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海に消えた千人隊「新藤左右助」

0512006021「根は武田信玄の末裔達」
天正10年(1582)甲州武田家が織田信長に滅ぼされ、八王子城も墜ちた。
徳川家康は信長の命に背き武田家遺臣を多数召し抱えた。
家康が武田信玄の領土経営や軍法に注目し、利用したと言われている。小人頭及その配下240人を元八王子び其の他に移駐 八王子城落城後の治安警備に当たる。
慶長4年(1599)奉行大久保長安により 500人を増員し、八王子千人同心と組織される。
召し抱えられた武田家遺臣は武蔵と甲州との国境警備、治安維持や江戸防衛の任にあたり、後には将軍の日光社参始め、蝦夷地開拓の先駆まで行い、幕府への忠誠世に名高い「八王子千人同心」となる。
彼等は平時は農耕に従事しながら、軍事訓練し、幕末には将軍上洛の供奉長州征伐 への出兵にあたる。
江戸幕府が安定すると,八王子千人同心の中から 医師,文人,思想家などの多くの学識者を輩出し 地域に文化的な影響を与えてきた。
新選組副長、土方歳三と同時期に天然理心流に入門した剣術の同期生、"土方勇太郎"が八王子千人同心として日光勤番であり、勇太郎と歳三と最後の面会するなど関わり深い。

0511014311111  江戸城無血開城がされる中、血気に流行る一部の千人同心は彰義隊などに呼応して江戸に集結するが、「新藤左右助」もその一人であった。
千人隊士と旧幕府歩兵など臥竜隊員ついて間もなく、激しい雨の中、上野戦争の火蓋が切られた。
大村益次郎の命令で大砲が威力を発揮し、黒門が破れ、彰義隊は崩れ、間宮金八朗は戦死、左右助らは飯能に逃れて、新政府軍を迎え撃った。
やがて榎本武揚から指令が伝えられると、左右助は密かに家に立ち寄り、品川へ行くと23歳、3カ月の身重の妻コトに伝え、立ち去った。
榎本武揚は開陽丸など軍艦4隻、咸臨丸など運送船4隻の合計8隻と伝習所以来の優秀な仲間、荒井郁之助など集め、全艦隊の総師となり脱走軍を組織化した。
政府軍の監視の目を潜り、脱走兵を各所に集め、総勢約2000余名を集合し乗船させ品川沖を脱出、新天地蝦夷へ向かった。
しかし、江戸湾を出た後、台風に遭遇し、艦隊の一つ、「咸臨丸」は相模湾に漂い、清水港で停泊中に無抵抗の乗組員が36名が官軍に惨殺され、遺体は清水港に投げ捨てられ放置される。
一方では運送船「美賀保丸」は房総沖で暴風雨に遭遇、銚子で難破沈没し、溺死する者、捕縛され処刑されるなど犠牲者が生れた。
「新藤左右助」も品川で、美賀保艦に乗船し、左右助27歳は消息を絶った。
両艦共、勇躍奥州から蝦夷へ着かんとする過程での大惨事で各地に死者を祭る顕彰碑や墓石が残されている。
八王子元横山町の大義寺の弔魂碑もその一つである。伊庭八郎も乗船した一人であり、その記事を以下でアップした。

美嘉保丸の悲劇

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篤姫追って寛永寺

今まで幕末関連で上野には主に上野戦争の痕跡を求めて彰義隊墓や併設の彰義隊資料室や西郷隆盛の銅像や東照宮、不忍池など時々見に来た。その彰義隊資料室は末裔の方が個人で行っていたが、運営出来ず、惜しまれつつも閉鎖されてしまった。
上野はその程度の範疇であったが、昨年の大河ドラマの篤姫で寛永寺行きをせき立てられた。
但し、墓地には入る事は出来ず、たまたま特別に公開されたこともあったが、何十倍の競争で、遥か遠い、存在であっても、その寺の雰囲気だけでも確かめられればそれで気がすんだ。
上野駅から線路沿いを北に向かい、鉄道の路線橋を渡ると寛永寺側に出る。

Img_41191現龍院墓地に「殉死者の墓」

途中に現龍院墓地に「殉死者の墓」を見る。
慶安4年(1651)4月に三代将軍徳川家光が死去した。その後を追って家光の家来5名が殉死し、さらに家来や家族も殉死した墓が目を引く。説明板から武士の世界では戦死した主君に殉じ切腹するという追腹という風習があった。
文久3年(1863)幕府は殉死を禁止し、その風習は絶えたが、その主従関係の絆は命をも厭わない太い繋がりがあった。家来に留まらず家族までも、主君の後を追う残酷な世界を墓石に見る。
明治天皇が亡くなられた夕に妻と共に割腹した乃木大将も殉死した一人で、明治になってもこうした武士の風習は脈々と生きていたのであった。
道なりに進むと国立博物館と寛永寺の霊園の塀で挟まれた道に出る。長い回廊に霊園の広さを改めて思い知らされる。その回廊の途中に四代将軍家綱公の墓所入り口の「徳川家綱霊廟勅額門(れいびょうちょくがくもん)」がある。
家綱公は延宝8年(1680)に没し、約330年も経過する重要文化財である。
入母屋作りの赤地を基調の重厚な門は、権力の象徴を示されるようであり、手入れが行き届いているのか今だに輝いている。

Image11天彰院 篤姫の墓がある 「徳川綱吉霊廟勅額門」

更に先に行き寛永寺の墓地正門に入ると「徳川綱吉霊廟勅額門」に出る
この勅額門も約300年を経過する重要文化財である。
この門と柵が施され、徳川綱吉霊廟内に家定公と仲良く隣あわせて天彰院 篤姫の墓がある。
一般人が入れるのは「徳川綱吉霊廟勅額門」までであるが、それとなく判る篤姫を追う来訪者は次から次へとやって来て、霊廟内の佇まいを眺め引き返す。                          綱吉霊廟勅額門前はこの大河ドラマに併せ、天彰院 篤姫墓所(非公開)の案内板が平成20年寛永寺教化下部の名前で建てられている。今泉島津家の幼名一子(かづこ)・於一(おかつ)の時代から家定の正室になり、江戸の地で生涯を閉じるまでを脈々と紹介されている。

その紹介文を追いながらも未だ記憶に新しいあの薩摩からやってきた奔放な姿が目に浮かぶ。冊の向かうに目を転じると、直ぐ近くにあの笑顔の天彰院篤姫が居るように、じーんと蘇ってくる。そんな雰囲気に覆われ、何時までも此処でと、立ち去り難い気分の霊廟勅額門前であった。

そんな篤姫の温もりを認めながら、寛永寺を後に、因州池田屋屋敷の黒門、東照宮など一級品の文化財を見ながら、上野駅へ、冬の日は短く、既に落ちていた。

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