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八王子から篤姫に

Img00002 多摩地域の名主の娘は行儀見習いに花嫁修行を兼ね、江戸城大奥や大名・旗本家に奉公に出るものが多く居た。その一人、八王子の宮下村の旗本川村家知行地名主の娘「まさ」は嘉永5年(1852)薩摩藩島津家の江戸藩邸に奉公に出た。

多摩地域ではほとんどが幕府領・旗本領で外様大名に奉公に出ることは稀だといわれている。そんな中で何故生まれたからと言うと当時13代将軍家定の御台所として、成彬の養女「篤姫」の入奥をひかえていた薩摩藩が大奥の関係を重視し、経験のある優秀な女中を求めていたと言われ、それが「まさ」であったのである。

まさは薩摩藩で「喜尾(きお)」という名を貰い、手紙や記録など文書を書く係でである右筆として奉公したと言われており、当ブログで書いた「吾輩は猫である」で登場した右筆に一致するのである。

後に「瀧尾(たきお)」に名を改め、維新まで奥女中を勤め、明治6年(1873)に亡くなっている。

喜尾と篤姫とはどんな出会いがあったのか、そんな身近な所に接点があったとは思えなかった。喜尾は大名家奥の実態などの記録を残しており、奥から見た幕末の薩摩の姿などメスが入れられのではとその中身の研究が期待されているようである。

喜尾の功労に対しての島津家から拝領したものの一つがこの長持ちで、現在八王子郷土資料館に保存されている。

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篤姫の旅立ち

St07_021篤姫がとうとう江戸への出立の日を迎える。
老女幾島の元、徹底的にお姫様教育され、篤姫が将軍家正室、いわゆる御台所(みだいどころ)として大奥に入る準備が着々と進められるが、個人の感情を一切許さない人間ロボットが徹底的に洗脳されていく様がかなりの時間をかけている。
その間、一地方で奔放に育てられた武家の一人の娘が、葛藤しながらも、自立に目覚め健気にお姫様に育てられていく。

準備万端このドラマの一つの節目として、出立の日を迎える。
敢えて特別に許された鶴丸城の面会の場で生みの親とも一切の私語は許されず、個人の感情を封じられた正に儀礼的な荘重な儀式であった。
登り詰めた娘の前で、生みの親との絆を断ちきられ、言葉もかけられず、目の前から去っていく姿に何とも凄まじい冷酷な世界と思い知らされる。
生みの親「忠剛」が娘の晴れ舞台を前後に倒れてしまうのも、正に今生のお別れのようで、振りかって我が身に娘を手を携え、バージンロードを歩んだ時の気持ちが重なるようで、思わず熱くなってしまった。

大奥にならずの一サラリーマンに嫁いだ愚娘でも、手放す時の淋しさは古今東西同じであるが、この儀式を最期に、お目通しの機会を断ちきられるのは、倒れるのも致し方ないものであり心中察するばかりである。
ちょっと、比喩の相手が悪すぎ、興ざめかも、知れないが、(笑い)その孫娘に、赴くまま車で会いに行けるのも当たり前のことであるが、平和な世の中である。

桜島に見送られ、大河は荒れる海の中を揺られ、いよいよ江戸へ面白くなっていく

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千駄ヶ谷 徳川屋敷跡

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戦後、オリンピックが始まる前の千駄ヶ谷駅前から鳩森神社に向かう道に津田英語塾があり、その向かい側が徳川様と言われた洋館建のモダンな屋敷がり、小生も屋敷内をそのまま、コロ引き移動する姿が微かな記憶に残されている。
その屋敷が明治に入り建てられた 徳川家下屋敷である。
大河 ドラマで一躍有名になった徳川13代将軍・家定の御台所(みだいところ)となった幕末のスーパーレデイ天璋院篤姫が此処で住み、49歳で此処で亡くなっている。更に、徳川宗
家16代当主徳川家達が住むなど、徳川家縁の場所である。
屋敷は現在の東京体育館付近から千駄ヶ谷八幡(鳩森神社)を通って玉川上水の葵橋付近まで建ち並び、その土地の広さ、全体で十万坪を超えていたと言われる広大な土地であった。
昭和39年(1964)に東京オリンピックの体操競技の会場として、当地に東京体育館が建てられ、屋敷が跡形もなく、一掃されてしまった。その建屋はその後、何処かに移築されたのか、それとも崩壊されてしまったか、判らないが記憶に残る幻の姿が消えてから既に半世紀も経過してしまっている。

幕末史を飾る、スーパーレデイの存在は大河ドラマで光を浴びたが、こんな身近な所に住んでいたことに驚いた。画像でも残しておけば大変希少な価値とも思えるが、幕末史に目覚めたるには年が経ちすぎていた。
天璋院篤姫は薩摩藩の今和泉島津家から、島津成彬の養女となり、政略的に将軍・家定の御台所となったが、家定は1年そこそこで急死、幕府崩壊の時期に官軍と渡り合い、江戸城無血開城に大きな役割を果たしている。
元々酒は嗜まなかったが、家定が亡くなってから飲むようようで、渋谷の屋敷には赤坂の勝海舟の屋敷が近いので天璋院を芝居や料理屋に連れていったことで慰められている

写真は現在の体育館に当時の面影を思い出すにはすっかり、変わってしまった。

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吾輩は猫であるに登場する天璋院

Image1  「何でも天璋院様の御祐筆(ごゆうしつ)の妹のお嫁にいった先の御っかさんの甥の娘なんだって」猫どうしの対話の中で、猫の三毛子が吾輩猫に飼い主の二弦琴のお師匠さんの出を自慢そうに説明する。以上の部分が夏目漱石の「吾輩は猫である」の作品に登場する。・・・これもツア旅行の内藤先生の受け売りである。

「天璋院様の御祐筆(ごゆうしつ)の妹の・・・」複雑な系譜の文言にだから、天璋院様の何なのかを聞き返すが、頭の中が混乱しよくわからず、「あなたも余程分からない」と説明する三毛子が逆切れて しまう。

こんなやりとりから、御祐筆を調べてみた。奥右筆(おくゆうひつ)とは、江戸幕府の役職のひとつで、若年寄の支配下にあった。奥御祐筆(おくごゆうひつ)とも言われる。江戸城本丸の御用部屋に詰めることが多かった。
奥右筆とは、江戸幕府の機密文書の管理・作成などを主に取り扱う役職で、江戸幕府の数多い役職の中では特に重要な役職であった。現在で言うところの企業や政治家に付く、秘書に近い存在であった。ただ、秘書に比べ、奥右筆は権威も高く、大老や老中などの幕閣が出席する会議でも意見を述べることができる権利を持っており、一説では老中よりもはるかに強い権力を持っていたとも言われている。

と言うことは飼い主の二弦琴のお師匠さんの縁者は大奥のトップにある高位の役職にある方だよと言うことのようだ。

漱石は慶応3年(1876)江戸牛込馬場下横町に名主夏目小兵衛の五男で末っ子であった。漱石の育った環境は江戸町人の世界であり、小説の舞台となった本郷区(文京区)千駄木町は当時漱石が住んでいた所で、二弦琴のお師匠さんも実在していたようである。その町人文化に天璋院様の存在も深く入り込んでいたのあろうか・・・。

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