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赤坂周辺の坂道に歴史を見る

赤坂周辺にはまさに坂道が多数多く、木製の案内碑が立ち、独特の雰囲気を作っている。簡単な説明が書かれており、この坂道を目安に幕末の歴史を見るのも面白い。代表的なものを紹介してみる

Img_11631 檜坂
坂の向かい側に見えるのが檜町公園で松平大膳大夫、つまり長門藩毛利家中屋敷でもともとは下屋敷で「麻布屋敷」と呼ばれた。初代藩主秀就は秀吉五大老の一人輝元の子。幕末の藩主敬親は、薩摩藩と共に倒幕運動を推進した。中屋敷跡には戦前、歩兵第1連隊の営舎が建ち、通りを隔てて歩兵第3連隊の営舎が存在。昭和11年の2.26事件とき、この2つの部隊は叛乱軍の基幹部隊となり、倒幕のエネルギーがそのまま、引き継がれて いるようだ。

Img_117311 氷川坂
隣接する氷川神社の南側を北西へ下る坂道である
8代将軍徳川吉宗の命で建てられた氷川神社のもと正面に当たる坂である。この坂の降りた所に維新まで住んでいた勝海舟邸跡がある。
海舟は終生赤坂の地を愛し、三カ所に住んだが、当初居住中の十年間が咸臨丸で太平洋横断したり最も華々しく活躍した時期に当たる。
江戸城無血開城をなし終えた後、明治元年四十五歳で、引退の徳川慶喜に従って、悄然とここから静岡市に移っていった。
戊辰戦争は引き続き東へ移って行ったが、幕府は崩壊し、幕将は追われるように、この江戸を離れていく

Img_0954111南部坂
石垣と植え込みの壁に囲まれた坂、この石垣の上がベールに包まれたアメリカ大使館宿舎、一等地に広大な敷地の中、別天地のような世界が献上されている。
もとは江戸初期の盛岡藩の屋敷があったことから名付いた坂
江戸前期・中期から柳沢吉保(よしやす)松平美濃守の屋敷
赤穂浪士などドラマでも良く扱われる

Img_0975111 薬研坂
坂の上部から見下ろすとすり鉢状の薬研そっくりである。
この急さかを登り切ると国道246 青山通りに出る。通り越しの広大な敷地は現赤坂御用地で徳川御三家の一つ、紀伊和歌山藩徳川家の中屋敷。
恐らく篤姫でも登場するであろう14代将軍家茂も此処紀伊家の出身である。この坂を登り切ったところ青山通りに出て左折すると、先程の2.26の青年将校の凶弾に倒れた高橋是清邸に出る。

坂を中心に佐幕も倒幕も近隣に屋敷を持ち住みこの街を現代に伝えているのが、中々面白い、以下で詳しく紹介している。

赤坂散歩

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華のお江戸を歩け歩け

Img_12061 ぎらぎら焼き付けるような太陽のもとで歩くにはそろそろ限界と思いつつ、赤坂周辺を再び徘徊した。六本木は勝海舟の3番目の居住跡を探し求めたが都市開発に埋もれ、見付けられなかった。赤坂からR246を東上し紀尾井町から平川町へご覧の平河天満宮のてるかん坊さんに迎えられる。

この地籍から平河町に幕府の処刑人、首切り浅右衛門の邸宅をどうしても探し当てたかったが、ここも小さなビルが乱立し、その碑ぐらいもと思ったが、此処も外れてしまった。折しも、丁度昼時であった為、昼飯にビルから吐き出されたサラリーマンでごった返し、街中をウロウロする雰囲気でもなかったので、早めに諦め、次の探索地皇居へ向かう。尚浅右衛門の墓は当サイトで紹介している。四ツ谷の勝興寺

Img_12971 あの篤姫ツアーは時間に追われ、じっくり時間を取り、確かめたかったので、再度のリベンジであった。半蔵門から皇居を挟んで反対側の九段下に回り、田安門側から北の丸公園を通って、北詰橋門側から天守閣攻めを果たす。と言っても、朝から歩きづめ、前かがりに倒れそうな状態に、天守閣への急坂は厳しく、矢、銃の前に討ち死に果てる所であった。何も無い天守閣に青い目の欧州系や中華系の外人が、何故か半分以上を占め、外国語が飛び交う国際色豊かな観光スポットになっている。天守閣跡の高台に真北は武道館の特徴ある建物が、先程通った軌跡を追える。一方反対の南は一面の広大な芝生に僅かな松の木が僅かに植わっている。この辺があの篤姫の舞台になった大奥や松の廊下が会ったはずであるが、その位置を示す案内もかけらもない。昨年行った、seoulの景福宮は遺産の復元に物凄いパワーをかけ、修復するエネルギーに、歴史に対する思い入れの違いかなあと思ったりする。外国人にどう映るのか、何れにしてもこの人気スポットに世界遺産として、文化と観光開発すればと安易に考えてしまった。

大きな石垣と幾重にも立ちはだかる門とそれを護衛する番所が僅かに確かめられる歴史の姿、21万㎡の巨大な皇居東御苑をたっぷり回り、徳川200年の歴史をじっくり確かめ、平河門から足を引きずるように帰路についた。堀越しに見える、石垣と門、絵になる風景に、しばし足を止め、その姿に改めて感動する。篤姫のドラマ進行に併せ、徐々に解凍していくかなと、確かな手応えのある一日であった。

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赤のしゃぐまが

Img_10981111 真っ赤にはためく数旗の旗の前に戦闘服姿で身を固めた一団が整列している。おや、あの赤い旗は燐国がオリンピックの聖火に名を借りてを国威発揚で振り回して全世界を走り回り、全世界で避難の声をあびた旗ではなかろうかと、思ったが、御不動さんの旗であった。赤い旗イコール某国と思われるぐらいに印象を悪く、吹き荒れた。

近寄って見ると戊辰戦争での「錦の御旗」をかざし歯向かう旧幕府側を賊軍と称し、いち速く洋式の訓練で洗練された官軍であった。黒の詰めえりにびしっと身をかため、兵士は銃を持っている。ミニ小隊は隊列を組み、隊長さんの掛け声で、整列し、「錦の御旗」を先頭に勇ましく歩行訓練を実践し、見事な軍装姿が格好よかった。その訓練も終わり、小休止、折しも昼食の時間、豪華な軍隊食の支給を前に隊列は解かれた。

Img_109311 頭にいただく嚇熊(しゃぐま)は、白は長州、黒は薩摩、赤は土佐とそれぞれ識別されていたと拙い知識から、「も~しそこの御方は土佐藩では」と恐る恐るそのしゃぐまの軍師に近寄ってみた。「いやあ~、偽官軍とも言われた赤報隊だよ」と言われ、見事に当方の浅学ぶりはいなされてしまった。

「年貢半減」を赤報隊のスローガンに掲げ、民衆に訴え、重い年貢にあえぐ民衆に受けたが、一方の政府軍にしては戦費調達に苦しむ財政状況を踏まえ同じ官軍の中での不行為はとんでもないことと彼等を「偽官軍」と称して消しにかかる。慶応4年3月彼等が京都から中山道を東征軍先鋒として下諏訪に着くおり、潜んでいた兵士に突如襲撃され、捕縛される。「偽官軍」の名で設楽 以下幹部が多数が次々に処刑されてしまう悲劇が生まれた。

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薩摩の刺客か

Img_1112111 多摩のさる森の木陰にじっと佇み、笠をかぶり、眼光鋭く、身動きせずに、その一点に集中する浪士風の侍に、思わず息を止める。恐る恐る近づき襟章に薩摩藩、中村半次郎に思わずたじろぐ。後世伝わる剣さばきの鋭いあの「人斬り半次郎」と言われる薩摩の刺客に思わず身震いして身構える。果たしてその役回りは慶応3年兇徒に襲撃された坂本竜馬の犯人探しか?、身動きせずじっと動静を探っているようでもあった。

或いは、武田耕雲斎が兵を率いて中山道を下り、敦賀を経て京都をうかがった天狗党の乱のとき、静かに単身身を潜め、天狗党のその動静を伺っているのであろうか?

そんな舞台を飾る高幡不動の境内の一角に佇む薩摩藩、中村半次郎後の桐野利秋の姿であった。前日から生憎の雨と季節外れのこの寒さの中、中村半次郎さんに近寄ってみるとぶるぶると震えていた。その名だたる剣客もこの寒さには勝てず、底冷えするなかで着物の浪人姿はとても寒かったようである。

折角の新選組パレード、衣装の上からビニールコートを被る生憎の天候には幕末を勇ましく駆け抜けた隊士や志士達も勝てなかったようである。今年も恨みの雨、5月11日は歳三の悲しみが、恨めしく後世に伝えているようであった。午前に予定したパレードも午後に延期、その晴れ姿を今年は見ることが出来なかったが、こうした森の中での雰囲気が自然に幕末を演出してくれた。

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念願の江戸城入り

Img_04151薩摩から江戸に来る過程で、京に寄り右大臣・近衛熙の養女となり、敬子(すみこ)と改称し、格式を付けるなど薩摩の島津の一分家の娘から、着々と高い位置に登り詰める。 薩摩から江戸へやってきて、期待、夢、不安の中、薩摩藩邸で輿入れ準備で徹底的に磨かれ、将軍の正室としてトップレデイとして究めいよいよ江戸城に入城する。

江戸に来てから丸3年、前述の渋谷別邸を後にした篤姫一行は、江戸の市街地を通り、堀に囲まれた江戸城に到着し、掘割の橋を渡り、写真の如何にも重厚な平川門に迎えられる。渋谷別邸からの長蛇の列、調度品を総て運び終えるのに65日間要したと言われその長大な規模に驚かされる。今や国会議事堂やオフイスが立ち並ぶ官民の中枢で御一行の行列に2カ月近くも交通規制したらば、たちまち大パニックに陥る壮大なものであったであろう。

平川門は謂わば江戸城の勝手口とも言われる存在で、大奥の通用門として利用された。3代将軍・家光の乳母であった春日局は外出した際、門限に遅れてしまったが、門衛は例え将軍の乳母であっても規則なので決して門を開けなかった。そのため春日局は門外に駕篭を下ろし寒風の中、一夜を明かしたと言う。それを聞いた家光は怒らず、逆に職務に忠実だと感心したと言われている。この門衛は後の海軍・陸軍奉行を歴任し、官軍によって斬罪とされた小栗上野介の遠祖であった。ことほど左様に厳重な管理下の元、出入りは厳格な迄に徹底されていたのであった。

Img_037911 門を潜り、いよいよ大奥へ、所が写真の如く、果てし無く続く広大な広場に僅かな松の木が立つだけで、その痕跡さえ伺う事の出来ない位に変わっていた。江戸城の中心の本丸の6割を大奥が占め、大凡4万坪の途方もない広さの大奥があった。それぞれ用途に合わせた数多くの部屋があり、新御展(しんごてん)と言われた一角が篤姫の住まいとして用意された。長房(ながつぼね)には1000人以上の女性達が寝起きしていた。広大な芝生の一角に立ち、約200年近く続いた徳川時代のきらびやかなシンドロームの世界にわくわくしながら、しばし思い浮かべてみた。

彼女達の頂点に篤姫があり、歴史の中に色々な思惑の中、喧騒の江戸城大奥に舞台を移し、篤姫が立ち向かっていく。

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薩摩藩渋谷別邸

安政2年(1855)12月に決まり、婚礼準備も急ピッチに進められたが、その直前の10月に、江戸を襲った「安政の大地震」で、総てを失ってしまったのである。江戸城の石垣崩落し、本所、深川を中心に死者4300人、倒壊家屋10、000戸と言われる大きな地震で、徳川斉昭の懐刀藤田東湖もこの地震で亡くなる。この地震により、既報の通り更に輿入れは延期され、此処、三田薩摩藩上屋敷も大きな被害を受けてしまった。更に当時、江戸を恐怖に包んだ黒船来航により、海に近い上屋敷は黒船からの砲撃を受ける可能性もあると嫁ぐ前の篤姫を避難をかねて 渋谷別邸に移すのである。Img_093511111111

JR山手線、東横線、井の頭線、地下鉄と都心の交通要路渋谷は人ごみに溢れる一大拠点であるが、当時は、江戸の郊外に位置した渋谷周辺にあった大名屋敷はほとんどが下屋敷だったと言われるが今昔、彼我の違いに驚くばかりであろう。その喧騒の街渋谷から東に位置し、國學院・青山学院・実践等学舎が集中する閑静な場所に別邸跡となる「常磐松の碑」がある。嘉永5年(1852)に薩摩藩屋敷になり、その後拡張され、1万8千坪の広大な敷地となり、その碑の背後に 鬱蒼とした樹木に包まれた常陸宮邸もその広大な敷地の名残と充分想像出来る。

かっては此処に「常磐松」という大きな松があり、これが島津家ゆかりとの口伝から、斉彬の家来が建てた石碑が高層建物の庭の一角に残されているのは江戸を語る唯一残された歴史案内として、大変嬉しい。

ここから、念願叶い、篤姫はいよいよ江戸城入りを果たす。此処から、現代の「青山通り」を東に一路、江戸城に目指したのであろうか?。行列は先頭が江戸城に到着しても、最後尾は渋谷別邸にあり、と言われその壮大な行列にただただ驚くばかりで有る。

その華やかな輿入れの影に、徳川 家定を説得し、時期将軍後継ぎに徳川慶喜を勧める、島津成彬のしたたかな密命を背負う。大勢の見送り人に見守られながら、硬い表情で渋谷別邸を後に篤姫は将軍跡目争いの渦の中、江戸城に向かう。

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