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甲州古道を行く

Img000081 江戸日本橋から下諏訪に至る「甲州街道」は昨今のウオーキングブームもあって、八王子観光協会や国土交通省が支援している。

「甲州街道」と言っても車用として開発された国道よりも、その原点たる昔の道である所謂「甲州古道」を自らの足で歩き、往時の世界を確かめたくなる。
その甲州古道はJR中央線や国道、更に中央自動車道などの建設でずたずたに寸断され廃道になったり、現在の国道に重なったり、一言に「甲州古道」と言っても、地図にフォローされているわけではないので、それを見付けながら辿るのは中々難しい。
そんな甲州古道は慶応4年、鳥羽伏見の戦いで破れ、既に敗色濃い新選組の生き残りを掛けて再編成した「甲陽鎮撫隊」が急ぎ足で駆け抜けている。
当時の記録から、府中で宿泊した後、朝発ち、日野宿で休憩。八王子宿で昼食、駒木野宿を通過し、小仏峠を越え、小原宿を通過、与瀬宿で泊まっている。
大久保大和こと近藤勇や内藤隼人こと土方歳三ら幹部は馬上で、荷役方は大砲2門、武器弾薬の長持ちを抱え、この甲州古道を下っている。
彼等の通った姿を思い浮かべながら、取り敢えず高尾から同じ道を辿り、与瀬宿まで、更に日にちを変えて、上野原まで歩いて見た。
ゴロゴロとした足場の悪く、急峻で厳しい小仏峠は予想通りきつかった。息を切らして登切り、小仏峠から色々分岐されているが、景信山や高尾へ向かうハイカーの群れから離れ甲州古道の小原宿へ向かうのは己一人であった。
熊、いのしし、へびの出会いはなかったが、何時現れてもおかしくない、淋しい山道であった。
一方では、どうしても国道を通らねばならぬ所があり、西へ下るに連れて道幅が狭く、歩道と車道の殆ど区別のない脇を大型のダンプが轟音を立て、爆風に煽られ、走り抜ける危険な場所も、克服するなど結構厳しい古道歩きでもあった。
そんな中で小原宿での古い建物に、囲まれた甲州古道をじっくり味わいながら与瀬の町で引き返した。結局、「甲陽鎮撫隊」の宿泊地の本陣まで辿り着けず、最初の1日は終わった。荷物を背負いながら、彼等の急ぎ足には追いつけなかった。

その旅巡りは以下でアップした

甲州古道を行く(八王子宿~小原宿)

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八王子城を目指せ

車の免許証の更新で八王子警察に向かい手続きは簡単に済む。高尾と西八王子の中間にあり、その背後に多摩御陵と八王子城址が控える。こんな時にしか行けないと、八王子城址に向かう。城址に向かう前に北条氏照の墓へ寄り、その道すがら北条家の家来の末裔が住んでおられる「八王子城址歴史資料館」に寄る。

Img_15071 居室の一部を資料館に当てられ、氏照が使われた鎧、弓隊の鎧、果ては千人同心の鎧から、戦闘道具から装備品がそれこそ、所狭しとぎっしり陳列されている。先祖伝来からの物、先祖が集めたものなど、先代から個人的な資料館として維持運営されている。これ程の歴史的な遺品が身の丈の高さで見られるとは思ってもよらず、一級品的な宝物の前で思わず絶句してしまった。因みに入館料350円、お一人で維持されており、当日もお出かけになるところ、時間を割いて頂き、見学させていただいた。

八王子城址は戦国時代末期小田原城主北条氏康の子氏照が関東の西の守として八王子城を築いた。しかし天正18年(1590)豊臣秀吉の関東征伐で猛攻にあい、わずか1日で落城した。北条方3~4000に対し、豊臣側はその3倍の15、000と圧倒的な数で殲滅させたと言われている。そのあちこちに遺構を残し、400年以上立った今、一部の復元が行われている。Img_15311 その一部が御主殿に渡るため城山川にかけられた曳橋である。当時の橋の台部が残されているだけで、どのような橋であったか解らないが、戦国時代風にデザインし掛けられている。血で染まったと言われる滝壺と言い、戦国ロマンをたっぷり味わうことができる。

但し、季節柄もう、"まむし"の出没時期であるようで、あちこちに注意看板が張り出されてあった。案の定、この曳橋の土台部分で1m近くのものに遭遇、敵はあわてて、大石の隙間に逃げてしまった。

平坦部だけで引き揚げれば良かったが、此処まで来てはと、恐る恐る445mの八王子城山まで登り、途中の戦場跡を辿り神社までいった。草深い獣道に再び 、"まむし"と2度目の遭遇、肝を冷やしたが敵も鎌首をもたげながらも、直ぐに草むらに忍びこんでしまった。「おのれ!!妖怪め~と思ったが、内心早く逃げろよ」と草深い山道で足すくみ貼りついてしまった。400年前の戦国武将の落ち武者の化身か、山全体が湿気を帯び、蛇の巣窟のようで、不気味な戦跡歩きであった。

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パンドラの箱を開ける

0109003811 大河ドラマの世継ぎもいよいよ核心に触れてくる。将軍世継ぎ問題で一橋派、南紀派の跡目争いが、大きなうねりとなっていくが徳川家茂は安政5年(1858)井伊大老に推されて、十四代将軍になった。
激動する幕末の政情の中で幕府勢力の挽回から、時の帝"孝明天皇"の妹"和宮"を妻にして公武合体を図ったが、元々病弱であったことと責任の重さに身体を壊し、第二次長州征伐戦の最中、敗報が続く大阪城本営で亡くなる。慶応2年(1866)に21才の若さであった。
二人の墓は増上寺徳川将軍家霊廟にあるが、その墓所入口の「鋳抜門」は写真の通り何時も固く閉ざされたままである。そのパンドラの箱が篤姫バスツアーの時に御住職の手で特別に開けられた。敷きつめられた砂利石で門外不出の霊廟は綺麗に整備され歴代将軍の宝塔に囲まれてあった。徳川家茂公と和宮は隣り合わせに仲良く並んでいる。

因みに14代将軍家茂大変色白でぽっちゃりして博多人形のように良い男だったがビタミンBが不足で脚気だったようである。江戸の3白と言って白米、白砂糖、大根、豆腐が好まれていたし、将軍家だけに青魚なんて食べない、玄米も食べず、良く煮込んだものを食べ、ビタミンを失われている近代病になっていた。この脚気が体を蝕んでもいたようで公務に耐えられなかったようであった。更に後を追った和宮もこの文明病に冒されていたようである。

その和宮は天皇家の出身から大奥に入っても頑なに公家の風習を守り、徳川家に馴染もうとしなかった。髪の結い方から服装まで京風を貫き、姑である天璋院に敬称を付けないなど天璋院とも、余り上手くゆかなかった。また鳥羽伏見の戦いから戻って面会を求めた慶喜に「洋服では会わぬ」と一言、慶喜は着物を借りて何とか面会が叶ったが、戸惑いは天璋院だけではなかった。

和宮がまた大奥で波瀾の渦をドラマでどう演じられるか楽しみである。
その増上寺は以下でアップした。

増上寺

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将軍世継ぎ問題

St22_021 黒船来航に併せ、将軍世継ぎ問題など内憂外患の状態の中で、譜代、外様の意見を伺い幕政を勧める老中職の重責に押しつぶされるように阿部正弘が志半ばで逝ってしまう。
額にしわを寄せ苦悶する姿は泰平の世の中から崩れ行く幕府末期に世の中が大きく変わっていく過程の悲劇のヒーロなのであろう。
他人を押しまげ、絶えず上だけを見続ける人種がもてはやされる現代社会で、回りを聞き分け吸い上げる阿部正弘の存在は研ぎ澄まされギスギスした世の中だけに貴重なものと思える。

ドラマのスポットは大事な世継ぎ問題に揺れる江戸城内13代将軍・徳川家定に移っていく。
数々の目に余る奇行に"うつけ"との噂があるが、そのベールが徐々に剥がされ、"うつけ"は演技であることに、驚いてしまう。
ここで徳川家定は本当に"うつけ"であったのだろうか、諸説フンプンで真実はよく分からない。
その家定は大変な芸術的なアーチストで篤姫展に自由な方で将軍にいたらなかったら芸術家になったかもしれない。巷間伝わるような決してアホではなく職業の選択を間違えたのではなかろうかとも思える。
それを裏打ちするように江戸東京博物館の特別展「天璋院篤姫展」では徳川家定筆で"松図""日の出遠山鳥図"などなどその絵図の世界で繊細で豊かな才能を発揮した作品が展示されてあった。
特別展では未だ徳川家定が登場する前であり、200点以上の膨大な展示物の中で、じっくり見ることが出来なかったが、堺雅人好演する家定像が焼きつく現在、再び展示公開される機会が生まれれば他はさておき、一目散に見たくなる作品である。
殆ど他人任せ歴代の将軍職の中でも一番職位を全う出来なかった生涯の中で、家定は将軍世継ぎでは一大決意を告げる。
一橋派、南紀派の跡目争いが、やがて大きなうねりとなって、次々と事件が生まれ物語がいよいよ面白くなっていく。

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