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幕末海軍史を飾る三浦半島

Img_21471 三浦半島は日本の海軍の街として、幕末史を飾る船や人物が登場し、半島全体がワクワクするような大好きな場所である。整理すると以下に代表される。
1)ペリー来航
日本を震撼させた黒船来航 「ペリー上陸記念碑」の建つ久里浜港。
好奇心旺盛な象山、松陰が黒船見学で宿泊した「徳田屋跡」
2)中島三郎助
勝海舟、榎本武揚らと共に、長崎の海軍伝習所で、海軍士官として身につけ、江戸の海軍操練所教授方として後身の指導した中島三郎助。
その三郎助親子は戊辰戦争で函館で戦死する。その墓は「東林寺」遺品は「浦賀文化センタ」にある。地元で慕われ、浦賀の有志で建てられた「中島三郎助招魂碑」のある「愛宕山公園」
3)咸臨丸
最新式蒸気船で華々しくデビュウした咸臨丸は太平洋横断へ、その出航を記念した碑のある「愛宕山公園」
決死の覚悟の太平洋横断に安全祈願を唱え勝海舟が断食をした「東東叶神社」
榎本武揚とともに、咸臨丸副長の職で函館へ向かったが、台風に遭い、清水港で遭難し官軍に惨殺された一人の春山弁蔵の墓がある「顕正寺」
その咸臨丸も末期は忘れ去られるように函館港外で座礁全壊してしまう。
4)海軍の遺構
明治初期水兵養成の「屯営跡」や明治時代の歴史を誇る乾式ドックとして残される「浦賀ドック」などなど
その半島の根っこに位置する横須賀に足を運び、軍艦奉行小栗上野介の残した横須賀製鉄所とその遺志から生まれた海軍基地の姿を見てきた。写真はヴェルニー公園にある小栗の胸像である。
その小栗も大政奉還後の江戸開城の折に抗戦を唱えた一人あったが、職を奪われ斬首される。
その小栗の遺志が近年評価され、小栗ご子孫が作った「オグリン」のイメージキャラクターが生まれるなど横須賀では大事な人物として慕われている。
その姿を捉えてきた。お勧めしたい場所の一つである。
小栗上野介

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和宮の婚約者、有栖川宮

Taruhito204 写真は有栖川宮記念公園にある有栖川熾仁親王の勇ましい騎馬像である。今にも走りそうな躍動的な人馬一体の姿、荘厳の中にも華やかな明治の雰囲気がたっぷり伝わってくる。この人が皇女和宮の婚約者であったのである。
園芸・陶芸・竹細工の製作も好み、書道・歌道も歴代当主同様名人とされており、和宮の歌道指南をしたとも言われ、皇女和宮の婚約者として相応しい素養の持ち主であったとも思える。

この熾仁親王は嘉永4年(1851)、17歳の時に孝明天皇の皇妹・和宮親子内親王と婚約したが、公武合体策の一環として和宮が徳川家茂と結婚することになり婚約は破棄されてしまう。
婚約破棄は一方では大きな波紋を起こし、親王はこの事もあってか、明治新政府の成立に至るまで朝廷における反幕府・尊王攘夷派の急先鋒となってしまう。京都に集った尊攘志士はこぞって親王を頼った。

将軍徳川家茂が病死し徳川慶喜が相続したが慶喜は、熾仁親王にとって父・幟仁親王の従弟の血縁関係であった。慶応4年(1868)、幕府軍はついに官軍に矢を向け(鳥羽・伏見の戦い)、ここに戊辰戦争が勃発するが、このとき賊軍の首領とされたのが徳川慶喜であった。
そのため、熾仁親王は血縁者が朝敵となった事を恥じて自ら東征大総督となる事を志願し、勅許を得た。

幕軍破れ、官軍は一度の戦闘もなく、無事に江戸城に到着し江戸城無血開城となった。
その折り、東征大総督として熾仁親王は死一等を命じられた徳川慶喜の助命嘆願を恭順を条件に許すなど、没落の幕府の中で新政府のトップとして歩み続ける。

熾仁親王は徳川に縁者を持ちながら和宮との公武合体から生まれた婚約破棄は朝敵征伐にまで走らせる程、大きかった事件であった。

和宮の墓から、和宮の両脇の間に抱きしめられたガラス板の人物写真が発見された。しかし光を当て、映像は消えてしまった。その相手が徳川家茂であったか熾仁親王であったか、謎に包まれたまま、 闇の中に葬られてしまった。

有栖川宮公園に熾仁親王の馬上姿が掲載されている。

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井伊大老討たれる

Image111_2 桜田門外の変で、とうとう井伊大老が討たれる。当ブログで紹介した有村雄助、治左衛門の兄弟がドラマでも襲撃前、薩摩藩が精忠組の立ち上げ時の集団に字幕付きでちらりと登場しており、そのシーンはしっかりと見ておいた。

さて、その井伊大老も体制維持のために弾圧をやらざるを得ないとする、使命感で安政の大獄を徹底的にやった。おかれた背景の中で天下の非難は彼一人に集中しているが、果断にやりとげたことに評価する人も居る。

その井伊大老の墓と 井伊の大名行列で居合わせた供揃で犠牲となった8人の「桜田受難八士」の碑が豪徳寺にある。

一方では長州藩が百姓から買い上げ「長州山」と称され抱屋敷を建て、後に現在の「松陰神社」がある。安政の大獄で犠牲となった吉田松陰や頼三樹三郎が回向院に葬られた遺骨をここに回葬され「松陰神社」となった。「禁門の変」などで墓が破壊されるなど佐幕、倒幕など時の流れの中で墓も時の運命と共にした。

その豪徳寺も松陰神社も旧玉電(現田園都市線世田谷線)の沿線にある。また都心では大変珍しい茅葺き屋根の代官屋敷も同線の沿線にあるが、この代官屋敷も彦根藩世田谷領として、井伊大老の影響を色濃く残した屋敷である。

この沿線に正に佐幕、倒幕の姿がそのまま残されているようで、何度か訪れた場所の一つである。当サイトで以下で紹介している。

旧玉電に幕末史を歩く

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いよいよ桜田門外の変

Img_12851 いよいよドラマは幕末の大きな転機を迎える、この桜田門外で井伊大老が暗殺される。井伊もどうやらこんな時期が何れ来ると覚悟をしていたようであった。その井伊を討ったテロ活動に薩摩藩の有村俊斎、雄助、治左衛門の3兄弟が深く関わる。
国元では示現流'(じげんりゅう)の名人と言われる薬丸半左衛門に学んだ、薩摩藩士である。3兄弟の内、雄助、治左衛門は江戸に出府し、江戸屋敷詰めになった。
3人は当時の藩主島津斎彬に愛され、長兄の俊斎は世才に長け、坊主になり、西郷隆盛、大久保利通に知り会う中にあった。

安政の大獄で吹き荒れる中、水戸有志と密会を重ね井伊誅殺し薩摩藩壮士3千人を持って大挙京にのぼり、朝廷を守護して幕府に望み朝命によって幕政の改革を迫る「井伊斬奸(ざんかん)計画」が着々と練られた。
この計画を実施する有志十数人が脱藩する話が藩主の父、島津久光に漏れ、沙汰止みになる。ところが、江戸の薩摩藩邸では国元の急変を知らされず、斬奸を進めていた同士が召還され、残ったのは有村兄弟だけになる。

そんな背景の中遂に計画は実行され、万延元年(1860)3月3日、治左衛門は桜田門外の変で井伊大老を討ち、自身も現場で息絶える。次兄雄助は薩摩藩工作のため西走したが藩庁命で桜田事件の関係者として切腹させられている。二人は自主的に残ったのではなく、国元へ戻る程の大物ではなかったようで見捨てられた。俊斎は京都藩邸に居て、「井伊斬奸(ざんかん)計画」の京都工作に奔走し、事件に関わったが生き残った。俊斎の妻「松子」は治左衛門が壮挙に出る前日、父伊三次の仇である井伊を撃つと言う事で治左衛門と仮夫婦の契りを結んだが、治左衛門没後、さっさと俊斎に嫁いでしまっている。

2年後の文久2年(1862)生麦事件が起きて、薩英戦争までなった大事件が、生麦 で起きた。薩摩藩の行列に外国人が突っ込み外国人を殺傷したが、その3人の刺客の1人がなんと俊斎であった。イギリスから下手人の引き出しと処刑を迫ったが、薩摩は3人共隠し通した。俊斎は後に養子に行き海江田武次を名乗る。
難を逃れた 海江田武次は明治2年(1869)京都で刑法官判事につき、翌年奈良県知事になるなど明治時代まで悠々と余生を送った。

幕末を揺るがす大事件の当事者として、有村3兄弟が深く関わったが、薩摩藩から見離され次男3男が事件の中で露に消え、一方長男のみが保護され生き残ると言う運命のターニングポイントをこの「桜田門外の変」から起きた幕末事件に思い起こされる。詳細は以下で紹介する。

桜田門外の変

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