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幕末から維新へ消えた一薩摩浪士

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<大宮八幡>

大宮八幡から永福通り(都道427号線)を通り、井の頭線永福町駅方面に、途中で東側に左折し、実家のある和泉町に向かうのが、正月の定番コースである。
何時もなら山の神が一緒であるが、今年は身軽な一人の実家行きであった。
普段は大圓寺の門前をスルーしてしまうが、一人身の気軽さ、何の気なしに大圓寺の看板を覗き込んだら、 何処かで見覚えの有る名前に驚いた。薩摩藩の益満休之助であった。

慶応3年(1867)江戸市中を薩摩系浪士が江戸市中を荒し回り放火など「御用盗」騒動が起こり、その手が江戸城にも及び、怒りに燃えた庄内藩を中心にした幕府側から薩摩藩邸の焼き討ちに及んだ。
捕まった薩摩浪士の一人に益満休之助がおり、伝馬町の獄舎で仲間が処刑されるなか、益満は勝海舟に命乞いされ、助け出されたのも勝の力によるものであった。
東征軍が迫ってくる中で打開策が手詰まりにあり、後の幕府側工作要員の一人として使われた。
江戸開城を迫る東征軍が渦巻く東海道を西下し駿府に目指した、幕臣山岡鉄舟に帯同したのが益満であった。
山岡鉄舟は幕臣でありながら清川八郎と尊皇攘夷党を結成し、益満とは旧知の間柄、そんな人脈を知って居たのであろうか、勝海舟の見事な采配と思う。
こうして、総参謀西郷隆盛が居る駿府で江戸城開城の条件など、聞き出し後の江戸城無血開城に繋がる西郷・山岡会見が実現した。
益満が何処まで行ったか、謎に包まれるが、この会見に果たした彼の役割は大きい。
その後、江戸城の無血開城が行われるが、旧幕臣の一部は徳川家の忠誠、旧恩に報じることを旗印に彰義隊を結成、上野戦争が始まる。
益満はその後どう辿ったか、江戸に戻り、薩摩藩遊撃隊として上野戦争に参加する。益満は彰義隊の流れ弾に当たって亡くなる。

Img_38021 <大圓寺の総門の額>

大圓寺は延宝元年(1673)薩摩藩主島津光久の嫡子綱久が江戸で死去した際、当寺で葬儀を行って以来、島津家の江戸における菩提寺となり、寺内に薩摩家代々の位牌堂が設けられている。

かなり腐食し劣化した墓碑であるが、多数ある戦死者の中にあって、益満休之助の名前がはっきり読み取る事が出来る。
「明治元年戊辰5月 東京上野戦死」
組織名は「遊撃隊」の名前が上がっているが、「隊外 斥候役 益満休之助」とされている。
墓誌を読み取って、こんな身近なところに、益満が眠る事に思わず身震いした。
命乞いをして、掴んだ生きる道を1年も経たずして絶ってしまった、益満の生涯であった。

大圓寺とその墓碑はその後の益満休之助で詳細表記されている。

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もう一つの「江戸開城西郷・勝の会見の地」

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<池上本門寺松涛園>

時の将軍慶喜は鳥羽伏見の戦いで破れ、幕府軍を大阪に置いて京都守護職松平容保ら僅かな幹部を密かに連れて開陽丸でさっさと江戸に逃げ帰ってしまう謂わば"敵前逃亡"である。
慶喜は既に朝敵と名を付けられ、「これはかなわぬ」と上野寛永寺で恭順、謹慎の意志を表している。
「慶喜、大逆無道、罪死に当たる~」と気負い立ち、薩長連合とした東征軍が江戸に迫ってくる。
江戸を戦場の場として火の海になりかかる所をまさに水際で戦争を回避したのは東征軍総参謀西郷隆盛と幕府の陸軍参謀の勝海舟の会見である。
江戸開城西郷・勝の会見の地が田町の薩摩藩蔵屋敷で行われたと言われ記念碑が建っている。
ところがもう一つ江戸開城西郷・勝の会見の地の記念碑が池上本門寺松涛園別の所にある。
池上本門寺は東征軍の本陣として使われた所で、その境内の一角に松涛園という広い庭があり、慶応4年(1868)4月に其処で会見されたと言われいる。
松涛園は年を通じて特別な日だけに公開されるが普段は公開されておらず、その会見の碑は余り人目に触れられず遠い存在である。
しかし松涛園は完全に門戸を閉ざしているわけではなく、特別に入場する方法がある。
それは本門寺が発行する試験問題が11問あり、それを答えれば晴れて入場を許される。
はてさて、どんな問題であろうか?
・此経難持坂は何段か
・総門の額を書いた江戸時代の文化人で誰か
と言う類の問題が出てくるが、いきなり問題集を貰っても、何も見ないで答えられる人は殆ど居ないと思われ、始めてくる人には難問である。
しかし、車の免許の問題とは違って、何を見ても構わないので、質問された内容を追って境内を廻れば案内板に出ているので、それを転記すれば良いのである。
要は境内をじっくり廻り、案内板を読み理解し、散策した暁には、本門寺の理解を深め、初めて名誉ある、入門の許可が得られるのである。ヒントは何をどう見るかが、鍵を握る。
お寺でパンフレットを貰い、解答を書き、朗峰会館フロントに提出し、チエックを受け入門許可を貰う。  Image111_2

<四阿の一つ、松月邸>

松涛園は小堀遠州の造園による池泉回遊式の名園である。池を中心に囲むように四阿(あずまや)があり、今は無くなってしまった四阿の一つで西郷隆盛と勝海舟が江戸城開城の会見をしたと言われており。会見の碑が立ってあり、東京都史跡に指定されている。会見がどう行われたか、田町の薩摩藩蔵屋敷との関係が不明。
池を見下ろす小高い一角に四阿があったところで、鬱蒼とした樹木に覆われ会見の碑が建っている。
この石碑は昭和16年西郷隆盛の甥に当たる西郷従徳の揮毫になる。人気は全くなく、手入れの行き届いた庭園の風情を独り占めし、贅沢な気分で回遊出来る。都会の喧騒から離れ、聞こえるのは鳥のさえずりと、池の水音が、幕末の舞台を再現している錯覚に落ちいる 。
こうしたハードルを乗り越え園内に入り、身を浸す喜びはひとしおである。

会見の碑はここで掲載されている池上本門寺松涛園 

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駿府の国で篤姫語る

江戸無血開城は脈々たる約300年に亙る徳川幕府の終焉を告げ、歴史的にも大きな節目である。
大河ドラマ「篤姫」でもドラマ後半の大きな山場でもあった。
慶応4年(1868)3月14日幕府の陸軍参謀 勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所である。
しかし、この「勝・西郷会談」ばかりが歴史的にも大きく光を浴びているが、この会談はある種セレモニー的なもので、実質的な打ち合わせは、西郷らが江戸に入る前に駿府(現静岡)へ幕臣山岡鉄舟が西郷の所に出向き、歴史的な会談が行われている。Image211

駿府の国、東海道府中宿、かっては本陣もあった伝馬町通り。この左側の建屋で西郷と山岡が会談した。

既に西から朝敵徳川慶喜を討つと東征軍の渦が、江戸城を目指しやってくる中で、危険を冒し官軍参謀の西郷隆盛の懐所に飛び込んで行けたか、その意義ある交渉の地に飛んで行きたかった。
その駿府、府中宿は江戸から約44里(175㎞)、西郷と山岡が会談後、富士山の秀麗を仰ぎ、駿河湾沿いに、箱根を越え3日後に江戸に入城している。
そんな長い距離を新幹線こだまで約1.5時間であっと言う間に運んでくれ、お小遣いさえあれば気軽に赴く事が出来る。
静岡駅に近い、伝馬町通りが旧東海道で、背後に駿河城を控え、かっては本陣などがあった賑やかな場所であるが、繁華街の一等地として開発されその面影が殆ど見えないが、その一角に、会談の地として西郷と山岡のレリーフが飾られてあった。
その会談の経過、場所については何れ、当サイトで詳しく書いてみたい。Image11

駿府城の復元された二の丸建屋

折角、此処まで来たのであれば、関連地も見てみたいと足のむくまま、家康の姿を色濃く残す駿府城跡や慶喜公が謹慎の身として20年近く過ごした「浮月朗」など終日たっぷり楽しめた。
駿府城の復元された二の丸建屋の城内に身を置きタイムスリップし、建物の重厚さを味わい、城郭の一角の紅葉山庭園で風情を味わいながら、濃茶と和菓子にしばしの休息を取った。
ん~ん、この渋みに加わる甘さが何とも繊細な風味が口一杯に伝わり、流石名産のお茶と感服する。
茶を接待する、二人の元お嬢様から、他にお客も居なかったから「どちらからですか?」と声を掛けられ「東京」からと応え驚いていた。
その駿府来城は「大河ドラマ篤姫」から江戸無血開城の「西郷と山岡の会談の地」がどうしても見たかったのが動機付けと話したら、お二人とも、「篤姫」フアンであったようで、庭園の茶室は思わず「篤姫」談義で盛り上がってしまった。
お互いに見ず知らずの間なのに、こうした取り持ったご縁が「篤姫」であったことの影響の大きさを改めて、思い知らされ、ここ駿府で生れた絆が嬉しかった。庭園に植樹された「葵」の葉がこれから徐々に温かくなると土から芽を出し、その姿がまさに葵の御門の形にと教えて貰う。家紋しか知らない拝にとって、此処は葵の葉で覆われる徳川の筋金入りの聖地であることを認識した。

最後に駿河城を見下ろす「静岡県警察本部」に行って見なさいと教えられ、特に悪い事はしていないが場所が場所だけに、多少の負い目を感じながら、怪しまれず、なるべく平然と警察本部の22階に上がって見る。Img_467611

県警察本部22階から360度の景観をたっぷり楽しむ。

遥かな眺めは駿河湾から伊豆半島、駿府を包み囲み立ちはだかる日本平、遥か遠い江戸に向かった東征軍の行く手を追ってみた。

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伊豆下田に吉田松陰を追う

徐々に春が足元を訪れ、伊豆半島へひとっ走り、2家族4人で廻ってきた。宿泊地は堂ヶ島で、それ以外は何処へ寄ろうとドライバーに委ねられた。
ハンドルを預かるのは拝一人、結局、寄る場所の一つに自然と下田に向かってしまった。
「あれ!!また下田だ~」の声を黙殺し、「松陰が手招くから」と、勝手に理由を立て下田の開国博物館の駐車場で止め、博物館と周辺の松陰の足跡を追っかける。
松陰は諸国遊学を許され、日本各地の周遊は全国に多くの知己が出来、視野が広がり松陰の思想に大きな変革を生れた。折しもペリー来航が松陰の衝撃的な出来事として捉えられ、外国事情を探索する踏海の志が一気に膨れ上がり、その実現に行動を起こす。
外国事情に目覚めた松陰は又とないチャンスと象山に相談を持ちかけ、「優秀な人材は海外に派遣して外国事情を探索することが急務」と松陰の海外渡航の志を励ました。
ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀沖に来航後の翌月ロシアのプチャーチン提督が4隻の艦隊で長崎に来て和親通商を申し入れてきた。
松陰はプチャーチンを追って、長崎に行ったが、間に合わず、艦隊は上海に行ってしまった。
海外渡航の夢覚めやらず、江戸でその機会を待ち、同じ長州人で金子重輔と出会い、松陰の弟子となり、海外渡航を一緒に志す。
嘉永7年(1854)ペリー黒船艦隊が下田入港に合わせて、小舟にて米艦のミシシッピイ、更に旗艦のポーハタンに乗り付けるが、「日本の国法を破って連れていくわけにはいかない」と断られ、米艦のボートで福浦まで送り返される。
乗ってきた小船に大小の刀や荷物を乗せたまま、何処へ着いたか判らず、村人に拾われ役人に捕縛されては見苦しいと、名主宅で自主する。Image211

吉田松陰拘禁の跡 現在下田市中央公民館

海外渡航に失敗し、自首して捕らわれ、平滑(ひらため)の獄に繋がれる。
松陰は番人に書物を借りて読み、獄卒は松陰の人柄に敬服し大切に扱ったと言われている。
「・・・その夜、平滑と云う番人の獄に下す。獄は只一畳敷、両人膝を交えている。頗る其の狭きに苦しむ」と松陰の回顧録にある。
平滑の獄で囚われの身を艦隊の士官に見つかり、獣の檻に入れられている、前日の憐れむべき二人がいた。ペリーが心痛め軍艦に来た二人と確認したが、既に江戸に送られていた。
ロシアがだめならアメリカでも、海外への夢は変わらなかった。小さな小船を苦労して、操作し、ようやく米艦上まで上がったが、その熱い意志は叶えられずに、暗転の世界への踏み出しになってしまった。Ysdsin202

平滑の獄

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平滑の獄跡地 現在の 開国博物館の駐車場

大胆さと無計画な甘さが幼稚とも思えるが、海外への旅立ちは一縷な気持ちだけで走ったように思える。
この獄で10日ほど過ごし、早朝、両人は手に手鎖、足にほだを打たれ、身に捕縄をかけられて、天城を越え、唐丸籠で江戸八丁堀の獄舎に送られた。
その後、米国の強硬な要求に屈して日米通商条約がが成約するが、勅許を巡って開国、攘夷に激しく対立する。
弾圧が吹き荒れる中、攘夷家であり、倒幕を計画したことが割れ、松陰は江戸伝間町で処刑される。
松陰の死後、門弟達は松陰の遺志を継いで、王政復古に尽力、明治維新を迎える。

「吾れ今 国の為に死す  死して君親にそむかず  悠々たり天地のこと  鑑照  明神に在り(上天の神よ、御照覧あれ)」朗々と吟唱の後、その首は斬り落とされた。

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