かい側は道路を挟んで、JR上野公園口改札口、その2階が和食レストランぶんか亭である。
急ぎ足でで駆け上がり、早速生ビールで乾杯する。、枯れた喉を潤し、漸く、やり終えた達成感に浸れた。
講演を言い渡されてから、数カ月長い期間飼う真綿のようについてまわり、苦しみ、準備した労苦をこの一時で吹き飛ばし、リセット出来た。
既に真っ暗闇の中、薩摩の西郷どんも、今宵は幕府側の新選組を咎めることなく、歴史の一時として豊かに見送ってくれる だろう。

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当日の講演内容は多摩と周辺地域での新選組」 で紹介しています。是非ご覧ください。

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