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急げ、江戸城平川御門へ

Kosiire702恵比寿駅から篤姫輿入れの出発点に当たる渋谷の松平薩摩屋敷のあった「常磐松の碑」から六本木、飯倉、虎ノ門、内幸町、日比谷、そして大奥の通路に当たる皇居の平川門の終着点まで歩いてみた。
恵比寿駅大凡9時半出発、総延長8.7㎞と言われるが、冬の短い日差しではあるが、日没前には時間的には充分余裕の有る平川門入りを狙い、切絵図・現代図を何度も読み返し、周到な準備を進めていた。
所が、今や最開発が進み、六本木ヒルズなど近代的な顔を持つビルの林立などのビルの谷間に埋設した道に、想定した切絵図コースの道や分岐点が見つからないなど、予想以上の迷走があった。

そこを持って、天璋院が江戸城を追われ、夫だった13代将軍家定の生母・本寿院、14代将軍家茂の生母・実成院(じつじょういん)も一緒に暮らした赤坂福吉町・旧相良邸など普段来られない所だけに、ドラマの進展とも併せどうしても見ておきたかった場所など、あそこもここもと、際限なく寄り道したため、皇居の堀についた時は既に、うす暗くなってしまい、思わず、皇居の周回ランナーと並走してしまった。
殆ど歩き詰め、昼飯時間も惜しむ程で、途中で一番時間の掛からない吉野屋牛丼で、早食いで収め、再び走路についた。
最後の奥女中の通用門であった「御局門」の名の「平川門」では、春日局が閉門時間に遅れて締め出されたと同様に、既にあたりはうす暗く、城門を厳重に、大番所の警備する、徒士・足軽に行く手を阻まれ入城は出来なかった。御門への強行突破は堀に投げ込まれる恐れあり、ここは引き下がるしかなかった。(笑い)

高層ビルの渦の中での一方、日赤医療センター脇から広尾北公園や広尾ガーデンヒルズの敷地脇をこんもりしたケヤキ並木の樹林帯に、薄暗い姿は自然の真っ只中、石垣の姿は堀田家下屋敷跡をたっぷり連想出来る。

また日比谷見附から始まる外堀の世界から、内堀に接する馬場先門、和田倉門、大手門などと幾つかの門と橋を眺め、近づく、篤姫輿入れの世界をたっぷり味わうことが出来、念願の旧相良邸跡など確認でき収穫のある旅巡りであった。
既に薄くらい行幸通りを足を引きずる様に東京駅を目指し、17時頃の始発電車の座席に倒れるように座り、温もりの世界にようやっと安堵の休息につき、我が家に運んでくれた。

構想から始まって、約半月余りようやっと当サイト 篤姫輿入れを追って(渋谷から江戸城まで をアップすることが出来た。

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将軍慶喜公の江戸逃亡

0330000611拙宅サイトの篤姫輿入れに半月程要し、それでも未だ未成熟と思いつつも見切り発車したが、幕末掲示板の書き込みが置いてきぼりになってしまった。
その間、大河ドラマはドンドン進み、三田薩摩藩邸が薩摩浪士の江戸市内のテロ活動に業を煮やした幕府の庄内藩が中心になり、焼き討ち事件が起きてしまう。この事件を背景に薩長連合と幕府軍との戦いの火蓋が切られる。数では圧倒的な幕府軍に対し、少数ながら近代的な兵器で固められた
薩長連合の前に幕府軍は雪崩を打つようにドンドン崩れていく。
したたかな知恵者岩倉具視は薩長軍の倒幕方に天皇の「錦の御旗」を与え官軍とし、これに歯向かうは逆賊にしてしまう。
幕府軍は体制を整えるべく大坂城に一旦引いたが、時の将軍慶喜は兵士を置いたまま、軍艦開陽で江戸へ逃げてしまう。 江戸の上陸先は浜御殿の「お上がり場」で、そのまま江戸城へ逃げ帰る。

その「お上がり場」は浜御殿で案内している。
慶喜にとって最早頼るは天璋院しかないが、天璋院は顔も見たくないと再三拒否するが、何とか面会の機会が生れる。大河ドラマでは生き恥をさらすくらいなら死を選ぶと言う慶喜を前に、天璋院は手を
付き生きるべきと告げる。・・・こんな所は如何にも男として将軍として立て、徳川家を守るべきと懇願する姿が、ドラマの筋書きであった。
しかし、実際はどうであったのであろうか、慶喜は天璋院の前に平伏して、和宮ともども朝廷への謝罪を取り図って欲しいと懇願している。
慶喜に良い感情を持たないものも、徳川存亡にかけ、天璋院や和宮は行動を起こし、慶喜の赦免と家名の存続を朝廷への働きかけを行うが、意のままにならない。
そしてかっての和宮の許嫁であった有栖川宮熾仁親王を大総督とする東征軍が怒涛の勢いで江戸へ向かって進発する。

その有栖川宮熾仁親王の雄姿は有栖川宮公園に飾られている。

いよいよドラマは核心に触れ、目は話せなくなる。

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