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篤姫人気

St50_021篤姫全50話に及ぶストーリーは脚本家田淵久美子さんが3年掛かっていたと言われている。
その間、2人のお子さん連れで再婚されるも、ドラマの作品の作成過程で、其のご主人がガンに襲われ、作品完了後の2カ月で亡くなってしまう。篤姫・家定公との束の間の幸せであったことはドラマの外側で既に体験されているのである。

ドラマでの中で力を注いだのは生きざま、家族に拘ったと言うのもそんな背景から作品がうまれているのであろうか
ドラマの最終に飾るのは篤姫に関わり、ドラマを引き立たせる主役・純主役の登場人物が次々と倒れていく、展開に篤姫が「人を見送りたくはありません」の台詞が何となく、せつなく際立たせられる所が、脚本家田淵久美子さんの傾注した部分ではと思われる。

明治3年7月通風による足痛で小松帯刀がお琴さんに見もまれて療養中の大阪で亡くなる。
明治10年鹿児島では西郷は新政府の方針に不満を抱く薩摩藩士のために挙兵、世に言う西南戦争で命を落とされる。西郷の死によって武士の時代は此処で幕を下ろした。
翌年の明治11年5月14日大久保が、紀尾井町の馬車で政策に不満を持つ者達の手によって襲われその命を奪われてしまう。
そして最期は天璋院篤姫が天命を全うし、静かに目を閉じるのは明治16年11月20日のこと、享年49であった。

朝日新聞の文化欄でNHK大河ドラマの「篤姫」が高視聴率を記録した人気の理由は紙面の1頁を割いて報道されていた。
各界著名な100人から、元より好悪様々の評価があったが、敢えて好いとされるものに絞り、成るほどと共感を呼ぶコメントが以下のようにあった。
①篤姫の人生そのものがドラマチックなのと、幕末から維新への動きを幕府側から描くことが珍しく、近年の大河ドラマでは傑作。
②あおいちゃんは高峰秀子以来の大成する子役スター。若い俳優が元気で真剣
③「大奥から幕末を眺め直す」視点が面白い。慶喜が悪者で家定、家茂がが良い人であるという視点も新鮮。

幕末から維新に変わる変革の中でベールに包まれた大奥の世界で繰り広げられる、ストリーが面白いが、中でも篤姫の存在が大きい。ドラマの演技で何度か涙腺を緩めるが、スタパーなどインタビュウーなど普段着でも自然と感極まり涙が沸き出るのは演出でもなく、あおいちゃんそのもの篤姫役になりきり大成する姿なのであろうかと改めて思い起こした。

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篤姫が終わった

240pxkaneijipagoda12701 未だ余韻がさめやらないまま、天璋院篤姫がとうとう終わってしまった。この幕引きをどのように迎えればと整理がつかないまま、未だ来週があるのではと錯覚を覚えるぐらいに深く入り込んでしまった。               写真はその菩提寺である上野の寛永寺である。

篤姫の幼少期を伺う資料はない。篤姫の人物評の大半は江戸城に入ってからで、江戸城開城前後のものが多いと言われている。
安政2年(1855)12月に成彬と親交の深かった松平慶永(春嶽)が渋谷の藩邸で対面している。
一言、背が高い女性であると述べている。
更に成彬の篤姫評は松平春嶽の「閑窓(かんそう)ひょう筆」で以下のように記録されている。
「我々のごときものの及ぶ所ではない」と絶賛している。
忍耐力があって、幼いころから怒っていること見たことない。不平の様子なくもなく、腹の中に何か大きなものを抱えているように見える。
軽々しいところもなく、温和に見えて人に接するのもとても上手。
・・・と成彬は評価している。
婚礼が滞ったおかげで、篤姫が成彬ととともに過ごした時間が長く、嫁ぐ前に成彬から色々なものを学び、最後は将軍継嗣問題について大奥工作を委ねられた。
しかし、江戸入輿以降、大きな仕事が叶える前に夫である徳川家定を失い、この仕事を託された養父である成彬もほぼ同じ時期に亡くなってしまった。
迫り来る幕末から明治に変わる時代の渦の中で篤姫は身内の喪失が転機となって、江戸城大奥の役割から、何をすべきかを見極め、徳川家の土となる覚悟で見事に生きていく。
その間、大政奉還で徳川家は江戸を追われ、70万石の駿府へ、更に廃藩置県でそれすら剥奪され新しい時代の風の中に生きていかなければならない。

最終回のドラマでは千駄ヶ谷別邸で勝海舟との対話の中で
「亡き家定さまのお心を伝える事こそ我が道と思い定め、幸せとは地位や名誉まして財産などとはなく家族と共に過ごす穏やかな日々の中にこそあるのだと思っておる」
と、その心情を吐露しながら、明治16年(1883)篤姫もこの世を去ってゆく。
座ったまま裁縫をしながらの最後を迎える姿が、ドラマの幕引きを飾る印象的で胸に迫るシーンであった。
千駄ヶ谷から上野まで、葬儀には10000人もの人々が沿道に集まり葬列を見送ったといわれている位に市民に支えれ規模の大きな荘厳な葬式と想像する。
徳川家の菩提寺の一つ寛永寺 49年の波瀾に満ちた人生を終えた篤姫の墓があり、傍らには好物と伝えられるびわの木が植えられ、天璋院篤姫の遺子が伝えられている。

叶わぬことではあるが、せめてもその、びわの木だけでも、見て置きたい気もするが・・。

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スタジオパークに天璋院篤姫が

Image11 未だインタビュウー始まる前、宮崎あおいが大勢のフアンの垣根に囲まれた花道を通り、アナウサーに紹介されゲストコーナの席に着くまでに、大きな瞳から、もう涙が止まらなかった。改めてこんな多くの温かいフアンに囲まれ、大河ドラマのニューヒロイン篤姫は既に感極まり、涙腺が緩んでしまったのであろうか。

未だ23歳の小娘がと思ったが、於一から始まり、今泉島津から養女篤姫、さらに13代将軍家定の元に入與した。家定亡き後、落飾して天璋院となり、多い時では1000人近く居たと言われる大奥の御台所と言うトップレデイとして君臨し、徳川瓦解までの大役を見事にやり終えた達成感から生れた涙であったのであろうか・・・。若さを全面に奔放な於一から御台所への変身は私生活で普段の対話が、まるでおばあさんの喋り方と廻りから言われるほど芯から役にはまっているようであった。その数々のシーンが走馬灯のように蘇り、特に際立ったシーンとして以下が紹介された。
奇行な行動を背景に心を割らない家定の懐に飛び込み、夫婦としての絆は生れるが、それも束の間、家定は短い人生を閉じてしまう。しかし家定亡き後天璋院として徳川家を守り続けるのは家定の遺子であったりする。

江戸城から追われた一橋邸で、天璋院を前に天璋院篤姫が、育んだ静寛院や滝山などファミリーが淋しく次々と去っていく。そんな中で宮尾登美子の原作では殆ど出なかった、幼なじみの青年家老小松帯刀が突如現れる。自ら心の内を開き、もし大奥に入與しなければ、私(小松)の所に嫁ぐのではと言う問いかけに、天璋院は家定に聞いてみるとの語りは揺らぐ心の中でも、徳川家の人間に成りきった姿を小松帯刀に見せたかったのであろうか。

脚本家田淵久美子の意図した作品がこんな所にあったのであろうか、天璋院と小松帯刀のやりとりに、ぐんと胸に迫るものがあった。この大河ドラマによって、歴史の中に余り登場せず、埋もれた存在であった天璋院や小松帯刀がこの大河ドラマによって躍り出て、その存在感を大きく、語りかけているようであった。

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「ようこそ幕末の世界」は100,000ヒット越え

Img_11121111 お蔭様で、拙宅メインサイト「ようこそ幕末の世界」は100,000ヒット越えました。一つの区切り目として、ご訪問頂く皆様のお蔭で何とか越えられたことに感謝申し上げます。

日夜、このカウントを見ながら、その反応を気にしながらも、ホームページを続ける一つのかてとして、刺激となった。書きネタを求めて、西に東にこれぞと思う所は旧南多摩郡部から日帰り出来る範囲で駆けめぐった。
そのきっかけはやはり、大河ドラマで、既に過熱気味のブームの新選組も過ぎ去った感じもするが、勇が捕まった千葉の流山や勝沼を目指した甲陽鎮撫隊を追って旧甲州道の小仏峠越えをおこなったり、勝沼戦跡までも赴き、確かめた。

今年は篤姫に始まり、篤姫で終わろうとしている。ドラマをきっかけに宮尾登美子の作品を読む機会を与えてくれた。
大河ドラマは宮尾作品をベースに作者の田淵久美子により、大奥を舞台に次々と生れる事件を背景に登場人物の"愛"とか"絆""生きざま"などが重点に描かれ、楽しむことが出来た。小松帯刀を終始扱うなど存在感の大きさが原作とかなりの違いを感じるが、これも愛、絆を重点にした作者の意図の様にも思えてくる。

一方、篤姫の登場は史蹟巡りに火を付け、色々な出会いや発見が生れた。芝の増上寺で何時も閉ざされている、歴代将軍の廟が開けられ、和宮と家茂の墓石と対面出来たバスツアー。歴代の大奥でも最も「お移り」の多かったことから、江戸城を中心に、薩摩の屋敷跡初め、徳川御三家の屋敷跡などの見学。江戸市内に根をはった広大な徳川家の約260年に渡る隆盛を改めて知りえた。
江戸城無血開城に西郷と渡りあった勝海舟との出会い、晩年は勝の近隣に住み大奥の表舞台から江戸市街に降り、庶民の生活に触れ、江戸市街にも根を張った篤姫に親近感さえ覚えた。
こうして篤姫は江戸市中の歴史の一部を開くきっかけを作ってくれた。五体満足な限り、幕末の世界に触れ合い楽しんでみたい。

当該サイトは此処から ようこそ幕末の世界へ

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篤姫江戸城を去る

Tensyouinedo01 大河ドラマ天璋院篤姫もいよいよ大詰めを迎え、終幕が迫ってきた。
遥々薩摩から江戸へやってきて入輿以来、一橋家、紀伊両家にまたがる将軍継嗣の問題、病弱な家定を夫に、短い夫婦生活、3000人の大所帯の中での確執・派閥争い、生活習慣の違いから、皇妹の嫁と姑のぶつかり合い、最後は送り出した薩摩藩から賊軍として倒幕の矛先を向けられ、徳川家一筋に尽くした結果が何の報いを得らず遂に敵に居城を明け渡し、徳川隆盛約260年の歴史の幕引きを行う、波瀾万丈の大奥の13年間であった。
江戸へやってきて以来、江戸城大奥での生活を拠点に、江戸城に入る前や、大政奉還以降に江戸城から追われた以降も、江戸市内をあちこち、転々としており、歴代御台所でも最も多く、「お移り」をした人でもあることが判った。
大河ドラマでは余り、多くを語られなかったが、江戸市内を数多く「お移り」をした事実は天璋院篤姫の歴史の中での大きな発見であった。

その邸宅は芝の薩摩藩邸、に始まり渋谷の別邸、大手町の一橋邸、築地の一橋下屋敷、青山の紀州邸、戸山の尾州邸、赤坂の相良邸、最後は千駄ヶ谷の紀伊邸等々十指に余ると言われている。現在の23区分で言えば港、千代田、品川、中央、渋谷、新宿と広範囲に江戸に根を張った徳川家の屋敷を思い知らされると共に江戸の切絵図に見る多数の幕末の屋敷跡や史蹟跡の存在を光浴びる結果が生れた。

某ラジオ局から、江戸城を紹介するボランテイアガイドさんが、江戸城の平川門とその木橋だけでも案内してくれと、大河ドラマ天璋院篤姫のブームを呼んでいるようであった。

赤坂福吉町の相良邸と赤坂氷川町の勝の屋敷とは隣町と言うこともあって、大奥から江戸市中に下りて、柳橋や向島の料理屋へよく天璋院篤姫を誘い出し、天璋院篤姫も応じた中であった。大奥の御台所として重い責務から解放され、下町の情緒や隅田川の風情に触れ、生涯を通じて一番良き時代ではなかったので無かろうか。
ベールに包まれた大奥の世界から江戸城から追われ、江戸庶民に近づいた天璋院篤姫の晩年の姿を辿って見た。

晩年江戸市内で送った世界は果たしてどうであったか篤姫江戸城を去るで纏めて見ました。

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