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篤姫追って寛永寺

今まで幕末関連で上野には主に上野戦争の痕跡を求めて彰義隊墓や併設の彰義隊資料室や西郷隆盛の銅像や東照宮、不忍池など時々見に来た。その彰義隊資料室は末裔の方が個人で行っていたが、運営出来ず、惜しまれつつも閉鎖されてしまった。
上野はその程度の範疇であったが、昨年の大河ドラマの篤姫で寛永寺行きをせき立てられた。
但し、墓地には入る事は出来ず、たまたま特別に公開されたこともあったが、何十倍の競争で、遥か遠い、存在であっても、その寺の雰囲気だけでも確かめられればそれで気がすんだ。
上野駅から線路沿いを北に向かい、鉄道の路線橋を渡ると寛永寺側に出る。

Img_41191現龍院墓地に「殉死者の墓」

途中に現龍院墓地に「殉死者の墓」を見る。
慶安4年(1651)4月に三代将軍徳川家光が死去した。その後を追って家光の家来5名が殉死し、さらに家来や家族も殉死した墓が目を引く。説明板から武士の世界では戦死した主君に殉じ切腹するという追腹という風習があった。
文久3年(1863)幕府は殉死を禁止し、その風習は絶えたが、その主従関係の絆は命をも厭わない太い繋がりがあった。家来に留まらず家族までも、主君の後を追う残酷な世界を墓石に見る。
明治天皇が亡くなられた夕に妻と共に割腹した乃木大将も殉死した一人で、明治になってもこうした武士の風習は脈々と生きていたのであった。
道なりに進むと国立博物館と寛永寺の霊園の塀で挟まれた道に出る。長い回廊に霊園の広さを改めて思い知らされる。その回廊の途中に四代将軍家綱公の墓所入り口の「徳川家綱霊廟勅額門(れいびょうちょくがくもん)」がある。
家綱公は延宝8年(1680)に没し、約330年も経過する重要文化財である。
入母屋作りの赤地を基調の重厚な門は、権力の象徴を示されるようであり、手入れが行き届いているのか今だに輝いている。

Image11天彰院 篤姫の墓がある 「徳川綱吉霊廟勅額門」

更に先に行き寛永寺の墓地正門に入ると「徳川綱吉霊廟勅額門」に出る
この勅額門も約300年を経過する重要文化財である。
この門と柵が施され、徳川綱吉霊廟内に家定公と仲良く隣あわせて天彰院 篤姫の墓がある。
一般人が入れるのは「徳川綱吉霊廟勅額門」までであるが、それとなく判る篤姫を追う来訪者は次から次へとやって来て、霊廟内の佇まいを眺め引き返す。                          綱吉霊廟勅額門前はこの大河ドラマに併せ、天彰院 篤姫墓所(非公開)の案内板が平成20年寛永寺教化下部の名前で建てられている。今泉島津家の幼名一子(かづこ)・於一(おかつ)の時代から家定の正室になり、江戸の地で生涯を閉じるまでを脈々と紹介されている。

その紹介文を追いながらも未だ記憶に新しいあの薩摩からやってきた奔放な姿が目に浮かぶ。冊の向かうに目を転じると、直ぐ近くにあの笑顔の天彰院篤姫が居るように、じーんと蘇ってくる。そんな雰囲気に覆われ、何時までも此処でと、立ち去り難い気分の霊廟勅額門前であった。

そんな篤姫の温もりを認めながら、寛永寺を後に、因州池田屋屋敷の黒門、東照宮など一級品の文化財を見ながら、上野駅へ、冬の日は短く、既に落ちていた。

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