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三田の薩摩藩邸上屋敷

Img_171011111 JR田町駅前には薩州の蔵屋敷があり、「西郷・勝会見の地」の碑が立ちその北側方面にNECの本社ビルが建っている。その一帯が薩摩藩島津家の上屋敷である。ビルの外周に手入れの行き届いた植え込みがあり、その植え込みに挟まれるように「薩摩屋敷跡」の碑が建っている。

道を俯瞰するような近代的な大きな建物に囲まれて、「此処が薩摩屋敷か?」と思う位のビル街に幕末のイメージが沸かないが、この碑が場所案内に大きな役割を持っており、初めて訪れる幕末フアンには何よりも頼もしい存在である。

島津成彬の養女になった篤姫は鹿児島から、京都の近衛家など挨拶回りで立ち寄り、江戸へ到着し、ここ三田の薩摩藩上屋敷に入るまでは順調であったが、家定へ輿入れするまでには実に3年の月日を待たされてしまった。安政元年はペリーの来航など事件もあり揺れ動く幕政に婚礼はようやく安政2年(1855)12月に決まり、婚礼準備も急ピッチに進められたが、ドラマ放映の如く、江戸を襲い、俗に言う「安政の大地震」で、総てを失ってしまったのである。この地震により更に輿入れは延期され、此処、三田薩摩藩上屋敷も大きな被害を受け、篤姫は住まいを渋谷別邸に移すのである。

この間、篤姫は此処三田薩摩藩上屋敷で、不確定な輿入れ時期を前に悶々とした一時期を此処で暮らしながら、徐々に御台所への風格が備わって行く姿が、尚五郎と碁を手合わせするシーンに見えて来る。

時も経過した慶応3年(1867)10月頃、三田の「御用盗」と言われた薩摩浪士が乱暴狼藉を働き、同年12月23日遂に江戸城西の丸を炎上させてしまう事件が発生し、藩邸に逃げ帰るなど組織的で挑戦的なテロ活動が繰り返された。
そんな乱暴狼藉に庄内藩が犯人引渡を求めたが、交渉決裂し、攻撃もやむなしと庄内藩、上の山藩以下の列藩が、一種の治外法権であった三田薩摩藩邸の焼討を敢行した。所謂戊辰の戦いに通じる歴史的な事件が此処から発生し、国内内戦に繋がってしまう、そんな歴史的拠点でもあるのだ・・・。

Img_17091 その事件のあらまし、現地地図は以下で紹介してます。

薩摩藩邸上屋敷焼討事件

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斉昭に切り込む篤姫

大河ドラマは江戸を舞台にいよいよ核心に入っていく。
激情形、面目躍如の斉昭の懐に、周囲の心配をよそに、初見参の篤姫が歯に衣を着せず単刀直入に何故「攘夷を何故推挙するのか」を切り込んでしまう。
斉昭が感情に火をつけてしまい激しく怒り、遂に爆発してしまう。
そんな昂りが、何故納まってしまうのか?
或いは斉昭の演技だったのか、それ以上に篤姫の鋭い感性に、頑固爺も氷解してしまったように、好々爺に180°変わってしまったのであろうかよくわからないが、・・・これが結果的に篤姫の縁談の障壁が解かれる、流れになる。

幕政に影響力を持ち、鍵を握った斉昭公は非常なやり手でどんどん色々な改革を進めるが一方では精力家であったようだ。もっとも半数近くは早死にしたが20数人の子沢山で、あったようで、その一人が徳川慶喜である。
紆余曲折しながらも、慶喜が将軍の後継ぎになり、時代は幕末を迎える。

その慶喜が生まれ育ち、11歳まで居た、一橋の上屋敷となった小石川後楽園がドラマ終了後、紹介された。
背後に東京ドームや遊園地が隣接する、大都会の真っ只中であるが、小石川後楽園は文化財保護法によって国の特別史跡・特別名勝に指定されている。
この二重指定を受けている所は全国でも小石川後楽園、浜離宮庭園、金閣寺など、ごく限られた名勝の一つである。
水戸徳川家の残された上屋敷の趣味豊かな大庭園が残される貴重な遺産であるが、賑やかな歓楽街に隣り合わせ、やや埋もれた存在である。
斉昭を支えた一人、藤田東湖先生護母致命之処の碑も園内にあり、篤姫大河によって、上屋敷が歴史を蘇らせる、お勧めの場所である。
舞台は江戸に有るせいか、ドラマ終了後の関連スポットの案内地が馴染みな所が多く、あそこも、此処もと繋がりが生まれ、何ともわくわくしてくる。 Img_22521

写真はその小石川後楽園

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厳しい小仏越え

Img_0752111 宮川さんの話に触発され、早速、小仏越えを試みる。「単純だなあ~」

彦五郎日記から 慶応4年3月甲陽鎮撫隊は勝沼に向かう過程で、その日の朝府中宿を出て、日野宿で休憩し、八王子宿で食事、駒木野宿の関所を通り、小仏越えを行い、小原宿を降りて、隣の与瀬宿で宿泊している。ならばと高尾の駅を10時頃降りて、甲州古道を辿って彼等の後を追ってみた。

高尾から小仏の麓までバスが出ているが、此処は鎮撫隊になりきり、彼等の踏み後を忠実に追ってみるため、ひたすら歩け歩けであった。バス道は比較的緩やかな勾配、チョット見上げると無粋な中央高速の高架橋が、うっとうしく付いて廻る。こんな緩やかな道なら楽勝と思ったが、バス停を過ぎた辺りから、ガラガラ道になり、写真のような急坂が待ち構えている。行けでも、行けでも杉木立の急坂が続き、視界の晴れる場所も無く、ただただ急な登坂に息は切れ、「ぜいぜい」と呼吸が苦しくなる。荷物もない身軽な旅姿でも、此れ程の難渋登坂であった。

ただでさえ苦しい、こんな急坂に大砲2門の鎮撫隊は喘ぎながらも、どう登ったのであろうか?。更に戊辰戦争も終わって、明治13年に京都巡幸でこの急坂道を明治天皇を載せた馬がどうやって登ったか?、別に侮った訳ではないが、ともかく凄い凄い。

喘ぎながらようやく小仏峠に到着、此処から尾根道を高尾山に抜ける道に大勢のハイカー殆どなのに古道の小原宿目指すは完璧に己一人、唯でさえ淋しい山道を杉木立の中をひたすら降りるだけ、途中でイノシシ、天狗に遭遇せず、何とか国道20号に出る。

Img_08211 静寂な世界から急に文明の世界に、車がバンバン走る抜ける歩道を遠慮深く、ひたすら歩き、ようやっと写真の小原宿本陣に辿り着く。こんな贅沢な本陣に誰も来客もなく、畳の上で思い切り足を伸ばし、しばしの疲れを癒した。上段の間付近では庭先が開け、開放的な空間が柔らかい空気が覆い、これまで歩き続けた疲れに、大の字になって寝たかったが、控えた。

係の人と話し込む。此処の持ち主の清水家は北条家の末裔で、小原宿の旧家の建物の表札に清水家が多く、親戚縁者が住んでいる。因みに係の人は武田の末裔とも言われていたが、まさしく幕末がそのまま残されている素敵な街であった。結局鎮撫隊が泊まった与瀬まで行けなかったが、彼等はタフな道のりを、懸命に歩き続けたのであった。 宮川さん何とか、歩けましたよ~

甲陽鎮撫隊

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天然理心流の宗家と話

Img_00631 天然理心流の宗家9代目宮川清蔵さんが撥雲会の若い剣士達の皆さんと稽古で定期的に日野に、やってこられる。ちょっと藪用があったのでお目通し願い、暫くお話をする機会を得た。

今日は稽古着を持って来られず、何故かと思ったら、この季節変化に風邪を引かれた様子で、時間はたっぷり持つことが出来、じっくりお話出来た。宮川さんは御存知、近藤勇の生家、宮川家の末裔でもある。

日頃天然理心流で鍛えた肉体は筋金入で、当たり前のようであるが背筋がピンとのびて威厳があり、自然と風格が備わっている。

その宮川さんが、最近甲州路の旧道を高尾から、小仏、相模湖を奥様と一緒に歩いたそうである。その旧道は新たに出来た20号線で所々、寸断され、上を見上げれば、無粋な中央高速がついて廻るが、未だ未だ旧道の歴史を確かめる所があると言う。

敢えて何故、甲州路の旧道かと言うと、やはり近藤勇が甲陽鎮撫隊を率いて、江戸から甲府に目指した縁の路であることから、じっくり確かめてみたいこともあるようだ。江戸の屯所から大砲2門と砲弾を抱えての西下は小仏峠でも、自ら歩かれての登板体験から改めて大変さを体感されたようであった。その小仏より更に数倍厳しい笹子峠が待ち構えており、その厳しさは想像を絶するようである。

その鎮撫隊が歩いた旧道コースをなぞるように小仏の関所、小原宿本陣などを寄って、確かめ、その筋では有名な豆腐屋で冷ややっこなどは、結構いけるよなんて言われ、益々行きたくなってしまった。甲州路を歩け歩けで今や、人並みが増えたなかに宮川さんもその一人でもあった。

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島津の家紋入のれんは?

03280016111 拙宅の檀家寺は広尾の東北寺である。本堂は最近改修されたが、改修前の本堂には立派な銀色地の島津家紋入りののれんが飾られていた。法事は此処でやるので目の前の荘重なのれんは気にはなっていた。折しも篤姫で島津家との関わりが何とも気になる。

この近くに島津の屋敷があり、その関係で島津系の檀家があり、明治末期にのれんが寄贈されていることがわかった。墓地の一角に島津啓次郎の墓がある。

安政3年、佐土原にて誕生。父は第11代佐土原藩主・島津忠寛、3歳の時に家老家に当たる町田氏に養子に出される。10歳の時、鹿児島に遊学、翌年、更に東京に移り、勝海舟門下生となる。啓次郎の才能を見抜いた海舟により推薦され、明治3年(1870年)
、薩摩藩藩費留学生として兄・大村純雄らと共に渡米。
アナポリス、ニューハーベン、グリンブルドなどで英語、フランス語、文学、数学等を学ぶ。
アナポリスではアナポリス海軍兵学校に籍を置いていたこともある。留学中の明治6年(1873年)、留学資格の都合上の理由で町田家との養子縁組を解消、島津家に復籍。
明治9年(1876年)4月に帰国。

明治政府では啓次郎に当時設立準備中だった学習院のポストを準備されたが、設立意図があまりにも旧態依然とした物で、反発し帰郷する。
この時師匠である海舟の紹介で西郷隆盛と面識を得る。
郷里で廃寺となっていた寺を利用して私塾を開いた。
西南戦争が勃発すると明治政府の藩閥重視のやり方に反発していた啓次郎は家族の反対を押し切り西郷隆盛の元に駆けつける。
啓次郎率いる「佐土原隊」は熊本城攻防戦などで活躍するが、次第に薩軍側は劣勢となり、田原坂の戦いでの薩軍の大敗北により、啓次郎は佐土原隊と共に宮崎に撤収した。
単身上京し、つてをたどって隆盛の助命や事態の打開に務めたが、失敗。再び郷里に戻り、薩軍に合流、各地を転々とし、最後は城山にて戦死。享年21。

篤姫には直接関係なかったが 、若き志士として意気に燃えた、短い生涯を閉じた啓次郎の事実が解ったが、この調べの動機付けも篤姫のお蔭であった。但し、こののれんは何処かへしまわれてしまった。

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