武田の遺稿を残す八王子を巡る

八王子横山十五宿は甲州街道中、最大の宿場町として、また多摩地域の物資の集散地として栄えた。
八王子の歴史を飾る代表的な千人同心、松姫、大久保長安、などなど武田遺稿から誕生していることに改めて思い知らされた。
戦国時代から幕末にかけて、今日の八王子に繋がる遺跡を訪ねて、JR八王子駅の南側からJR西八王子駅に至る周辺を歩いてみた。
◇八王子郷土資料館にて
<倒幕の先頭を走った浪士落合直亮像>

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八王子の土地柄、佐幕地帯でありながら幕末期に倒幕の先頭を走る人物が居たことに驚いてしまう。何故そこまで掻き立てしまったのであろうか?
落合家は関東防衛の軍事拠点の一つ小仏の関守に徳川代官配下の最前線の要職を代々続けられていた。
直亮は、江戸中期に興った国学の流れに染まって行く。
20才で後を継ぎ関守になるが、家督を弟の直澄に譲り、関所番をやめてしまい国学と兵学で名声あげた国学者で尊皇譲位の挙兵で同志を募った相楽総三の元へ走る。
西郷隆盛は王政復古の契機を掴み、倒幕を画策する。薩摩屋敷へ、続々と浪人が集まり、直亮も門人五人を率いてに入る。浪士隊を組織、 総裁は相楽総三、直亮は副総裁となる。
「御用党」と称し、関東周辺の放火など錯乱計画を次々に実行する
テロ活動で、江戸市中を混乱させた。 激怒した幕府側は薩摩屋敷を焼き打ちする
藩邸から脱出する浪士たちを指揮し、翔凰丸に乗って江戸を出港、幕府海軍の回天丸らと砲撃戦を繰り広げながらも逃げ切った
これが引き金となって幕府と薩・長が鳥羽 伏見で戦うの戊辰戦争へと入る。
京に入り、西郷隆盛と面会し、薩摩藩邸焼打ちから、今日の戦争となり、愉快な時が来たと、功をねぎらわれる。
 相楽総三は赤報隊を編成し、官軍の東海道鎮撫総督の指揮下に入り建白した「年貢、 半減令」で民心に応えた。しかしが太政官はこれを実施すると財政に欠陥を生じ、一度許可した布告令を取り止めた。一方では設楽らが力をつけることを封じるため相楽以下は偽官軍と称され下諏訪で総督府に捕縛、処刑される。
 相楽総三の死を知った直亮は、それを操った岩倉具視を殺害しようとしたが、失 敗し、岩倉に諭され、帰順してしまう。
 明治期には西郷隆盛に関東の事情を伝えたり岩倉具視にも協力し、新政府の要人に絆を深め、岩倉の政治力で地方の政治に携わるように世話を受ける。
 明治元年(1868)落合直亮は陸前志波塩釜神社宮司、伊那県判事、3年後に伊那県大 参事(副知事)に昇進した。しかし、翌4年に冤罪で失脚、多くの国学者と同様に閉職に甘んじ、不遇のうちに明治27年没する。

◇信松院

<階段の頂部に荘厳な本堂が構える、信松院>

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松姫は武田家に縁のある多くの人達の精神的支柱となっている。

さらに養蚕と絹織物の普及に努め、今日の八王子の養蚕業に継がれるなど八王子の看板のお姫様である。
松姫は永禄3年(1560)武田信玄の4女として誕生する。7歳で織田信長の嫡男「信忠」と婚約するが両家が三方が原の戦いで婚約は破棄する。
信玄没後、織田勢が甲州征伐を開始、これに抗戦した髙遠城主の実兄(信玄5男)の仁科盛信は信忠の降伏勧告を拒否し自刃する。
松姫は姪たちを連れて従者とともに山中を逃避行し恩方村全照庵に逃れる。


<松姫は心源院をを訪ね、入道し信松尼と名乗る。>

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代官頭大久保長安や同心の庇護の元、現在の台町付近に信松院を営み、3人の遺児を養育する傍ら、近隣の子供たちに読み書きを教えた。
栄えある武田の娘でありながら、結婚の夢叶えず、身内の不幸など重ね追われ身。仏門に入り、遺児や子供たちの養育に生涯を八王子にかけた。

◇信松尼と会津松平家の始祖「保科正之」の奇縁
信松尼の晩年、二代将軍徳川秀忠の愛妾のお静の方が身ごもり、正妻の嫉妬を避けて身を隠した時に、それを守ったのが姉の見性院と信松尼と言われている。この子供が高遠の領主保科正光に養子として入り、後の会津松平家の始祖となる保科正之である。
髙遠の落城と兄の戦死から、始まった信松尼の逃避行は最後に守った子供を城主として返すことで叶えられたのでは無かろうか。


(松平家14代藩主の新選組パレード参加)

<信松院の加護に育った松平家の始祖と繋がりから時代を超えて14代目松平保久氏が日野に晴れやかな姿で登場された。>

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幕末動乱時期に会津松平藩は京都守護職として治安維持に一役を担い、その配下に新選組が活躍し、全国にその名を留める。義を信じ貫く心は会津も新選組も同じ、となびくものがあり、会津松平家第14代当主も自ら新選組パレードに参加された。日野と背中合わせの八王子の信松尼の手招きか、時代を超えて縁を感じる。


◇金丸四郎兵衛
金丸氏は甲州武田家の旧臣で後に徳川氏に仕え、四郎兵衛は各地の代官を勤めている。
 正徳4年(1714)7代将軍家継の生母月光院は自分の仕えている年寄り絵島を増上寺へ、代参させたが絵島は寺の接待を断り、山村座の芝居見物に行ってしまった。
 芝居が終わると茶屋に役者の生島新五郎を招いて大酒宴が寺の訴えから発覚し「絵島は遠島、生島新五郎は流罪」となる「絵島生島事件」であった。
代官・金丸四郎兵衛が関与し、「絵島生島事件」に連座して浪人となった。他の事件に巻き込まれため八王子の姉に頼ってきたものの、自首を勧められ、江戸へ帰る途中日野宝泉寺で切腹した。
 寺では四郎兵衛の遺骨を寺内に葬り、墓石を建て弔った。いつの頃かこの「金丸の墓」の墓石を撫でると病気が直ると言われ詣でる人も多かったと伝えられる。
墓石の脇に案内板が僅かにその記録を留めていたが、案内板もなくなり、知る人ぞ知るで忘れられた存在になってしまった。
そんな金丸四郎兵衛の名前が載っている金丸家の墓碑を信松院の募域近くで見つけることが出来た

◇八王子作りの原点はここから
1)大久保長安の誕生
天文14年(1545)大久保長安は甲州武田領の出身で猿楽師大蔵太夫十郎信安の次男として誕生する。兄の新之丞と一緒に武田信玄に取り立てられ、後に武士となる。
 天正10年(1582)武田氏滅亡後、駿河に移り、大久保姓を与えられ、推挙で家康へ出仕した。
 石見銀山・佐渡金山奉行となり やがては、日本全体の金銀山の総奉行となってしまう。
その才覚と英知がビッグな役回りに幕府の頂点に登りつめ鉱山の開発や増産で、徳川政権の財政基盤を確立させた人物と伝えられている。

2)八王子の原点はこうして誕生
大久保長安は徳川奉行の重臣として活躍する一方の英知から、浅川の害から守る治水計画、千人同心を配置し外敵から守る警備機能、江戸に繋がる街道に接続させ,・物の流れから文化交易を図る。
江戸から10里、甲州に繋がる幕府の一大拠点として、幕政を支えた代表的な宿の姿がこの絵に凝縮されている今日の八王子旧市街の原形は完成した。
行政の中心である大久保石見守長安陣屋跡は石見屋敷は東西に二分されていた。

<大久保石見守長安陣屋跡>

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東西併せて、14,000㎡ 規模の大きさは時の統率指揮した大久保長安の力を象徴するものであった。

3)長安没後の大悲劇
慶長18年(1613)四月に没した。享年、69歳。
立場上金銀を扱う役割から、武州八王子で国奉行として晩年迄、羽振りを利かせていた。
 長安の没後にその生前の振る舞いに怪しむ者がおり、訴えられた。
 家康は調査を開始すると、金銀5千貫、無数の金銀細工の道具類を私蔵していた事が発覚した。
 家康は、遺族七人を処刑し、一族は滅亡させられると言う厳しく凄惨な処分を行った。
この厳しい処分に後難を恐れ関係縁者が長安の関連するものは一切処分してしまったと言われている。

 

◇血梅の話
1)血梅の命名
この紅梅は早春になると薄紅色の花を咲かせるが、花はガクが大きく、花びらの小さい原種に近いような花で、現 在の華やかなものが多い紅梅に比べると、少し寂しいような花である。この梅の枝を切ると、中は血がにじんだように真っ赤なので、血梅という名で呼ばれているという
2)千人頭「石坂」と新選組「近藤勇」が交わした約束
この血梅は、もと八王子千人町の千人頭「石坂弥次右衛門」の屋敷内に植えられてい た梅で、日野宿北原に住んでいた千人同心井上松五郎は、この「石坂弥次右衛門組」の世話役を勤めていた。
近藤勇が浪士組に入る前、石坂家を訪れ、庭に咲く血梅に目をとめて、慎ましく咲く様を激賞し,後日接木(つぎき)か取木(とりき)をして贈ることを約束した。
しかし、この約束が果たせないまま、二人は時代の波に呑まれてしまう。 
 慶応4年(1868)新選組は甲陽鎮撫隊として勝沼で破れ「近藤勇」は板橋刑場の露と消えてしまう。
一方、「弥次右衛門」は日光勤番、官軍に、無血で東照宮等日光を引き渡し、抗戦派から日光で東征軍に恭順を示した責任を問われ、切腹する。
当時、介錯するはずの息子が不在で老父であったが、老齢で上手く行かず、のたうち回り、苦しんでの悲劇的な最期であった。
3)「弥次右衛門」の墓
甲州街道の喧騒から離れた住宅氏の一角に「興岳寺」がある。墓域は住宅地の中、周囲の高層住宅から見下ろされている。
多数の墓石群のほぼ中央に小屋にある「弥次右衛門」の墓石がある。墓石の手前左右に、2基の灯籠と水盤が並んでいる。死を悼む石坂組の隊士達が寄進し、灯籠台座には「弥次右衛門」に従って、帰国した「松崎和多伍郎」を始めとする日光勤番隊士45名の名が刻まれ ている。
 日光市から送られた香台には「日光市」が刻まれ、熱い絆を読み取れる。

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日光の社寺は国の誇れる遺産として国を越えて世界文化遺産に登録されている。
 墓石・灯籠共かなり風化しており、崩れている姿が年の経過を物語る。
4)残った梅
時は経ち石坂家も八王子を離れてしまい、梅の木も絶えてしまった。
 両士が愛し、また激賞したというこの血梅は千人町の石坂家の隣家の庭にひっそり残っていた。
日野宿本陣の裏側に谷さんが育て、その枝を石坂家の末裔の方が菩提寺にそっと植えられた。

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「弥次右衛門」の墓に植えられ、形の上で先祖帰り出来た。「弥次右衛門」の傍で、慎ましく、咲き、血梅を語り伝えてくれるだろう


◇旅巡りも無事に
八王子郷土資料館を皮切りに、最後は宋格院で、この旅は何とか終わった。
 八王子史跡は戦国時代から始まって、幕末まで、あそこも此処も、地域に残された文化として武田遺臣が深く関わってくる。
武田信玄の影響力の大きさを八王子史跡を通して思い知らされた。

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三浦休太郎あて近藤勇の「手紙」

新選組にかかわる大きな事件が当時重なり、当時の緊迫した一片を伝える近藤勇の手紙が発見された。
坂本竜馬のいろは丸沈没事件から竜馬殺害される。
折しも、新選組から離れた伊東甲太郎以下御陵衛士殺害事件が重なる。
手紙に関わる事件として、いろは丸事件から、油小路事件で起きた出来事を含め時系列に並べ、この手紙の背景を整理してみた

<慶応3年(1867年)>、
★4月23日海援隊は龍馬以下、海援隊士が乗り組み、物資を積み、いろは丸長崎を出港して大阪方面を目指した。
瀬戸内海、航行中の紀州和歌山藩の明光丸と衝突し、沈没する。

<瀬戸内海で沈没したいろは丸>

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竜馬のいろは丸沈没で紀州藩に賠償金8万両(164億)の支払いを請求する。
★11月7日に賠償金は長崎で紀州藩は土佐藩に支払われた。

◇伊東甲子太郎らが新選組が御陵衛士に分離、同行した斉藤一が御陵衛士が勇の暗殺計画を聞きつける。
◇11月10日斉藤一が新選組に帰隊し 勇の暗殺計画を報告する
それを聞き激怒した新選組は伊東をはじめとする御陵衛士の殺害を計画する。

★11月15日 坂本龍馬、中岡慎太郎龍馬は京都川原町の近江屋で暗殺された。

暗殺(近江屋事件)の黒幕が多額の弁償金の怨恨から佐幕論者で紀州藩士三浦休太郎を容疑者にされる。
海援隊士・陸援隊は三浦休太郎を討つことを計画する。
危険を感じた紀州藩は、会津藩を通して新選組に三浦の警護を依頼した。三浦休太郎の護衛に急きょ新選組の斎藤一、大石鍬次郎ら7名がついた。

◇11月18日新選組は伊東甲太郎殺害し、伊東遺体引き取りで訪れた御陵衛士残党を襲撃する

<伊東甲子太郎が殺害された付近の本光寺>

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11月18日油小路事件で御陵衛士の中に二刀流の使い手で、凄腕の服部武雄がおり、近藤は戦える相手として斉藤一が必要と判断した。
斉藤は急遽三浦の警護を解いて油子路に向かわした

御陵衛士と新選組の大乱闘で服部武雄も亡くなった一人であった。
服部は油小路事件で伊東の屍骸を引き取りの際、ただ一人密かに鎖帷子を着ていた。
同志を逃がすために塀を背にして多勢の新選組を相手に討死覚悟で最期まで孤軍奮闘したと伝えられる。服部の身を挺しての奮闘で4人は逃走する。
この時の4人の中で、生き残った加納鷲雄であった。
後々、薩摩藩に入った加納は流山で捕まった勇の大久保大和の変名を見破り、勇を処刑に追い込んだ。

*事件当日、近藤勇から三浦休太郎あて詫びの手紙を書いている
新選組と御陵衛士との間では一旦御陵衛士に行ったものは返さないという約束から山口二郎とされている

★12月7日天満屋で三浦と新選組が宴会中に海援隊に襲撃される。(天満屋事件)

「ごめんね手紙」(勝手につけた名称)
油小路事件の当日、近藤勇が戻したことに対する三浦休太郎への詫び状である。
勇が書いた手紙が彦五郎に託されたが、五日市の羽生家に眠ったまま昭和63年(1988)羽生家から発見された。
慶応4年(1868)3月甲陽鎮部隊が勝沼で敗れ、後を追った彦五郎が厳しい探索の官軍に追われ、五日市まで逃走し、匿われたがその時に預け、120年間眠った「ごめんね手紙」であった。
当時の生々しい事件が重なり凝縮された中で、その一端の手紙が今日に伝えられ身震いを覚える2019年5月6日まで、佐藤新選組資料館で限定掲示された。

いろは丸事件から、油小路事件などの紹介記事はこちれでも掲載されています。ご覧ください

届かなかった近藤勇の「ごめん手紙」 

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深山の名勝を伝える「小石川後楽園」にゆく

小石川後楽園に散策がてら行ってみた。
後楽園と言うと、読売巨人のドーム型球場、ジェットコースター、ショッピング モールがある都市型エンターテインメント複合施設が浸透してしまうが、その隣接地帯に、水戸徳川家の手を尽くした深山幽谷の世界が残されている。
JR中央線沿うように流れる神田川を水道橋駅から渡れば目の前が歓楽地帯にあり、人並みの絶えない、雑踏でごった返す都会のど真ん中にある。
しかし、一連の後楽園のネーミングに押し流され、ここ小石川後楽園が後楽園の誕生の原点なのである。
今日に至って後楽園に敢えて小石川の冠をつけているのは識別するための呼称のようで、ここが後楽園の歴史の原点をであることを、余り知られていない。その広報活動を含めガイドさんは拘りをもって冠をつけず「後楽園」の呼称で通している。

慶長5年(1600)9月関ヶ原で勝利で家康は天下取りは一段落。ほっとしたのか、間もなく9男、10男、11男と子宝に恵まれた。それぞれ、尾張、紀州、水戸の御三家と言われる家康を継ぐ始祖が誕生している。その11男「頼房」水戸家の始祖なのである。
36万石の小藩主ながら負担となる参勤交代を唯一免ぜられる水戸藩誇りとなった「江戸定府」となっており、水戸徳川屋敷が誕生する。
初代「頼房」と二代「光圀」が継承し長い歳月をかけて寛永6年(1629)小石川(現後楽園)に9万9千坪の広大な上屋敷が回遊式庭園として築造される。

<水戸光圀>
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誉れ高い明の徴士、朱舜水は没落する、明から亡命する。光圀は人柄と秀でた学問に師として迎え、亡くなるまで礼を尽く厚遇している。
光圀は後楽園の造園にあたり、身近にいる朱舜水の意見を取り入れ、後楽園と命名され中国趣味豊かな庭園が誕生する。
その中国趣味として代表的な事例は、「円月橋」、「西湖堤」などで、具体化され、朱舜水の思いが残されている。
日本における各地の大名庭園作りに少なからず影響していると言われている。

<朱舜水>

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後楽とは遺臣「朱舜水」から名付けられ士は当(まさ)に天下の憂いに先じて憂い、すなわち 天下の楽しみに後れて楽しむ べしと言うことで「先憂後楽」は水戸藩の藩風になっている
中国明の遺臣「朱舜水」の書「後楽園」という扁額を入り口に掲げたと言われている。

園内は池を囲むように散策路があり、出入り口を起点に反時計方向に周回する。、熱を帯びた ガイドさんの案内に凡そ2時間、水戸徳川家の遺構を背景にタイムスリップ出来た。その代表点を紹介する

◇渡月橋(とげつきょう)

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京都の嵐山は平安時代の貴族の別荘地で観月の名所と言われている。それに類したものを後楽園でも作り たいと亀山天皇が仲秋の名月として月が橋の上を刻々と渡る風情を確かめられることから月橋(げっきょう)と言われている。
 流れる川は京の嵐山の下に流れる大堰(い)川で、現在の名称は桂川で統一されている。
 川と大小の石の配置、わずか10mほどの土橋の真ん中に立ち止まってみると、嵐山の風景を映している。

◇西湖の堤

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中国の杭州(現在の浙江省)の西湖の堤に見立てたものである。西湖の堤は中国の名勝地で現在世界遺産になっている。
 堤は道の両側に湖が広がる歩道である。現物はまるで西湖の上を散歩しているかのように錯覚してしまうと言われ、その神秘的な美しさは見る者を圧倒しする。
 美しい湖畔は季節や時間によって表情を変え、多くの人々を魅了している。

◇通天橋

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堰川にかかる橋である。紅葉の名所、京都東福寺の通天橋を模して造られたようである。
鬱蒼たる自然の中色鮮やかな朱色が、目立ち存在感を表している。
回遊路の頂部にあった観音堂から、今度は階段を一気に駆け降りと行きたい所だが、不安定な石段に、一歩 一歩確かめながら降りてゆく。ここは春が桜、夏は新緑、秋はもみじ、冬は落葉樹で四季折々の風情が確か められるが,皆足元に集中し、周りを見る余裕もない。
 紅葉の季節にはまた変わった風情が確かめられる絵になる場所である。先ほどの危険な急階段から、緩や か勾配の橋上で渓谷の風情を眺め、小休止出来る。
◇小廬山の山頂から

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山岳路から離れ、ぽっかり空間に晒され、小道を行くと小廬山の展望台に出る。
ここ小廬山は中国の景勝地から生まれ林廬山名前をつけた。
足元もおかめざさを超えて、園内の素晴らしい眺望が確かめられ、その風情に吸い込まれ、離れがたい場所である。鮮やかに刈り込まれた表面が、狂いなく、細部まで徹底した手入れに職人の心行きを感じる。
その背後は高層のビル群に取り込まれている様子が伺われる。その左側がお碗を被せたような ドームが控える。 時々、あがる歓声は遮るものなく、直に園内に響き渡る。その姿は見えないがジェットコースターの急降下での悲鳴だけが、あたりの静寂な空気を破り、伝わってくる。


◇円月橋

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この橋は石を組み合わせ、石と石が横にぶつかり合う力を利用しており、上からのひずみに強い。
側面のタイルの石積みも拘りを持って、デザインされている。 朱舜水の設計指導で製作 橋が水面に写る形が満月と言われでいるが、舜水の豊かな発想が生かされ、水面に輝いている。


◇藤田東湖の碑

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園内の西北端に藤田東湖の碑がある
幕末時、水戸藩は抗争の嵐の中、西郷隆盛・、吉田松陰など全国の尊皇志士に大きな影響を与えた藤田東湖は水戸学藤田派の後継として才を発揮し、水戸学の地位を確立する。
徳川斉昭に絶大な信用から藩政を支えたが、 尊皇攘夷の運動は水戸藩から始まり、桜田門外の変、東禅寺焼き討ち、坂下門など皆、水戸が出てくる。
その指導者は斉昭で、具体的な推進者は藤田東湖らの側近であった。
斉昭を支えるのは下級武士が殆どであり、中には農民出身も含まれ、 成り上がり者が権力を握り鼻を高くしたから天狗になったと言われている。
 藩の内政を重点に家柄の高い保守門閥派と、この天狗党との間に抗争が展開されていく。
 安政2年(1855)に発生した安政の大地震の際、母親を守ったが自身は力尽き下敷きとなって圧死する。


◇大泉水

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この庭園の中心的景観が大泉水と言われている。水面に浮かぶのは蓬莱島で中国に古くからあった神仙思想に基づく島で、東方のはるか彼方の海上にあったと言われいる。そこには、神仙人が住んでおり、今も幸福な生活を送っている理想郷だとの説く思想である。
 蓬莱島の先端に築造した庭師・徳大寺佐兵衛にちなみ「徳大寺石」や弁財天を祀った祠がある。


◇双葉葵で最後を飾る

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後楽園の園内周回、コースの最後を飾るにふさわしい葵の御紋に迎えられ後楽園の周回は終わった。加工された装飾品でなく、独特の模様をあしらった生の葉っぱは実に鮮やかに輝いていた。

詳細は記事はこちらでも、紹介されています。ご覧ください。
「深山の名勝を伝える小石川後楽園」

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「龍馬」と「おりょう」の軌跡が蘇る

寒風吹きまくり厳しい寒さの中、猫背の背中を更に折り曲げ、10数分続く神明の長い坂をおり漸く本陣に辿りつく。
当日は氷点下の世界、風が吹きまくり、体感温度は更に低く、こんな寒い日になんと言う巡り合わせの悪さ、と思いつつ、終日ここで守らなければならない。
この寒気に、来る当てのない客を前に本陣の隅っこの一角のホットカーペットの、温もりで人の気配を敏感に反応する砂利音に聞き耳をたて待機する。
静寂な館内、何処となく、日差しのない館内は薄暗く、開けっ放しの式台越しに、入ってくる風が館内を吹き抜ける。
そんな寒中の中でも厭わず、熱心なフアンが全国からやってくる。
親子、家族、友達と複数群れ会う集団はもとより、他人と群れず一人でじっくり見識を深めようと歴史の世界に心酔するフアンが多いのも、この世界の特徴かもしれない。
寒い中、であったが昼前後は温かさに後押しされ、入館ラッシュで切れ目なく、賑わいを見せ、対応に追われる。
しかし、日も陰る時間帯になると、人並みが徐々に途絶え、あの賑やかさは何処にと変化する。
緊張の対応から、周りを見回す余裕が生まれ、今日はこれで幕引きかなと、当日の終焉が自然と頭をよぎってくる。
◇人気のない世界に突如の来館者
人気のない館内は寒く感じられ、ホットーカーペットで暖を取りながら、止まってしまった時間の経過を追った。
日が落ちる早さもあって周辺が益々暗くなり、和室独特の雰囲気に此処で暮らしていた先人が見え隠れるような幻想の世界に包まれる。
最早、今日は此処までと思っていたが歴史好きの女性がやってきて、一旦閉じられた脳内が再び開かれる。
案内するにも、視点を合わせることも必要から、どんな期待感を膨らまして、此処まで来られたのであろうか、伺って見る。
現在は都心に住んで居るが、出は四国から、龍馬フアンと吐露された。幕末の世界、龍馬自身が全国くまなく駆け回っており、一通り龍馬の影を追っておられる様子であった。
龍馬と新選組の関係はその場では思いつかなかったが後でこんなことを思い出した

◇坂本龍馬と新選組
慶応3年(1867年)11月15日の坂本竜馬暗殺される。
紀州藩士の三浦休太郎は『いろは丸沈没事件』の際に多額の弁償金を負い、龍馬に対する恨みを持ち、坂本龍馬暗殺の疑いを持たれ海援隊から命を狙われていた。
そのため三浦は会津播を通じて新選組に身辺警備依頼していた。
慶応3年12月7日三浦が旅宿していた京の天満屋を海援隊と陸援隊が襲撃、新選組と斬り合い、近藤勇のおいで新選組の宮川新吉が戦死するなど双方で死傷者を出している大きな事件であった。天満屋事件とも言われ新選組が京都で剣と剣を交えた最後の戦いと言われている。
戊辰役に踏み入れる前に、倒幕の嵐が吹きまくり、龍馬と新選組との間でこんな接点があったのだ。
そんな話は出なかったが、直感的に、『龍馬VS新選組』の構図が僅かに、霞み、テーブルを挟んでお手柔らかにと思わず言葉が出てしまった。(笑い)

◇龍馬の踏み跡を巡る
全国を叉に駆けめぐった龍馬の追い込みは流石半端ではなかった。
以下、語られた思い出の場所は目を輝かし、澱みなく語って頂いた。
①龍馬襲撃された、京都伏見の寺田屋
②「中岡慎太郎」と共に凶刃に倒れた京都河原町の近江屋。
③寺田屋で負った傷の養生でおりょうと霧島などの温泉。流石、高千穂の峰の登山は控えた。
④美貌、フアンも多く晩年、おりょうが仲居を勤めた横浜台町の割烹料亭「田中家」
⑤横須賀市大津のおりょうが眠る信楽寺の本堂に木彫りの「龍馬」と「おりょう」「月琴(げっきん)」の姿等々かっての大河ドラマの『龍馬伝』に多少染まり、薄らいだ記憶の中から、断片的な単語が浮かび懐かしく蘇った。

◇驚きの見学先
ダイナミックに生きた龍馬が波瀾万丈の世界で華々しく戦い散っていった象徴的な、場所として①②は見逃せない場所であろう。
③の短いおりょうとの蜜月の旅を追って霧島まで行かれ、高千穂の峰の前で、悔しい思いで諦めた登山など場所を厭わず、追ったこと。

<1574mの「高千穂の峰」は二人が登山した山の一つである。
赤い土がわらわら零れ落ちてくるような急な傾斜は身を挺して這い登る中々厳しい山のようである。 着物に草鞋姿の二人、四つんばいになりながらの登山はさぞ、厳しいものであったろう>

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⑤の一フアンとして信楽寺におりょうの眠る墓参に留まるが、敢えて本堂に上がり、二人の馴れ染めた木造姿と龍馬が買った月琴(模造品)が置き並べられた神聖な世界を見てきたことなど半端ではなかった。
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龍馬の踏み跡を追い、全国を途破した筋金入りスーパー歴女であった。
龍馬愛に心酔されるお話に留まる所知らず、詳らかにご披露頂き、改めて、その一旦を触れられた。Oryou308◇惜しまれつつ退館
此処本陣は何時来たかは定かではなく二度目の来館であること、思わぬ龍馬との語り合いに驚かれたのではなかろうか・・・。
何時ものルーチンの流れに沿った御案内に入って頂いた。
もう閉館の声に、熱く濃い話を交えた話はそれまでとなってしまった。
幕末の空気が漂う館内に何時までも浸って居たかったようであるが、惜しみつつ、また来館での出会いが生まれることを、祈り、お別れした。

改めて、記憶が遠ざかった当時の写真を引っ張りだしてみた。

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本陣の梅も芽吹いた

◇歳三、没後150年
歳三が函館一本木関門付近で亡くなったのが明治2年で西暦に換算して1869年である。
今年が2019年であり丁度没後150年目の節目にあたる。
函館で旧幕府軍の幹部の一人として新政府軍と戦い、銃弾に倒れ生涯を閉じた。
旧幕府軍は降伏、日本は新政府の元、新しい時代を迎え、幕府を支えたサムライ文化の終焉でもあった。
平成29年度に、市内を通る中央線、京王線、多摩モノレール沿線24区市を対象として実施した「日野市認知度等調査」では、新選組と聞いて思い浮かべるキーワードの第1位が「土方歳三」であったようである。
 土方歳三の高い認知度を通して、市の認知度向上に繋げるため、歳三没後150年を迎える本年は、通年にない『歳三』にスポットを当てた活動が予定されているようである。
先日、物凄い烈風の中、市役所前の公園で僅か10数人前後でセレモニーを行われ、何事と思ったら、歳三ラッピングタクシーのお披露目であった。

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寒さの中もあって、関係者だけのセレモニーであったが、怒派手な車両が目についた。
タクシー車両として市内に疾走し、いやでも目に入る。
更に市内を縦断する鉄路では中央本線の特急の先頭車両にも歳三の絵姿が飾られ、甲陽鎮撫隊の影を追うように甲州路を疾走するImages1
目につきやすい、タクシー、特急列車が先ずは歳三宣伝の一役を担っている。
そんなこともあって、周囲は緩やかに歳三で燃えている。

農家に生まれながら、武士らしく生き、その統率力から旧幕軍の幹部として上り詰めた歳三は日野が生んだ幕末のヒーロである。
2004年、大河ドラマ新選組として、山本耕史がその役回りを見事に演じ、メデイアを通じて、新選組が再び火がついた。
あれから既に15年余りの時の経過、その大河ドラマを知らない世代もかなり居るぐらいにフアン層が変わってきていることも事実である。
その歳三(山本耕史)が再び日野にやってきた。Img1791
本陣に訪れ、応時を思い出しながら、土方を演じたことは役者人生でも大きな出来事の一つであったこと、一般市民との出会いで声をかけられ、新選組と土方歳三が、しっかり根を降ろしていることに感動しているようであった。丸みを帯びた風貌に10数年の経過も歳三の目がらんらんと輝いていた。

◇本陣の梅が芽吹く
日曜日もあって、木枯らし吹く、寒い日であったが、東京地方は全く雨がなく、からからの陽気。極寒の朝、中庭でホースで水撒き、水回りが凍りつき、思うように出てこず、敬遠されている。

「だから敢えてやってやるぞ」と水撒きに取り組む、漸く出てきた噴射水に、土の部分からもうもうと土埃が舞い上がり、たちまち大地に吸い込まれてしまうが、周辺の木々を含め、恵みの水洗礼に生き生きと蘇った。
中庭、回廊脇のの2本の梅の木、日当たりの良い方が早くも真っ赤なツボミが着実に春の訪れを伝えている。

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1月もあっと言う間に押し迫るこの時期であるが、時代をさかのぼると歳三の姉おのぶさんが佐藤家に嫁ぎ33年間、子育ても果し、明治10年1月、正月を迎えて間もなく47歳で雪の降る日に遺ってしまった。
梅の咲き具合から、彦五郎と生前の、妻おのぶさんと対話していたことを亡き妻との思い出を俳句で飾っている。
「散る雪や柳を見ても、梅見ても」
建物の前の真っ赤なツボミの梅の木に、多趣味の本郷名主佐藤彦五郎の俳号、春日庵盛車の一句に、以下の言葉を併せ残している。
33年の春秋も実に夢の如く、只幻に残りて一個の木枕へと応えず、(おのぶよと言っても応えなく)青木翁の愁情も今更思いやられるばかり(青木翁が亡くなり、寂しがっていたがそのときに余り聞いていなかったが、自分の妻を亡くして、今更思いやられる)
生前夫婦間で交わした対話に出てくる柳、梅を雪を素材に幻想的な世界、残された木枕を前に悔やむ思いを切々と伝えている。

そんな舞台装置を背景に茶間から見える姿が改めてこの俳句を作った彦五郎さんの感性が彷彿される。
日中は切れ目なく全国から来館者を迎え、恐らく新選組フアンが根強く繋がっている。
そんな話に一生懸命聞いて頂いたフアンに何か響くものがあったようで、嬉しかった。

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大河ドラマ『西郷どん』 も終わった

大河ドラマ『西郷ドン』も終わってしまった。

<雌雄を決する戦いの場であった現代の熊本城>

Image111その舞台となった西南戦争は圧倒的な物量を誇る政府軍に抗戦し、熊本から始まり、宮崎の延岡地方の和田越えで数千の薩軍、数万の政府軍と最後の大会戦で敗北した。既に300余の薩軍は重包囲網を突破し、道無き山岳路を駆け抜け鹿児島の城山で戦い、西郷以下亡くなり、西南戦争は終わった。
仰向けに天を仰ぎ亡くなる姿は印象的であった。

<花岡山で陣を敷く西郷軍が大砲を引き揚げ熊本城を砲撃する。
城下には火の手が上がり城は煙に包まれる。西郷軍は熊本城を落とせず撤退する>

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◇西南戦争終了後

激しい政争の渦の中政局牛耳ったは大久保利通は西南戦争後、西郷の信奉者から紀尾井坂で大久保が暗殺される。残された記録から、大久保は全身に16箇所の傷を受けており、そのうちの半数は、頭部に対するもので「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」とあり、激しい怨恨も込められていた。

◇大河ドラマ始まる前、供養祭で大河ドラマの話が話題に
2017年3月新選組隊士百五十回忌総供養祭で松平家14代目藩主松平保久さん「会津藩と新選組」講演された。
『元々接点のなかった「会津藩と新選組」は"誠と愚直"の言葉が二者を繋げるキーワードである。
大河ドラマ「八重の桜」でかなり朝敵の汚名が消せると言う思いで、皆大騒ぎして見ていた。かなり会津贔屓でドラマ化され、私自身としては嬉しかった。
来年の大河ドラマは西郷隆盛を予定されて居るが、個人的には八重の桜の再放送でもあったらなんて、冗談で思ったりしている』
(会場はどちらかといえば東軍よりの聴衆で、自然に反応し爆笑、大拍手、一番会場が盛り上がった)
会津藩を称して『愚直』ということであった。
松平容保公は松平慶永公から京都守護職を拝命されたときに、危険な役回りに藩内でも反対者が多い。
決定に躊躇したが、最後は真之公が作った会津藩の憲法、家訓(かきん)15箇条から、苦渋の決断であったようである。
これが、戊辰役で、味方が続々離脱する中で最後は会津藩だけが取り残され、結果的に2973名の大量な犠牲者からなる悲劇が生まれる結果になってしまう。
そんな「八重の桜」が『西郷ドン』に繋がり、倒幕を終え、明治6年の政変が新日本の向かうべき世界が描かれている。

◇展開は「激しい抗争の嵐の維新」であった
岩倉使節団帰国後、政局は大久保利通を中核の派とそれに反対するる真っ二つに分裂し、西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・江藤新兵・副島種臣のらが離れ、併せて自由民権運動や士族反乱が生まれていく岩倉具視が襲撃され、初代司法郷の江藤新平は佐賀の乱で処刑後梟首される。
西郷は反政府活動家に担がれ反政府の要として政府軍と戦う西南戦争で戦死する。
最後に西郷の信奉者から紀尾井坂で大久保が暗殺される。
国造りを巡る派遣争いから、一連のテロ活動や国内内戦で瞬く間に政府の中核が次々と失っている。

◇福沢諭吉が、西郷隆盛をべた褒め
そもそも西郷は、維新の時には徳川幕府を転覆し、維新後は西南戦争で不運に失敗に終わった。
しかるに最初の反逆には忠義の名を与え、後の反逆には国賊の名を与える、というのは筋の通らない話だ。
西郷が征韓論に破れて鹿児島に退いた時、政府による圧制が強まり、その噂が西の方にも流れてくるようになって、西郷旗下の連中は義憤に駆られ政府転覆の挙に及んだのである。
西郷の側の抵抗精神とは、政府の暴虐を正して一国を発展せしむる原動力となるものだ。人民の間に抵抗精神がなくなれば、その国民は衰退するほか道はない。
したがって西郷のような抵抗精神の豊富な人材を持ったことを、日本人は誇りとしなければならない。
西郷といえば、維新最大の功労者である。その功労者を、維新政府は、権力争いの末に殺してしまった。
福沢は、西郷の死が日本にとっていかに損失となったかを嘆きながら、この小論を結んでいるのである。

◇戦いの最中『明治天皇行幸』が行われた
こうして勝者・敗者の鮮烈を究める激しい抗争の中、生き残った要人が政治の中核を担う。
その事件も覚めやらぬ中、明治天皇以下中枢を担う三条実朝、伊藤博文他、要人300~400人の行列の豪壮な国内各地への明治天皇行幸に行われている。
激しい政権争いの中、勝ち取った大久保が新しい国づくりに邁進する中、恐らく企画した行幸に違いない。
そんな成果の行幸を見ないまま、消え去り、その遺志が三条実朝、伊藤博文によって継がれた。

明治10年西南戦争勃発時期に天皇は近畿地方を行幸中で京都を巡行する直前に西郷軍が進撃開始。天皇は東京へ戻らず急遽京都に滞在された。

このきらびやかな行幸の蔭に雌雄を架けた抗争が渦巻いていた。

<明治天皇の行幸姿>1181

・・・と色々話題はつきない

その一端について>『ようこそ幕末の世界』で纏めてみました。
ご覧いただければ幸甚です。

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武田信玄の陣中食『ほうとう』

風林火山は、甲斐の戦国大名・武田信玄の旗指物(軍旗)に記されたとされている。
「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」(疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し)の通称である

◇武田信玄の強さ

        <風林火山の旗をかざし、赤備えの軍団>

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    <武田勝頼香まつりから、甲冑姿も、まぶしく勇ましい>Img1511武田信玄には赤備えの軍隊があった。武具、甲冑を赤一色で統一したド派手な見た目の軍隊である。
さらにその軍隊は騎馬隊で構成されており、戦場では半端ない強さを発揮した。
武田信玄の掲げる旗印『風林火山』の『火』の意味は、侵略すること火の如しであるが、武田の戦法もまさにその通りだったようである。
敵陣に、騎馬隊が一気に突っ込んで先ず敵陣を崩す。追い打ちをかけるように槍隊、歩兵が更にに突っ込んで敵を倒す。怒涛の攻撃で敵を圧倒し、甲斐を制圧し、周辺地域も配下に領地を広げた『武田の騎馬隊は最強』『武田の赤備えは最強』と世に有名になった。

◇ほうとう
<笹子峠を越えて西側は甲府盆地、ここ一帯を国中と言われる>
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この弛まざる武田軍のエンジンを動かす燃料は『ほうとう』あった。
武田信玄の領地甲府盆地は国中と言われ、その代表食は『ほうとう』である。うどんとは一線を画し、食塩を全く加えないことによって、こしが少なく、汁の中で煮込むと、麺からでんぷんが溶けてとろみが付くため独特の風味が作り出される。味噌を主体に薄く伸ばしたもちもちとした独特の食感は堪らなく美味い。
この『ほうとう』は戦国時代同地方を席巻した武将、武田信玄の陣中食であったと、言われ、身近な食を通じて果てしない戦国武将のロマンに繋がってくる。
郷土食として誕生し、同地に根付いている背景にはこんなことが言われている。
慶長3年(1598)の見地目録にある甲斐の米の生産は22万8千石、上杉謙信の39万7千石で6割程度で、米が採れない土地柄から、小麦、大麦他の雑穀が中心の粉食文化が発達している。
群雄割拠の戦国時代、武田、今川、北条、上杉、織田の激しい戦いの中、戦略の一つに『塩』を巡る
駆け引きがあったことなど、面白いが如何に大事であったかを物語る。
永禄10年(1567)武田信玄は今川氏との同盟を破棄し、東海方面への進出を企てるが、それに怒った今川氏は北条氏と協力し、武田領内への「塩留め」を行う。
海に面していない甲斐・信濃(現在の山梨・長野)武田の領地は、塩を取ることが出来ず領民は苦しんだ。
この、武田の領民の苦しみの事態をみて、見過ごすことが出来なかった、信玄の好敵手上杉謙信は義を重んじ、越後から信濃へ塩を送り、武田氏とその領民を救った。
由来「敵に塩を送る」と言う言葉に繋がっている。
今日、有名な言葉として知れ渡るが、それ以上に敵対関係にある相手でも、相手が苦しい立場にあるときに救いの手を差し伸べた上杉謙信の懐の深さを思い知らされる
流通機構が発達した今日、容易に手に入る塩も、諺に載るぐらいに、当時では海から離れた土地では希少な存在であった、事が判る。
常食に近い、「ほうとう」の手法に希少な塩を使わない、製法を練り上げたことは充分考えられる。
仕上げられた製法から、独特の口当たりののもちもち感はこんな意外な所から生まれている。
◇陣中食としての『ほうとう』

Img155小麦粉、味噌、鍋さえあれば、山中であろうと場所を問わず何処でも簡単に作ることが出来る。
消化も良く、直ぐにエネルギーになるから陣中食としてさ最適である。
戦いの移動過程で野生動物の出会いに狩りで捕えたイノシシ、鹿などを鍋にぶち込み、一段とバラエティに飛んだメニュウにしたに違いない。
ほうとうは米に比べて軽く、機動性を求められる、山野の野戦移動など『疾如風』(疾(はや)きこと風の如く)武田軍の強さを支えたのもこの軽便性でもなかろうか

◇余りの美味さに

Img_761611甲州街道、旧勝沼宿の西側に位置する勝沼町の、御屋敷にある慶千庵で中庭の風情を確かめながら、武田信玄の思いを馳せながら、じっくりと『ほうとう』の味を堪能した。

  <ドンブリ鉢に一杯に豊かな食材とあわせ、濃厚なほうとう>

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これから陣移動にも関わらず、大きなドンブリに味の染みこんだ野菜、ほうとうなどなど、かなりのボリュウムに、美味さの余り、幸せ一杯と感動し、完食してしまう。
加齢と共に食も狭くなった昨今、並以上に食べてしまい、「疾(はや)きこと風の如く」とはほど遠い食後の立ち上がりであった。
「ああ、これではとても武田軍に付いていけないなあ~と思いつつ、よっこいしょ」と重くなった体にムチ討って、甲州街道を東に向かった。

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「明治天皇行幸」の影に政府内の激しい抗争の嵐

       <甲州猿橋での明治天皇行幸姿>Image51

<明治6年、洋風に断髪された若き明治天皇>Img144明治13年6月16日、明治天皇が甲州路から木曽路を京都へ御巡行され、激しい雨の中、馬車で日野佐藤邸へ到着した。雨は激しさを増し、道路上に砂礫を撒くのみで、馬車は泥に車輪を取られ、難渋したと言われている。
明治天皇を乗せた重厚な儀装車を中心に前後を固めた小旗の日章旗を掲げて儀仗兵達
の物々しい制服姿の一団は街道筋の人々を驚かす、重厚で壮大なシーンであったと想像する。
随行者は300~400人と言われ、二品貞愛親王、太政大臣三条実美(長州系公家)、参議伊藤博文、同寺島宗則、他内務郷、文部郷、宮内郷、陸軍中条、などなど国の中枢を担う要人が多数含まれた。
日野宿では宿の指導者たちが、羽織・袴に威厳を正し明治天皇の巡行を迎えた。
元々幕府の天領地の日野に幕府が倒れ明治維新後、明治天皇と言うVIPを日野でお迎えすることになった。

◇何故、このような大々的な行列が必要であったか

<明治6年の政変で勝ち辣腕を振るった『大久保』>

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明治10年代は地租改正反対一揆や自由民権など高まり、力のみでは抑えきれないものがあった。時の明治政府は明治国家として人々の心を集め捉える必要があった。
そんな背景の中の明治天皇巡幸は「貴種崇拝」と言われ日本人の皇室など高貴な人を尊敬し,あがめることを、国民に植えつけ、皇室を通じて人心を捉えた。
恐らく岩倉具視・大久保利光の路線から明治10年代に大々的に行幸が行われた。
日本の近代化を目指し、政府内部の激しい路線闘争が生まれ大久保利光が勝利し、西郷派を放遂し、近代化路線へ一気に舵を切る。
明治維新の意志を込めて、明治天皇、以下三条実美、伊藤博文以下壮大な随行者、荘厳
晴れやかな行幸のパレードの蔭に時の要人が直前に次々と消えていった。
激しい抗争の中、国の中枢を担う、大久保は士族に襲撃され、西郷は西南戦争で散り、江藤は佐賀の乱で斬罪梟首で悲憤の最後で亡くなる。其の他の参議も第一線から消え去ってしまう。


近代化路線の意志を継いだ節目の行幸前に揺れ動いた激しい抗争と事件を追ってみる

◇明治6年の政変
<明治6年派遣延期を決めた会議、左から、大久保利通、光岩倉具視、三条実美>

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明治維新が行われ、日本か国家造りにかかるおり、世界帝国主義がアジアを呑み込もうとする時勢に「強兵富国」の近代路線に迫られた。
<多くの人々に見送られ、停泊中のアメリカ号へ、向かう使節団一行を載せた小舟。主役3人の姿が見える>
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明治4年~6年岩倉具視・大久保利光・木戸隆則・伊藤博文一行の米欧視察からの国際感覚を背景に西欧化することで「富強への道」を実現することであった。
一方、米欧視察団の留守居役 『西郷隆盛』 『江藤新兵』は四民平等・農民耕作権・鉄道・電信・太陽暦着々と改革を押し進める

留守中に『朝鮮問題勃発』し『西郷』は非武装で談判することになったが、天皇の裁量から岩倉の決断待となった。
視察団帰国後『三条』・『岩倉』から『大久保』へ参議起用を依頼する。

使節団は肝心の日米通商条約の改定が出来ず、『使節団派遣』は実質的に失敗、帰国後『大久保』は政界への復帰は責任から辞退する。
政治の混乱もあって『三条』・『岩倉』は『大久保』参議説得に集中し、『西郷』の派遣が店晒しに、結論は二転三転する。
『三条』・『岩倉』の『大久保』への懇願は続き、『大久保』は根負けし、参議をき受ける。しかし、『西郷』の派遣見合せを条件に引き受けたが、『三条』・『岩倉』周りの意見に動かされ『西郷』派遣すると裁定してしまった。
この約束違いの決定に『大久保』は怒り狂い再び辞意を表明し、衝撃を受けた『岩倉』も辞意し『三条』は苦悩の余り人事不省に陥り執務不能になる。

この間、政治の空白に『伊藤博文』の『大久保』への非常手段の提案で、「天皇の誘導を図る」献策が通ってしまい最終的に『西郷の朝鮮派遣不裁可』となる。
この裏取引、不明朗さの決定に『西郷』は抗議し辞表を提出する。
『岩倉』・『大久保』ラインと対立した『板垣』『後藤』『江藤』『副島』4参議も辞表を提出した。
この政変から生まれた対立の構図が、以降の活動に鮮明となる。

◇『佐賀の乱』
<佐賀の乱首謀者として、元参議『江藤』も斬罪梟首>

Img145明治政府は四民平等を目指し士族特権解消を強力に押し進めた。
渦巻く士族の不満から参議『江藤新兵』を擁して大規模な武力反乱が始まる。

明治7年『江藤』・『副島』は『板垣』と共に自由民権運動を始める。
『岩倉』は征韓論者の『武市熊吉』高知士族らに赤坂喰違坂で襲撃されるが暗殺未遂に終わったが 西郷の朝鮮派遣問題は尾をひく。
政府当事者は神経過敏になり『江藤』の帰郷に異常反応する
佐賀県士族は下野した『江藤』を頭に『憂国党』は佐賀県庁に入る。

内部郷の『大久保』は軍事・刑罰で現地へ、総計1万の政府陸海軍が出動し、鎮圧する。
『大久保』の強権は留まることなく、かっては政権の中枢を担う参議の一人であった『江藤』をも容赦なく斬罪梟首する。

◇『大久保』軍隊動員など強固な専制国家
<自由民権運動に走った元参議『副島』>

Img146明治8年『大久保』専制政治に流れ、 殖産興業の一方『警察政治』をしき、専制国家建設に狂奔した『自由民権運動』を抑圧した。
軍隊による鎮圧などの挑発で『大久保』政権の基盤強化する。
『廃刀令』を機に熊本で『神風連』の反乱、更に『秋月の乱』『萩の乱』に引火し、牙城の薩摩退治にかかる。

◇西南戦争
<死後、キヨソーネが描いた西郷像>
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下野し帰郷した『西郷』は山野で狩り、田畑を耕す隠居生活を送っていた。
争点であった、自身の朝鮮派遣に一度決まったことが、寝業、裏技で覆されてしまう不信の義はとても耐えられず、政治の世界から身を引いたと思われる。
西郷を追って、軍人官吏や郷党の若者は反政府運動に燃え、西郷の消えかかった火を付けてしまった。
予期以上に燃え広がるエネルギーに鎮静化のため『私学校』が作られた。
一方では『大久保』の腹心『川路利良』警視長官は鹿児島出身警官120名余を帰郷させ『私学党』の離間工作やスパイ活動に従事させた。
政府は輸送船を送り、鹿児島の火薬庫の弾薬を運び出そうと画策したが、私学校の生徒は火薬庫を襲い弾薬を奪い取った
私学校党は1万3千の薩軍、熊本で7千の他県の士族を加え大隊編成の行軍体系で『西郷』の御輿を担ぎ出発した。
『西郷』出立の報に政府も呼応し『鹿児島県暴徒征討』の詔(しょう)を発する。
『谷千城』の3千の兵を率いるの熊本城攻防戦、『田原坂』で約半月死闘を繰り広げる熊本県南部の『人吉』、更に宮崎、延岡、鹿児島に転戦する。
明治10年、9月24日、城山にこもる370人を四方の政府軍が包囲して、総攻撃が始まり、『西郷』は敵弾を受け、亡くなり『西南戦争』は終わった。

その1年後、明治11年5月、『大久保』は紀尾井坂の変(現千代田区紀尾井町清水谷)で石川県士族・島田一良6人の襲撃にあい、斬殺される。
こうして激しい抗争を踏まえ、人心が納まらぬ中、明治13年 明治天皇の京都行幸が粛々とおこなわれているのである。

NHK大河ドラマ『西郷どん』もいよいよ大詰め、明治維新を迎えて間もなく、新政府が歩む過程で、眠っていたマグマが目を覚まし、次々と事件と激しい戦い  が生まれていった。その姿をこちらでも追ってみました。

明治維新推進過程の抗争

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甲陽鎮撫隊の地、勝沼にゆく

新選組をこよなく愛する会から依頼もあって、久しぶりの勝沼行きであった。
変転する予報に気をもみ、当初は雨であったが、見事に外れ幸い好天気であった。
紅葉の時期ともあって、登山姿に身を固めた客が、大勢いる中、JR中央本線で始発の高尾から乗車する。
ボックス席の一角を占め、これから向かう、勝沼へ、甲陽鎮撫隊の話など蘊蓄を語り合い、早くも、幕末一色にスイッチが入る。
大月当たりで、進行右手に見下ろす位置に甲州街道が並走し、走馬灯の様に移り変わる街並みに、『ほらほら、あれが下花咲本陣だよと』特徴ある姿に、果たして何人が捉えることが出来たのであろうか?、
電車は山間部の中へ、進み、笹子トンネルを抜け、甲府盆地一帯の所謂「国中」と言われる武田信玄の地域入り、あっと言う間に勝沼ブドウ卿駅に到着する。
<勝沼ブドウ卿駅>

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駅沿いの専用軌道沿いに、東京方面に向かうと、観光の拠点、鉄ちゃんの拠点でもある大日陰トンネルの鉄道遺構があるが、地震の影響で2年程前から閉鎖されていた。
数年前に、ワクワクしながらトンネル潜るりの実体験をしたが、このトンネルの先が官軍が柏尾に襲いかかったルートで一度踏破したかったが、その機会を絶たれてしまった。
膠着状態の勝沼の決戦で土州藩の一隊は菱山(現勝沼ブドウ郷駅)を迂回し深澤部落から柏尾の陣にある敵の背後を衝かせ、幕府側一気に崩れたルートである。
勝沼ブドウ卿駅は高台に位置し、甲府から甲州街道を東下する、板垣退助、 谷千城率いる以下総員、1200名の東山道軍を見通せる位置にあるが、残念ながら、紹介する機会もなく控えるタクシーに慌ただしく乗車し、古戦場に向かった。

1)幕軍の陣を張った付近。

<甲州街道、現深澤川入口付近>Tinbutai201_3

崖が幕軍が陣を張った日向平であり、現在の甲州街道深澤入口で甲陽鎮撫隊は此処で陣を張る
<幕軍の陣地>
当時、江戸へ向かう唯一のルートが甲州道であり、幕軍の陣は交通の要所を抑えることで有効であった。
先端部分が出っ張り、Y字路で陣を構え正面からの敵に向き合えるが、側面からの攻撃には弱かった。山頂に陣を構えれば、下からの登坂者に対して上から制圧出来る位置にある。
そんな地形的な背景にありながら、三方から挟撃され、僅か2時間余りで甲陽鎮撫隊が破れ、敗退する。
肝心の戦闘場所は、明治13年、 明治天皇行幸で馬車が通るため、明治9年頃から改修工事が始まり当時の戦場跡が、道を下げる掘削工事で消えてしまった。
橋のたもとが明治天皇に示すために天上錘として碑がたてられ、戊辰の役のおり官軍が進軍し此処で、東国の最初に開いた戦いの場所と説明している。以来、古戦場と言う名前で伝えられた。
折しも大河ドラマ「西郷どん」で日本の近代化路線を走る、岩倉具視、大久保利光に抵抗した西郷は明治10年に戦死、翌年岩倉も紀尾井坂で襲撃される。大久保の意志は岩倉や伊藤博文に継がれ、明治維新の方針の国民膨示に地方巡幸を実施する。
大々的な従者を引き連れ、命運をかけた馬車道まで作ってしまった明治天皇行幸であったのである。目の前の陣を張った場所の変容した姿に、目まぐるしく変わった時代を見るようであった

2)岩崎山攻防戦
柏尾の陣から南側は日川が流れ、その川を挟んで向かい側が山になっており、広がった川を中心とした世界が俯瞰できる。日向平の南方に位置する岩崎山は諏訪兵と永倉新八の指揮する幕兵との戦闘があったが、瞬く間もなく敗れ、で余儀なく後退し柏尾の本隊に流する。
岩崎山を占拠した官軍は、日川の渓谷越え、日向平の側面から追撃する。

3)柏尾橋
<深澤川を挟んで、両軍戦った場所、手前側に旧橋の欄干が見える>

Tinbutai301
甲陽鎮撫隊の陣を張った場所は深澤川と言われる急峻な渓谷にある。この深澤川に柏尾橋が架けられ、甲州街道を勝沼と江戸方面に繋がる橋として大変重要な役割を担う。
古い橋の橋桁と草藪の影に対岸の橋桁が僅かに見える、その下が深澤川である。対岸の民 家付近は甲陽鎮撫隊が破れ、退陣するおり、火がかけられた。
この先が深澤川で切り立つ崖で、谷底のようになっており、落ちたら二度と上がれないような、奈落の底である

<垂直に切り立つ石積み>Image211_2木立の裏側に石積みの壁がほぼ垂直に切り立っている姿が写真を通して僅かに見える。
甲陽鎮撫隊と相対座した新政府軍の陣座はこの谷底の深澤川で向き合うが、大変短い距離である。

4)祇園淵
   <幕軍兵、追い詰めら飛び込み、逃げた祇園淵>
Tinbutai302_2柏尾の陣の古戦場から水力発電所で整備された緩やかな坂道を降りきった所に、見事な飛瀑に息を飲んだ巨大な滝壺の祇園淵に到着する。
追い詰められた幕兵の一部は逃げ場を失い、滝壺にダイブ、日川沿いに逃げたと言われる。、激しいしぶきを上げる、自然から生まれた急に開けた炯眼、懐の深い、日川沿いの舞台の出会いに、同行者の感動の声が上がる。

5)陣中食で信玄公に心酔
<一杯入ったほうとうのドンブリ>

Img_11681_2アップダウンのある古戦場周辺を散策し、一段落、車で予約積みの勝沼町の慶千庵に向かい武田信玄の陣中食のほうとうを食べる。
元々水田の少ない土地柄、それに取って代わる陣中食が甲斐の郷土食として育った。
此処は拘りを持って味噌味、野菜満載の「ほうとう」食べ身も心も武田信玄になり濃い味に心酔した。

6)甲州街道を東下
さてここから、甲府から甲州街道を東下した板垣退助率いる東山道軍にならって、勝沼宿を抜け、更に大善寺へ向かう。

7)勝沼宿
勝沼宿は甲府盆地の東端の宿として、問屋場、本陣と複数の脇本陣が構え繁栄を極めたが当時の建物は殆ど無くなりブドウ農家に変わってしまった。
僅かに江戸後期、以来と言われる貴重な仲松屋住宅の東屋敷が残される。板葺き二階建てで道路側には縦の格子が使われ落ち着いた雰囲気作りに一役買っている。この手の建屋が街道筋に軒を連ね、厳めしい 武装した新政府軍の一行が、屋敷の前を通過、柏尾の戦場へ向かった姿を見届け、幕末か維新へ激しく変わる時代を越えて語り伝えている。

勝沼宿から前方を見上げると、丸で剃り込みを入れた異様な柏尾山の姿が嫌でも目に入る。
鎌倉時代からブドウ害虫駆除に柏尾山の「鳥居平」で10月に鳥居型の山焼きが鳥居焼が
行われる。柏尾山の山頂の鳥居平では伐採され、刈り取られた部分が鳥居の姿が甲州街道からはっきり見える。

8)大善寺
ほうとうで重くなった体に、腹減らしと、気負い込み、 旧田中銀行、本陣跡、勝沼氏館跡を見て、大善寺を目指す。カーブを伴う緩やかな坂道が、延々と続き、中々大善寺の看板が見えず、途方にくれたが、ムチを入れ、足を引きずりながら何とか辿りつく。
休む間もなく、本堂(薬師堂)に通じる待ち受ける急階段の難所が立ちはだかり、疲れ切った足腰に絶望感も漂うが、此処が最後と思って、気力で登る。

勝沼戦争で甲陽鎮撫隊は大善寺に本陣を置こうとしたが、大善寺には徳川家、縁の寺宝があるという理由から諦め戦闘による、草刈り場になることは避けられた。
<紅葉真っ盛り>

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本堂で参拝し、此処まで辿りついた無事に完走できたことを感謝する。
階段脇に、真っ赤に色づいた紅葉の花舞台をたっぷり堪能しながら、勝沼旅は無事終了した。
<新選組の羽織と真っ赤な『誠』隊旗>
Image111_2
同行の皆さんは新選組縁の地として、大善寺の山門で新選組羽織で身を包み、持参した大きな『誠』の隊旗を掲げ、記念撮影する。
満足した笑顔に新選組に心酔する思いが、この甲州の地で叶えられたようであった。

当該記事はHP『勝沼宿と柏尾古戦場跡』 でも詳細が書かれており、併せてご覧いただければ幸甚です。

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佐藤彦五郎逃亡先五日市、『羽生家』を訪ねる

慶応4年(1868年)3月、鳥羽伏見の戦いに破れ甲陽鎮撫隊に名を変えた新選組が甲府城を目指した。
この勝沼戦争に日野宿問屋佐藤彦五郎は近藤に協力しようと、日野宿の農兵で組織し、甲陽鎮撫隊の後を追った。

       <新選組祭り、先頭に武装姿の彦五郎役>

Toubou01<日野宿農兵隊が使用した旗>

Yasutugu104しかし甲陽鎮撫隊は甲府城先取に失敗し、板垣退助率いる東征軍と勝沼で戦い破れた。
逃げ戻った彦五郎は「朝敵」とされ東征軍に追われ、親戚や知人を頼って身を隠した。
その約一月後、流山に転陣した近藤は東征軍に降伏し、板橋刑場で斬首された。
そんな背景もあって東征軍の厳しい探索は戦慄が日野宿を走った。 身に迫ってくる、厳しい追求の中に彦五郎始め家族全員がそれぞれ逃げまくった。
彦五郎(42歳) 妻のぶ(38歳) 二女とも(5歳)を下女あさ(18歳)に背負わせ日野宿から西へ下った。
東光寺道より粟の須、多摩川周辺から五日市街道を西下二宮村茂平宅に辿り着く。
途中粟の須で官軍の追求もあったが何とかかわし、逃れた。茂平氏の案内で五日市在大久野村なる、羽生家にすでに夜半の1時頃で着いた。
<果てし無く続く塀の広大な敷地の羽生家>
Image111同家主人始め皆起き出て、茂平氏より委細を聞きかつ同情せられ、奥座敷に招かれて食事万端手厚き待遇を受け、全く安心して床に着いた。
もう此処まで来れば、追っ手は此処まで及ぶことはないだろう、緊張感を解かれ安堵感と長旅の疲れで、深い眠りにつき、一先ず長い長い追送劇の一日はようやく終わった。
彦五郎一同は此処で匿われ、暫く長逗留し、懇切なる待遇を受け、その間茂平氏 からの日野宿はじめ官軍の動向を伺った。
◇助命嘆願の工作
彦五郎は傘を冠りござをまとい、脚絆草鞋のの商人体で潜伏した居た大久野村からただ一人、様子を探りに出た。
粟の須の井上家で捕縛された息子の源之助が釈放され、騒動以来、初めて親子対面、一座嗚咽の声に満ちた。
明方近く彦五郎は出立。砂川街道を廻って江戸に入り、忍びしのんで、向島に潜んでいる近藤、土方を訪ねて、 一族赦免の件を相談した。
近藤は大久保一翁に、土 方は海舟勝安房守に、密使を立て懇々書き送るところあって、朝廷寛典(かんてん)の御処置を希願した。
数旬の後、日野佐藤彦五郎一家差構(さしかまい)なしと、大本営詰め西郷候より達しがあり、漸く離散潜伏していた家族一同が、帰宅することが出来た。
こうした、近藤、土方らの働きかけとは別に地元日野宿から帰村嘆願が官軍に提出され嘆願叶い、彦五郎は帰宅が出来た。

◇そんな羽生家を訪ねて見た。
、小田原から、兄弟で当地に移り、農林業に従事する。兄弟がそれぞれ後を継ぎ、、現在は上羽生、中羽生、下羽生含め、年一度、中羽生家に集まり、山に登って住職が、お経を上げた後、、先祖様の感謝の念をこめて、宴がもたれる。

五日市街道の幸神、(地図上では大久野中学校)から分岐した道が『羽生通り』と言われ、この道沿いに誉れ高い名家 『羽生家』の一族が住まわれている屋敷がある。
この『羽生通り』の先がこんもりした森に繋がるが、羽生家がある

◇羽生家
(敷地と建物)
1)広大な敷地
敷地面積は大凡25、000坪と言われ、羽生通り沿いに、羽生家の屋敷の一角に到達する。数少ない巨大な3階建ての倉が、更にその脇に巨大な薬居門が、でんと構え、地域の歴史を今日に伝えるシンボル的な役割を担っている。
周りに建物がなく、板塀越しの倉、切妻屋根の風格を備えた門を前に重厚な格式と歴史にタイムスリップ出来る。
その倉に沿える様にある巨木は昭和18年頃植えられ、小字落合の雑山にあった4~5尺の欅で、幹周320cm、推定 高さは31mと言われ、日の出町の名木の一つと言われている。

Toubou404

①番小屋付き通用門)
広大な敷地は黒い板塀が敷かれ、南都方向には石垣など築かれている。奥が番小屋付きの『通用門』で通常の敷地の出入り口利用される。出番所が付いており、立派な詰め所を供え門番を配置する 。

Toubou501

② 薬居門

Toubou504明治15年製の薬居門は随所に装飾金具を付け、重厚な構えは表門として格式を備えている。
門は木目が揃い吟味された材料を使い、高さ5~6mの壮大な構造の門である。構造的に少し重心が後ろの方に行くように、塀の奥側に屋根の中心になるような構造になっている。
屋敷の出入りは通用門で薬居門は何時も閉まっており、冠婚葬祭や年に何回かの祭りの時の限定利用に、門の重さ、風格を感じられる

*薬居門:本柱の後方に控柱2本を建て、切妻屋根をかけた門

③ 中庭
表門を潜って、正面の主屋に結ばれる花道は石畳が敷かれ両側は庭石と植木が植えられ風情を備えた日本庭園風に綺麗に整備されている。
主屋の前は性格の異なる2つの庭園が板塀によって仕切られ、手の込んだ庭作りに、持ち主の思い入れに格別のも のを感じられる

④ 主屋

主屋は、数年がかりで建築し、明治24年(1891)に完成した。当初の平面構成は東西2列、8間(14.5m)に並んでいる。
表門は南側に格式を重んじた入母屋造りの屋根に式台付きの玄関口で出迎えられ、繋がる部屋には欄間や床の間 棚、付書院が設けられ、高い格式が備えられている。

春夏秋冬の絵は大政奉還図を描いた立川に住んでいた『邨田丹陵(むらたたんりょう)』の一級品の作品が飾られてある。
等々、羽生家にある書・絵からも、当時の高位な人脈にも繋がっている。

⑤)6棟の土蔵
敷地内は6棟の土蔵があり、白漆喰で比較的小振りな穀蔵と味噌蔵の3棟は江戸後期に建築され、大火事で屋根が焼け落ち修復したと言われている。
残りの3棟は火事の後、明治中期に建築されたものと言われている。これ程多くの蔵が建てられた のも『大久野焼け』の甚大な被害の反省から地域共通の傾向と言われている

◇お宝発見
昭和63年(1988)頃、同家の土蔵から、近藤勇の手紙が発見された。佐藤彦五郎が同家に匿われた時に近藤の書簡を預かっていた彦五郎が置いていったと言われている。
彦五郎来所以来であれば土蔵の中に約120年眠っていた『三浦休太郎宛近藤勇書簡』が白日の元に晒された

Toubou602慶応3年(1867)11月18日付けの近藤勇から『三浦休太郎』宛であるが、未提出のままである。
紀州藩士の三浦休太郎は坂本龍馬暗殺の疑いを持たれ海援隊から命を狙われていた。そのため三浦は会津播を通じて新選組に身辺警備依頼していた。
この手紙では三浦の元に潜伏していた「二郎」という者を必要とする事件が出来たので無断で引き取ったことをわ びている。
手紙が書かれた翌12月には三浦が旅宿していた京の天満屋を海援隊が襲撃、新選組と斬り合いになった。三浦は軽症であったが、近藤勇の従弟で新選組の宮川新吉が戦死している。
油小路事件の当日に書かれた。その直前に『斉藤一』が御陵衛士 から脱走して新選組へ戻るが、その間 三浦休 太郎の元で斉藤一を使っていたが、近藤勇が戻した詫び状でここにある「二郎」は 斉藤一である。
近藤と御陵衛士 との約束で一端御陵衛士 に行った者は戻さないと言う約束であったので、斉藤一では帰れず「山口二郎」と言う名前を使っている

御陵衛士が新選組から離脱する渦中の生生しい話である。三浦休太郎への近藤勇のわびの手紙が此処五日市 大久野村、羽生家眠っていたのであった。
そんな記録を直に接する機会を頂き、身の引き締まる思いで拝見することが出来た。

詳細はこちらHP にも載せています、どうぞご覧ください

彦五郎逃亡記 

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