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篤姫が終わった

240pxkaneijipagoda12701 未だ余韻がさめやらないまま、天璋院篤姫がとうとう終わってしまった。この幕引きをどのように迎えればと整理がつかないまま、未だ来週があるのではと錯覚を覚えるぐらいに深く入り込んでしまった。               写真はその菩提寺である上野の寛永寺である。

篤姫の幼少期を伺う資料はない。篤姫の人物評の大半は江戸城に入ってからで、江戸城開城前後のものが多いと言われている。
安政2年(1855)12月に成彬と親交の深かった松平慶永(春嶽)が渋谷の藩邸で対面している。
一言、背が高い女性であると述べている。
更に成彬の篤姫評は松平春嶽の「閑窓(かんそう)ひょう筆」で以下のように記録されている。
「我々のごときものの及ぶ所ではない」と絶賛している。
忍耐力があって、幼いころから怒っていること見たことない。不平の様子なくもなく、腹の中に何か大きなものを抱えているように見える。
軽々しいところもなく、温和に見えて人に接するのもとても上手。
・・・と成彬は評価している。
婚礼が滞ったおかげで、篤姫が成彬ととともに過ごした時間が長く、嫁ぐ前に成彬から色々なものを学び、最後は将軍継嗣問題について大奥工作を委ねられた。
しかし、江戸入輿以降、大きな仕事が叶える前に夫である徳川家定を失い、この仕事を託された養父である成彬もほぼ同じ時期に亡くなってしまった。
迫り来る幕末から明治に変わる時代の渦の中で篤姫は身内の喪失が転機となって、江戸城大奥の役割から、何をすべきかを見極め、徳川家の土となる覚悟で見事に生きていく。
その間、大政奉還で徳川家は江戸を追われ、70万石の駿府へ、更に廃藩置県でそれすら剥奪され新しい時代の風の中に生きていかなければならない。

最終回のドラマでは千駄ヶ谷別邸で勝海舟との対話の中で
「亡き家定さまのお心を伝える事こそ我が道と思い定め、幸せとは地位や名誉まして財産などとはなく家族と共に過ごす穏やかな日々の中にこそあるのだと思っておる」
と、その心情を吐露しながら、明治16年(1883)篤姫もこの世を去ってゆく。
座ったまま裁縫をしながらの最後を迎える姿が、ドラマの幕引きを飾る印象的で胸に迫るシーンであった。
千駄ヶ谷から上野まで、葬儀には10000人もの人々が沿道に集まり葬列を見送ったといわれている位に市民に支えれ規模の大きな荘厳な葬式と想像する。
徳川家の菩提寺の一つ寛永寺 49年の波瀾に満ちた人生を終えた篤姫の墓があり、傍らには好物と伝えられるびわの木が植えられ、天璋院篤姫の遺子が伝えられている。

叶わぬことではあるが、せめてもその、びわの木だけでも、見て置きたい気もするが・・。

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