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千駄ヶ谷 徳川屋敷跡

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戦後、オリンピックが始まる前の千駄ヶ谷駅前から鳩森神社に向かう道に津田英語塾があり、その向かい側が徳川様と言われた洋館建のモダンな屋敷がり、小生も屋敷内をそのまま、コロ引き移動する姿が微かな記憶に残されている。
その屋敷が明治に入り建てられた 徳川家下屋敷である。
大河 ドラマで一躍有名になった徳川13代将軍・家定の御台所(みだいところ)となった幕末のスーパーレデイ天璋院篤姫が此処で住み、49歳で此処で亡くなっている。更に、徳川宗
家16代当主徳川家達が住むなど、徳川家縁の場所である。
屋敷は現在の東京体育館付近から千駄ヶ谷八幡(鳩森神社)を通って玉川上水の葵橋付近まで建ち並び、その土地の広さ、全体で十万坪を超えていたと言われる広大な土地であった。
昭和39年(1964)に東京オリンピックの体操競技の会場として、当地に東京体育館が建てられ、屋敷が跡形もなく、一掃されてしまった。その建屋はその後、何処かに移築されたのか、それとも崩壊されてしまったか、判らないが記憶に残る幻の姿が消えてから既に半世紀も経過してしまっている。

幕末史を飾る、スーパーレデイの存在は大河ドラマで光を浴びたが、こんな身近な所に住んでいたことに驚いた。画像でも残しておけば大変希少な価値とも思えるが、幕末史に目覚めたるには年が経ちすぎていた。
天璋院篤姫は薩摩藩の今和泉島津家から、島津成彬の養女となり、政略的に将軍・家定の御台所となったが、家定は1年そこそこで急死、幕府崩壊の時期に官軍と渡り合い、江戸城無血開城に大きな役割を果たしている。
元々酒は嗜まなかったが、家定が亡くなってから飲むようようで、渋谷の屋敷には赤坂の勝海舟の屋敷が近いので天璋院を芝居や料理屋に連れていったことで慰められている

写真は現在の体育館に当時の面影を思い出すにはすっかり、変わってしまった。

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09、四谷・千駄ヶ谷歴史散策」カテゴリの記事

コメント

こんにちは。
昨日「天璋院展」へ行ってきました。
土曜の午後とあってとても混雑していましたが
年齢層は60代70代が殆どのような気がしました。(団体客だったのかも)
展示物は興味深いものが多かったです。
やはり直筆の手紙など見ますと、鳥肌の立つくらいの感動を覚えました。
その中でも天璋院が薩長の隊長に宛てた手紙は心をうちました。
勝海舟の日記が展示されてましたが「案外良い奴だったんじゃん」なんて思ってしまいました。(笑)

東京から「江戸」を消し去ったのは空襲だけでなく、「オリンピック」というものだったのですねぇ、今又都は招致に必死のようですが・・・古い徳川屋敷を見てみたかったです。

投稿: ねこ江戸 | 2008年3月16日 (日) 12時22分

「天璋院展」へ行かれたようで
ご苦労さまでした。
土日はやはり混むようですね
>薩長の隊長に宛てた手紙は心をうちました。
たしか音と画像でも繰り返し流され、じーんと来る所、私もあそこで思わず立ち止まり、貼りついてしまいました。
薩摩の出から、幕府側に成りきり、あの立ち振る舞いに天璋院の心ゆきが出てる要で、素敵なスーパレデイでした。
オリンピックは破壊の産物、北京もかっての東京を追っているようです。

投稿: 隠れ新八 | 2008年3月16日 (日) 21時50分

初めまして。
今、千駄ヶ谷について勉強しています。

つい最近寄ったお店で、篤姫が千駄ヶ谷に住んでいたという話を聞き、
大河ドラマを毎回楽しみに観ていた私は大興奮してしまいました。

これから色々勉強させていただきます。
よろしくお願いします。

投稿: non | 2011年3月10日 (木) 20時41分

non様ようこそいらっしゃいました。
篤姫の話が出来る事に大変嬉しいです。
私はかって千駄ヶ谷には住んでいたこともあって、
とりわけ深い思い入れがあります。

徳川屋敷の存在は判っていましたが大河ドラマで
篤姫が取り上げられ、急にクローズアップされました。
ご承知の通り、江戸城無血開城で追われた篤姫は
築地の一橋下屋敷、青山の紀州邸、赤坂と転々としますが、最後は千駄ヶ谷で落ち着きましたが、此処で亡くなりました。
篤姫が居た当時の屋敷は体育館の向かい側でしたが、大正6年に現在の体育館側に立派な屋敷が新築されました。
旧廷は一般のお屋敷に変わって、殆ど何も残って居ませんが僅かな木立が当時の面影を残しております。
新邸の方もオリンピックで体育館が出来て、すっかり変わってしまいました。
URLが書かれている「ようこそ幕末の世界へ」のhpでもお待ちしております。今後とも宜しくお願いします。

投稿: 隠れ新八 | 2011年3月10日 (木) 23時17分

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受信: 2008年3月14日 (金) 16時43分

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