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甲陽鎮撫隊を追う

Kousyuukodou407 Kousyuukodou407a 徳川慶喜が大政奉還し、慶応4年東海道を抵抗らしい抵抗もなく、一気に江戸城開城をせまる官軍に、まさに火ぶたを切ろうとしていた。陸軍総裁となった勝海舟に幕府と江戸市民の運命がかかっていた。海舟は旧知の西郷吉之助を訪れ、江戸城総攻撃は何とか免れた。

新選組はその勝海舟から密命を受け、甲州百万石は徳川の直轄領で甲府に少数の甲府勤番をする旧幕臣が甲府城を守っている。官軍が甲府に入る前にいち早く此処を抑えれば百万石の大名になれると口説いたと言われている。
近藤・土方に処遇を与え、甲府行きに格式を持たせ、鳥羽伏見の戦いで生き残った新選組隊士を中心に、浅草弾左衞門の協力で新たに募った兵を加え、甲陽鎮撫隊を編成した 。
作戦に賛成する 会津藩 から1200両、幕府 から3000両大砲2門 、小銃500挺を受領し、近藤は大久保剛、土方は内藤隼人と名乗り鍛冶橋の屋敷を出陣し、甲府へ目指した 。

彼等が行軍した甲州古道をバスツアーや 中央本線などを利用して、何度も往復し、歩んで見た。総てを廻りきれた訳ではないが、主たる拠点は大凡確かめる事が出来た。既に作成した甲陽鎮撫隊の記事に、自ら歩いた記録を重ね併せてみた。

甲州古道で最初に待ち受けていたのが難所の一つと言われる小仏峠が待ち受けていたが、装備もない身軽な己が厳しい山道に難渋したが、大砲や銃で装備する彼等がこの道を踏破することに甲府への道のりの遠さを改めて思い知らされた。

史実が徐々に明らかにされるが、従来言われた官軍に遅れを取り破れたと言われていあたが、自ら歩き、いやいや反対に、重い装備に山岳路を含めた甲州古道を歩いた彼等の足回りの速さを実感した。

結局、甲府城迄行けず、勝沼で戦ったが圧倒的な数の東征軍(官軍)の前に、折角持ち寄った大砲も使えず、破れてしまった。甲陽鎮撫隊は江戸へ敗走し、流山で近藤勇は捕まり板橋で処刑されてしまい、晴れて大名格はこの行軍だけで夢と消えてしまった。

その編成の生い立ちから勝沼まで破れ、官軍に追われる姿を以下で追ってみた。

甲陽鎮撫隊

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惜しまれつつ徳川家定

Photo 「堺雅人」この人が今やメデイアに出まくっている。
TV番組に新聞紙面でも大きな目を開いた現代青年の姿が、紙面の半分以上を割いていた。

大河ドラマ「篤姫」で13代将軍徳川家定を演じ、混迷する幕末に「うつけ」の姿に将軍職を投げ出し、破滅的な人生を歩む中で、篤姫の出会いで徐々に将軍職に目覚め、大きく軌道修正して行く。
篤姫との蜜月を迎える間もなく、病床の中、再び戻ることなく亡くなってしまう。

放映当日の視聴率はこれまで最高の26.2%を記録し、如何に感心が高かったか根強い静かなブームを呼んでいる。
「家定を死なせないで」とドラマに埋没した熱狂フアンが悲痛の声が、あがったとも言われ、新選組以来の話題を再び起こした。
役者さんとしての天性の魅力が、家定役でも見事に伝わって来る。
今話題の宮崎の出身、大志を抱き「どげんかせんといかん?」と上京するが、語る言葉に宮崎がイメージ出来ない。

早稲田大学に在学中に天命とさとったのか役者の道に走り、一躍、今日の座を獲得する。名門を辞め、勿体ないと思うのは、ぼんくらな庶民の考えかも知れないが、非凡な才気を持ち合わせているのであろう。
良く考えると、その生きざまが、芸術家の非凡な才気を持つ「家定」にも似るような感じさえする。
撮影の合間にコーヒーと読書、時折ボヤーと見つめる、その目線の先に、何を考えるのであろうか?
色々の役回りに、この役者さんに何が起きるのであろうかか、不思議なオラーを持っている。

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養父それに夫の死

St28_0111 島津の威信を掛けた謂わば政略結婚の道具として使われた篤姫に
対して斉彬は、詫びる本心を手紙で伝え明らかにする。

最早、将軍後継ぎに、流れを掴めぬまま、紀州側に固まって
いくに及び、「自分の意志で信じる道を進め」と言う言葉は
父親としての成彬の娘に対する、心配りであった。
しかし、篤姫がその手紙を開く時は、斉彬は、既に帰らぬ人となってしまった。

そんな悲しみの中に、当初ギグシャクした家定との関係は夫婦としての絆が漸く、芽生えてきたがそんな矢先に 家定が亡くなってしまう。
しかも、家定が亡くなった事実は妻である篤姫に非情にも告げられず、日々の経過がかなり経ち、葬儀の折に知らされた。

柩の前で悲しむ篤姫の姿に、思わず熱くなってしまい、当日は18時のデイジタル放送と20時のアナログ放送で2回も見てしまった。

前半戦を通じて、物語の主役・純主役をなした斉彬(高橋英樹)家定(堺雅人)が一気に失うことの淋しさが、覆い、記憶に残る物語の大きな節目となった。
床に付き、死を待つばかりの堺雅人の好演は立場を変え新選組での壬生屯所のさんなん(山南)さんの見事な自害のシーンに重なりあい、悲劇のヒーロ役に改めて、心打った。
物語は幕府の行く末を占う、新たな局面に展開され、益々面白くなる。

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将軍家定の足跡

St27_011 徳川家定公は本当に「うつけ」か否「うつけ」ではない。
大河 ドラマの出だしの姿は謎めいた人物として、登場したが、果たしてどんな人物であったのであろうか?

伝統の徳川家を、守ると言う大命の中で、ごく普通に育てられたのが家慶(いえよし)でその子が家定であった。
その家定は大変な芸術的なアーチストであったことが篤姫展に展示された作品に物語っている。
将軍にならなかったら芸術家になったかもしれない。
決して「うつけ」に非ず職業の選択を間違えたのではなかろうかとも思える。
物語の進行に併せ、「うつけ」は演技で、孤立無縁な将軍職には反発していたが、実は思慮深い人間であったようで、篤姫の存在が徐々に将軍職として目覚めていく。
一方の篤姫も島津家の己を滅する政略的な結婚から、徐々に目覚め、妻として徳川家として目覚め、ようやっと蜜月の時期を迎えるが、余りにも虚しく短い期間であった。

家定が、閉鎖的な江戸城の世界に押し詰められているようだが、「将軍、家定の足跡」として、浜離宮で狩りを楽しみ、目の前の江戸湾で軍艦を眺めたことが放送後紹介された。
家定公、没後では 15代将軍徳川慶喜公が官軍との戦いで幕軍総崩れとなり、軍艦「開陽丸で大阪から引き揚げ、江戸城に掛け逃げたのも此処浜御殿(浜離宮)からである。
隣接の築地市場は移転で揉めているが、家定公も度々訪れた軍艦操練所でもある。
幕末史を飾る大事な拠点として、お勧めしたい場所の一つである。

海軍伝習所と浜御殿

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