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篤姫と浜御殿

Kign501 皇室の和宮が許嫁もおり本人の意向を曲げ、公武合体の岩倉具視の策に押し切られ将軍家茂の正室
となる。
天璋院篤姫も和宮の降嫁に色々気を使うが、武家風と公家風の慣習の違いから、嫁姑の関係、背後に引き連れた女中方を含めた争いの対決の座は中々埋まらなかった。
上座、下座の武家のしきたりなどの違いから和宮と対決する。
具体的には和宮は、武家出身の天璋院から指図を受けることを嫌い天璋院を大奥から出すように頼む。
和宮について天璋院が述べた言葉
「和宮様の世話をしたいと思うのですが、京都出身の女中達から風儀の違いを笑われ、なかなか思うようにいきません」
『静寛院宮御文通留』所収の和宮の書状より引用し意訳。
・・・と天璋院も程々手を焼いたことが判る
大河ドラマでは家茂死後、片や薩摩藩片や公家の境遇に違いがあるが悲劇のヒロインとして、天璋院の亡き家定を支える姿に心うたれ、同じ境遇にある和宮も遂に殻を破り、天璋院に寄ってゆく。
しかし、その氷解兆しはそれ以前からあったのでは無かろうか
天璋院が病気の和宮を見舞った辺りから雪解けになり、その秋には浜御殿へ三人お揃いで清遊に来られた。
この時の様子を、勝海舟がこの日の事を伝えており、つかの間の幸せを浜御殿で過ごしたのではと思われる。

一方では浜御殿の「お上がり場」は鳥羽伏見の戦いで破れ、突如、大阪を逃れ品川に幕府軍艦開陽丸に何の前触れもなく戻ってきた徳川慶喜の姿があった。
肩を落とし、悄然とこの「お上がり場」の階段を登る、慶喜に最早、徳川の将軍に相応しい威厳も何も無かった。
江戸時代、将軍が隅田川から浜御殿に来られたときや舟遊びをして休息のために立ち寄られたときなどに乗降された船着場で今も原型を保っている。
明治元年(1869)15代将軍徳川慶喜は大阪から軍艦「開陽丸」で江戸に入り、このお上がり場から上陸して、騎馬で江戸城へ帰還した。・・・案内板より

この窮状を慶喜が、天璋院と和宮にどのように報告したのだろうか?

徳川慶喜の朝廷への嘆願を行うが拒絶する西郷隆盛の言葉は大変厳しかった。
「慶喜を穏やかに引退させよとの嘆願、はなはだもって不届き千万。ここは断然、慶喜を追討しなければならない」

いよいよ物語は押し詰まってきたが、この浜御殿も押し迫った幕府の姿を姿追う、関わり深い場所の一つとして、見逃せない場所である。

浜御殿(現浜離宮庭園

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コメント

 ドラマ「篤姫」も幕末の複雑な政治状況を
出来るだけ簡略化して、従って詳しい人には物足りないという意見もありますが、高視聴率を保ちながら、最終回へと向かっています。
 さて、慶喜公が伏見から江戸城に戻った時の事は、旧事諮問緑(岩波文庫)の「大奥の事」の中に、質問者に答える形で、旧幕中臈の方が答えられています。
 静寛院宮様や天璋院様に対面して、立て板に水のごとく話した、と、そして朝敵でないことを、あちらへ(官軍側という事でしょう)
手紙を書いて欲しいと頼んだ、と言う事です。
 西郷については、「史談会速記緑」の中に
、勝、西郷会談に同席した渡辺清(男爵)の
談話が載っています。
 江戸城攻撃について負傷者のために病院が必要であるからパ-クスに立てて欲しいと、
渡辺が面会に行きます。
 そこでパ-クスは、恭順している者に無理やり攻撃を仕掛けるのは、国際法に違反している乱暴なやり方である、として正論を述べ
建設を拒否します。
 別の本では、官軍がそういうやり方をするなら、英仏連合軍がやっつける、と言った。とか。これでは植民地化の危機にもなりかねません。
 渡辺の感想として「(西郷が)種々苦心しておる所に横浜パ-クスの一言を清が報じたので、西郷の意中はかえって喜んでおるじゃろうと清は想像します。」
 勝、西郷会談の前にすでに西郷の頭には
江戸城攻撃回避の考えがあったように想像します。

投稿: 鳴門舟 | 2008年10月28日 (火) 17時56分

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