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いよいよ桜田門外の変

Img_12851 いよいよドラマは幕末の大きな転機を迎える、この桜田門外で井伊大老が暗殺される。井伊もどうやらこんな時期が何れ来ると覚悟をしていたようであった。その井伊を討ったテロ活動に薩摩藩の有村俊斎、雄助、治左衛門の3兄弟が深く関わる。
国元では示現流'(じげんりゅう)の名人と言われる薬丸半左衛門に学んだ、薩摩藩士である。3兄弟の内、雄助、治左衛門は江戸に出府し、江戸屋敷詰めになった。
3人は当時の藩主島津斎彬に愛され、長兄の俊斎は世才に長け、坊主になり、西郷隆盛、大久保利通に知り会う中にあった。

安政の大獄で吹き荒れる中、水戸有志と密会を重ね井伊誅殺し薩摩藩壮士3千人を持って大挙京にのぼり、朝廷を守護して幕府に望み朝命によって幕政の改革を迫る「井伊斬奸(ざんかん)計画」が着々と練られた。
この計画を実施する有志十数人が脱藩する話が藩主の父、島津久光に漏れ、沙汰止みになる。ところが、江戸の薩摩藩邸では国元の急変を知らされず、斬奸を進めていた同士が召還され、残ったのは有村兄弟だけになる。

そんな背景の中遂に計画は実行され、万延元年(1860)3月3日、治左衛門は桜田門外の変で井伊大老を討ち、自身も現場で息絶える。次兄雄助は薩摩藩工作のため西走したが藩庁命で桜田事件の関係者として切腹させられている。二人は自主的に残ったのではなく、国元へ戻る程の大物ではなかったようで見捨てられた。俊斎は京都藩邸に居て、「井伊斬奸(ざんかん)計画」の京都工作に奔走し、事件に関わったが生き残った。俊斎の妻「松子」は治左衛門が壮挙に出る前日、父伊三次の仇である井伊を撃つと言う事で治左衛門と仮夫婦の契りを結んだが、治左衛門没後、さっさと俊斎に嫁いでしまっている。

2年後の文久2年(1862)生麦事件が起きて、薩英戦争までなった大事件が、生麦 で起きた。薩摩藩の行列に外国人が突っ込み外国人を殺傷したが、その3人の刺客の1人がなんと俊斎であった。イギリスから下手人の引き出しと処刑を迫ったが、薩摩は3人共隠し通した。俊斎は後に養子に行き海江田武次を名乗る。
難を逃れた 海江田武次は明治2年(1869)京都で刑法官判事につき、翌年奈良県知事になるなど明治時代まで悠々と余生を送った。

幕末を揺るがす大事件の当事者として、有村3兄弟が深く関わったが、薩摩藩から見離され次男3男が事件の中で露に消え、一方長男のみが保護され生き残ると言う運命のターニングポイントをこの「桜田門外の変」から起きた幕末事件に思い起こされる。詳細は以下で紹介する。

桜田門外の変

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