« 八王子から篤姫に | トップページ | 天然理心流の宗家と話 »

島津の家紋入のれんは?

03280016111 拙宅の檀家寺は広尾の東北寺である。本堂は最近改修されたが、改修前の本堂には立派な銀色地の島津家紋入りののれんが飾られていた。法事は此処でやるので目の前の荘重なのれんは気にはなっていた。折しも篤姫で島津家との関わりが何とも気になる。

この近くに島津の屋敷があり、その関係で島津系の檀家があり、明治末期にのれんが寄贈されていることがわかった。墓地の一角に島津啓次郎の墓がある。

安政3年、佐土原にて誕生。父は第11代佐土原藩主・島津忠寛、3歳の時に家老家に当たる町田氏に養子に出される。10歳の時、鹿児島に遊学、翌年、更に東京に移り、勝海舟門下生となる。啓次郎の才能を見抜いた海舟により推薦され、明治3年(1870年)
、薩摩藩藩費留学生として兄・大村純雄らと共に渡米。
アナポリス、ニューハーベン、グリンブルドなどで英語、フランス語、文学、数学等を学ぶ。
アナポリスではアナポリス海軍兵学校に籍を置いていたこともある。留学中の明治6年(1873年)、留学資格の都合上の理由で町田家との養子縁組を解消、島津家に復籍。
明治9年(1876年)4月に帰国。

明治政府では啓次郎に当時設立準備中だった学習院のポストを準備されたが、設立意図があまりにも旧態依然とした物で、反発し帰郷する。
この時師匠である海舟の紹介で西郷隆盛と面識を得る。
郷里で廃寺となっていた寺を利用して私塾を開いた。
西南戦争が勃発すると明治政府の藩閥重視のやり方に反発していた啓次郎は家族の反対を押し切り西郷隆盛の元に駆けつける。
啓次郎率いる「佐土原隊」は熊本城攻防戦などで活躍するが、次第に薩軍側は劣勢となり、田原坂の戦いでの薩軍の大敗北により、啓次郎は佐土原隊と共に宮崎に撤収した。
単身上京し、つてをたどって隆盛の助命や事態の打開に務めたが、失敗。再び郷里に戻り、薩軍に合流、各地を転々とし、最後は城山にて戦死。享年21。

篤姫には直接関係なかったが 、若き志士として意気に燃えた、短い生涯を閉じた啓次郎の事実が解ったが、この調べの動機付けも篤姫のお蔭であった。但し、こののれんは何処かへしまわれてしまった。

|

« 八王子から篤姫に | トップページ | 天然理心流の宗家と話 »

02、幕末」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/211410/12340288

この記事へのトラックバック一覧です: 島津の家紋入のれんは?:

« 八王子から篤姫に | トップページ | 天然理心流の宗家と話 »