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伊豆下田に吉田松陰を追う

徐々に春が足元を訪れ、伊豆半島へひとっ走り、2家族4人で廻ってきた。宿泊地は堂ヶ島で、それ以外は何処へ寄ろうとドライバーに委ねられた。
ハンドルを預かるのは拝一人、結局、寄る場所の一つに自然と下田に向かってしまった。
「あれ!!また下田だ~」の声を黙殺し、「松陰が手招くから」と、勝手に理由を立て下田の開国博物館の駐車場で止め、博物館と周辺の松陰の足跡を追っかける。
松陰は諸国遊学を許され、日本各地の周遊は全国に多くの知己が出来、視野が広がり松陰の思想に大きな変革を生れた。折しもペリー来航が松陰の衝撃的な出来事として捉えられ、外国事情を探索する踏海の志が一気に膨れ上がり、その実現に行動を起こす。
外国事情に目覚めた松陰は又とないチャンスと象山に相談を持ちかけ、「優秀な人材は海外に派遣して外国事情を探索することが急務」と松陰の海外渡航の志を励ました。
ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀沖に来航後の翌月ロシアのプチャーチン提督が4隻の艦隊で長崎に来て和親通商を申し入れてきた。
松陰はプチャーチンを追って、長崎に行ったが、間に合わず、艦隊は上海に行ってしまった。
海外渡航の夢覚めやらず、江戸でその機会を待ち、同じ長州人で金子重輔と出会い、松陰の弟子となり、海外渡航を一緒に志す。
嘉永7年(1854)ペリー黒船艦隊が下田入港に合わせて、小舟にて米艦のミシシッピイ、更に旗艦のポーハタンに乗り付けるが、「日本の国法を破って連れていくわけにはいかない」と断られ、米艦のボートで福浦まで送り返される。
乗ってきた小船に大小の刀や荷物を乗せたまま、何処へ着いたか判らず、村人に拾われ役人に捕縛されては見苦しいと、名主宅で自主する。Image211

吉田松陰拘禁の跡 現在下田市中央公民館

海外渡航に失敗し、自首して捕らわれ、平滑(ひらため)の獄に繋がれる。
松陰は番人に書物を借りて読み、獄卒は松陰の人柄に敬服し大切に扱ったと言われている。
「・・・その夜、平滑と云う番人の獄に下す。獄は只一畳敷、両人膝を交えている。頗る其の狭きに苦しむ」と松陰の回顧録にある。
平滑の獄で囚われの身を艦隊の士官に見つかり、獣の檻に入れられている、前日の憐れむべき二人がいた。ペリーが心痛め軍艦に来た二人と確認したが、既に江戸に送られていた。
ロシアがだめならアメリカでも、海外への夢は変わらなかった。小さな小船を苦労して、操作し、ようやく米艦上まで上がったが、その熱い意志は叶えられずに、暗転の世界への踏み出しになってしまった。Ysdsin202

平滑の獄

Image11

平滑の獄跡地 現在の 開国博物館の駐車場

大胆さと無計画な甘さが幼稚とも思えるが、海外への旅立ちは一縷な気持ちだけで走ったように思える。
この獄で10日ほど過ごし、早朝、両人は手に手鎖、足にほだを打たれ、身に捕縄をかけられて、天城を越え、唐丸籠で江戸八丁堀の獄舎に送られた。
その後、米国の強硬な要求に屈して日米通商条約がが成約するが、勅許を巡って開国、攘夷に激しく対立する。
弾圧が吹き荒れる中、攘夷家であり、倒幕を計画したことが割れ、松陰は江戸伝間町で処刑される。
松陰の死後、門弟達は松陰の遺志を継いで、王政復古に尽力、明治維新を迎える。

「吾れ今 国の為に死す  死して君親にそむかず  悠々たり天地のこと  鑑照  明神に在り(上天の神よ、御照覧あれ)」朗々と吟唱の後、その首は斬り落とされた。

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