« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »

勝海舟生誕地

Image1 下町を巡って両国駅付近をウロウロ、丁度初場所時期に重なり、着物に丁髷姿、大きな巨体を揺らしながら歩く関取の姿に、改めてここは相撲のメッカだなと改めて思い知らされる。
そんな姿に気を引かれながら、今日は別の用事、両国公園と言っても小さな公園であるが勝海舟の生誕の地に寄った。

碑の前で一生懸命に目を凝らし、見ている30~40の男性が姿に自ずから幕末フアンかなと思って当方も碑に寄っていた。デジカメと切り絵図下げる、こちらも同胞と察したか、
「この碑を捜し当てるのに随分苦労しました」と言って、満足された趣で立ち去っていった。
直心影流の剣客、「剣神」とまで呼ばれた男谷精一郎に多くの門弟が集まり賑わった屋敷であり、勝海舟のお父っつあんの実家も此処、両国公園とあり、一度は見て起きたい場所であった。
期待感に胸膨らして訪れたが、しかし殺風景な小さな公園に碑以外は何も無く、屋敷姿を、重ね併せることは無理であった。長居は無用とばかり、JR総武線の線路を潜り北側の江戸東京博物館に向かい「天璋院篤姫婚礼時の女乗物」に急ぎ走った。
その眩いばかりの乗物は前回ここで書いた通りで、まあ満足した下町歩きであった。

それから数日後、旅巡りの記憶が冷めやらぬ内にと、パソコンに画像データをセーブし、一通り眺めていく内に、良く見かける海舟の銅像が欠落していることに気づいた。(遅い!!)
ネットで調べていく内に、その銅像は生誕の地とは全く無関係な隅田川の吾妻橋南側にあることが判った。
このままでは何ともすっきり納まらず、日を改め浅草へ向かう。

吾妻橋を越えてアサヒビールのあった場所が公園風に再開発され、その植え込みの一角に天を仰ぎ、呼びかけるような姿の真新しい勝海舟の銅像が輝いていた。
広々とした空間に何か、土地に関わる人物像として、たまたま勝海舟が選ばれ、街の活性化に一役買って貰おうと据えられたと思われる。一方では両国公園の一角にさびれた生誕の地碑とは好対照の姿であった。
どうせなら、両国公園に併設して貰えれば、当人も縁の地に喜んで貰えると思うし、土地に不案内な外者には助かるのだが・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

眩しく輝く篤姫の駕篭

Img000051_2江戸東京博物館 で眩しく輝く篤姫の駕篭を見学してきた。

安政3年(1856)11月篤姫はこの乗物に乗って渋谷村別邸から江戸城まで
第13代将軍家定の元に輿入れした。
徳川家の葵紋と近衛家の牡丹紋が散らされた見事な乗物である。

ワシントンにあるアサーギャラリー所蔵するものが篤姫が利用したことが判明したのは2008年7月であった。
黒塗二葉葵 唐草葵牡丹紋散薪絵(ちらしまきえ)女乗物はまさに数有る展示品の中でも眩いばかりの金箔で散りばめられた高級車にあっと息を呑んでしまった。
ともかく凄い凄い、ガラスケースの前で貼りついてしまった。
保存状態が良く、これが150年経過しているとは思えないぐらいに眩しく輝いていた。
隣にはキャンキャンおばさん13代将軍家定公の生母本樹院所用の駕篭も篤姫用と遜色ない高級車であった。
解説によると同じ製作者によるものと推定されている。
篤姫用と判明した一つは徳川家の葵紋と近衛家の牡丹紋が散らされたところも注目する所か・・・。
忘れがちなことであるが、篤姫が近衛家の養女となり諱を啓子(すみこ)となっている。

多数陳列された駕篭で、いかにも豪壮な男乗物に対して、華美な女乗物が対照的。
駕篭の重さは通常約50㌔と人間の重さ一人分の重量であるが、中には200㌔と重戦車もどきの駕篭もある。

江戸の文化が直に触れられる「正に珠玉の輿」の展示
お薦めの記念展示である。
2月1日で終わり、急げ江戸東京博物館へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

薩摩・長州の最終決戦

20090113k0000m050073000p_size51全国高等学校サッカー選手権は広島皆実が優勝した。
エッッ!!サッカーと幕末、何故
う~ん、その戦い振りが幕末に置き換わるのである
時勢を物語るように、かっての権威をふるった徳川(帝京)も、力を付けた外様を初めとした群雄割拠の時代に、最早抑える力なく、敢えなく初戦で敗退する姿は象徴的であった。
全国諸藩が倒れる中、最後まで生き残ったのは、やはり薩摩藩(鹿児島城西)と長州藩(広島皆実)であった。
薩摩藩はエースストライカーの西郷隆盛(FW大迫勇)を中心に決勝まで勝ち上がってきた。
一方ではスターを要しないものの、徹底的に訓練され、組織で戦う高杉晋作率いた寄兵隊を要する長州藩(広島皆実)であった。Img00009

並居る軍勢のなかで、両藩が最後まで残ったのは攘夷を旗印に夷狄と戦ったが、薩英戦争や馬関攘夷戦で惨敗した両藩であった。その敗北をきっかけに尊皇攘夷から尊皇倒幕に変わり、一早くイギリスから近代兵器を大量に買い入れ装備し軍の装備強化をはかり、そのエネルギーを倒幕に向け、薩長連合の形で遂に倒幕を果たした。
新政府軍となった両藩は如何にその主要ポストを締めるか、自ら戦う相手とし、期せずして両藩が天下分け目の国立競技場での戦いとなった。
戦場の戦いを一目見ようと万余の応援に国元から駆けつけた薩摩藩・長州藩の応援でスタンドは満員となった。両軍はラッパを吹き太鼓を打ち鳴らし、これも近代化の象徴でもある西洋式音楽隊を繰り出し、統率された応援合戦が繰り広げられ、会場の雰囲気は両藩の戦いにヒートアップしていった。
審判の一笛でキックオフで戦いの火蓋は切れれた。試合は流石の評場通り、西郷隆盛の才覚と果敢な個人プレーでゴールを揺るがし、薩摩藩が先制するも、組織で戦う寄兵隊の長州藩が徐々に薩摩の動きを封じ、直ぐに高杉晋作(FW金島)のボレーで同点に追いついた。
両軍あい譲らず、決勝に相応しい戦いで2:2にもつれ込み、後半やはり高杉晋作が頭で合わせ、ゴールを揺るがし、突き放し、これが決勝点となり、長州藩が勝利をもぎ取った。
戦いの終了を合図に、戦場(ピッチ)に天を仰ぎ、うつぷせ泣き崩れる薩摩兵が象徴的であったがその中にあって、終始平静を装い敗戦の責任を一人背負い、自責の姿の西郷隆盛には涙はなかった。
その姿はまるで西南戦争で戦いに破れ、自ら潔く介錯で命をたった西郷の武将の姿であった。
一方では薩摩藩のようなスタープレーヤーが居ないものの、野戦を挑み、組織的で洗練された戦略の寄兵隊の動きが、薩摩藩より一歩上回ったようで、勝利の女神は長州藩に輝いた。
下馬評で圧倒的に薩摩有利の中で、西郷隆盛の重砲に頼りきった薩摩側の欠点を付き、当初開いた砲門も、それ以降は徹底的に封じ込んだ戦略が活かされたのでなかろうか。
戊辰戦争で寄兵隊は最強の軍団として、活躍した、そんな姿がこの決戦の姿であった。
何故是れ程までに強かったか、草莽の志士達である寄兵隊が登録25人中11人がJ1広島のジュニアユース出身者で、ユースへ昇格できなかった選手が高校に入って成長したのも大きいと言われている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

篤姫が手招き

Aoi_top1 慶長8年(1603)徳川家康が江戸に幕府を開く。その後江戸城の天守閣や北の丸が造営され、江戸城の骨格備わってくる。
日本橋を起点に東海道や甲州道はじめ街道の整備が始まる。参勤交代などの制度が生れ、江戸城を中心とした磐石な徳川幕府体勢が生れていく。
時が変わり、外国船が近海に現れ、近代化の渦の中、長州藩の尊攘派の台頭、薩長連合による反幕府体勢など徳川体勢が弱くなり、慶応3年(1867)大政奉還で王政復古の大号令が宣言される。
そして明治元年(1868)戊辰戦争が始まり、江戸城が開城され、幕府が事実上の瓦解となる。
とまあ、簡単に幕末を現せばこんな所であった。
そんな潮目に天璋院篤姫は幕臣に促され、江戸城を退去していくことが、徳川の最期を飾る、幕引きの儀式であったようだ。将軍亡き後、何千人も居た大奥のトップレデイとして、徳川家を守続けてきたが、再び戻る事の無い天璋院篤姫は江戸市内を転々とする。
権力の象徴でもある大奥から江戸市内に下りたことは大きな事件として江戸っ子にも、広く知れ渡ったのであろう。
夏目漱石の「吾輩は猫である」の中で「何でも天璋院様の御祐筆(ごゆうしつ)の妹のお嫁にいった先の御っかさんの甥の娘なんだって」猫どうしの対話の中で、天璋院として登場している。

Tensyouinmap502 江戸城を退去した後、重い徳川の重責を事実上解かれ、江戸城開城以来の幕臣であった勝海舟が近隣に住んでいたこともあって、勝海舟の案内で芝居を見たり、吉原を訪ねたりした。暮らし向きは決して豊かではなかったが、薩摩から来て初めて江戸文化に触れ合い篤姫は新たな生き甲斐が生れたので無かろうか。
その広い江戸の世界の氷山の一角かもしれないが、天璋院篤姫が足跡を残した関連地を「お出で、お出で」と手招きし、促すように思えてくる。
昨年はその天璋院篤姫に取りつかれるように、ドラマの進行に併せ、周辺を歩いてみた。
半蔵門から皇居を挟んで反対側の九段下の田安門側から北の丸公園を通って、北詰橋門側から急坂は厳しい天守閣入りを果たしこと。誉れ高い皇室和宮が江戸城に輿入れし、天璋院と別れ江戸城を離れた和宮が潜ったのは田安門や、縁の田安邸・清水邸跡。罪人として追放された絵島も此処から高遠へ向かった大奥専用の出入り口の平川門。
青い目の欧州系や中華系の人々の国際観光スポットになっていた何も無い天守閣。
坂道と入り組んだ迷路の赤坂に勝海舟の3箇所の赤坂居住跡。大奥で散々敵対したパキパキおばさん家定の生母・本寿院達と過ごした赤坂福吉町の旧相良邸。迎賓館として使われ壮麗なネオバロックの宮殿の紀伊殿中屋敷跡(写真が赤坂離宮の森)等々天璋院篤姫が沢山の踏み跡を残してくれた。
爽やかで、熱い薩摩御女が徳川家に身を注いだ姿を重ね併せ、我ながらよくぞ歩いた。ドラマも一区切りついた現在、記憶が鮮明なうちに、その縁の場所をマップ上で整理した。時代と共に一石を投じた篤姫の世界を辿ってみては如何でしょう。下をクリックするとmapが表記されます。
篤姫大江戸巡り

| | コメント (2) | トラックバック (4)

篤姫が伝えたかった言葉

Img0000411111 戊辰戦争で江戸無血開城した後、新政府軍と旧幕府軍との戦いは関東から東北へ移っていく。旧幕府軍の会津藩は急迫する新政府軍に若松城下で防御するが、新政府軍に突破されてしまう。西郷頼母家では家に入ってくる薩摩藩の前に一族21名の死、その日の内に婦女子も多く100名以上の大量な死を数える凄惨な戦いであった。

会津藩は籠城したが小田山からの新政府軍の無数の砲撃を浴びせられる。大量な犠牲を生み降伏する。写真は天守に無数の傷跡が残されているが、明治7年取り壊される。現在の天守は戦後復原されたものである。

折しも幕末・維新の激動を敗者の側から描いた長編歴史小説「会津士魂」などで知られる作家の早乙女貢(さおとめ・みつぐ、本名鐘ケ江秀吉=かねがえ・ひでよし)さんが昨年12月23日、胃がんのため神奈川県鎌倉市の病院で死去した。
先祖に会津藩士を持ち、戊辰(ぼしん)戦争で「逆賊」とされた同藩の歴史にこだわった。
会津側の資料や手記などを駆使して落城に至るまでを再検証。誇り高き藩士たちの悲劇を描いた「会津士魂」は月刊誌で18年間にわたって連載され、89年、同作で吉川英治文学賞を受賞した。

大政奉還、15代将軍慶喜公は江戸城無血開城で蟄居の身で救われたが、官軍の厳しい追求の手は会津藩に及んだ。慶喜を必死に支えたのは松平容保、定敬の会津藩であった。
天璋院篤姫が最期に語った「徳川は 亡き家定さまのお心を・・・孫々に伝える事こそ我が道と思い定め、果たすべきことが天命」を早乙女さんが現代まで自らそれを追っていたような感じさえする。

天璋院篤姫の大河ドラマをご覧に成られたか、不明であるが、大河が終わった時期に期せずして、静かに眠りについた。一度TVで会津戦争を語られる姿を拝見したが朴訥した姿が印象的であった。ご冥福を祈る。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »