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パンドラの箱を開ける

0109003811 大河ドラマの世継ぎもいよいよ核心に触れてくる。将軍世継ぎ問題で一橋派、南紀派の跡目争いが、大きなうねりとなっていくが徳川家茂は安政5年(1858)井伊大老に推されて、十四代将軍になった。
激動する幕末の政情の中で幕府勢力の挽回から、時の帝"孝明天皇"の妹"和宮"を妻にして公武合体を図ったが、元々病弱であったことと責任の重さに身体を壊し、第二次長州征伐戦の最中、敗報が続く大阪城本営で亡くなる。慶応2年(1866)に21才の若さであった。
二人の墓は増上寺徳川将軍家霊廟にあるが、その墓所入口の「鋳抜門」は写真の通り何時も固く閉ざされたままである。そのパンドラの箱が篤姫バスツアーの時に御住職の手で特別に開けられた。敷きつめられた砂利石で門外不出の霊廟は綺麗に整備され歴代将軍の宝塔に囲まれてあった。徳川家茂公と和宮は隣り合わせに仲良く並んでいる。

因みに14代将軍家茂大変色白でぽっちゃりして博多人形のように良い男だったがビタミンBが不足で脚気だったようである。江戸の3白と言って白米、白砂糖、大根、豆腐が好まれていたし、将軍家だけに青魚なんて食べない、玄米も食べず、良く煮込んだものを食べ、ビタミンを失われている近代病になっていた。この脚気が体を蝕んでもいたようで公務に耐えられなかったようであった。更に後を追った和宮もこの文明病に冒されていたようである。

その和宮は天皇家の出身から大奥に入っても頑なに公家の風習を守り、徳川家に馴染もうとしなかった。髪の結い方から服装まで京風を貫き、姑である天璋院に敬称を付けないなど天璋院とも、余り上手くゆかなかった。また鳥羽伏見の戦いから戻って面会を求めた慶喜に「洋服では会わぬ」と一言、慶喜は着物を借りて何とか面会が叶ったが、戸惑いは天璋院だけではなかった。

和宮がまた大奥で波瀾の渦をドラマでどう演じられるか楽しみである。
その増上寺は以下でアップした。

増上寺

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