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維新とフランス

日仏交流150年記念特別展示と言う事で東京大学総合研究博物館に行ってきた。幕末フアンには見逃さない、写真を中心にした展示物が一気に公開された。

Img_51721 明治8年(1875)明治天皇肖像(案内パンフレットから)

300年近くの徳川の支配体制が続く中、嘉永6年(1853)浦賀沖にペリー提督の率いる黒船が出現し、一気に幕末の激動を迎えることになった。
先進欧米各国を相手に不平等の条約の締結を余儀なくされた幕府はやがて大政奉還し、強固な幕藩体制が崩れ、国内の内乱状態を招き、戊辰戦争に突き進んだ。
戊辰戦争で破れた幕府から、新政府に移り、新しい国家体制が誕生し、更に近代国家の建設へ向かっていく。
この幕末の内乱状態が続く激動時期に深く関わりを持った国の一つがフランスである。
徳川幕府末期に幕府の養成で日本に軍事顧問団を派遣し、歩兵・騎兵・砲兵など近代軍隊の軍事教練を行っている。更に戊辰戦争では榎本武揚と共に函館戦争に参加するなど、深く関わりを持っている。大政奉還に時代は変わったが、明治政府も陸軍の近代化にやはりフランスに依頼している。
近代国防の一つの柱として横須賀製鉄所による造船所の建設は幕臣小栗上野介の夢であり、具体化したのはフランス人ヴェルニーであった。
この近代黎明期に日仏の関係は軍事、産業、文化など深く関わっている。
これらの背景からこの幕末から維新の時期にかけた歴史を語りかける、写真や書籍類が
フランス博物館やコレクション、更に軍事顧問団で派遣されたメンバーの末裔の許に
残されたものが、未公開資料が一気に公開された。

Img000001 元治元年(1864)長崎の最後の奉行河津裕邦と河田煕とフランス人将校(案内パンフレットから)

幕府を支援する形の第一次軍事顧問団の派遣。ついで明治維新以降の第二次軍事顧問団の派遣でそれぞれ教練の成果があったようで、顧問団の集合写真がいくつか含まれる。一気に近代文明に風にのり洋装化され、軍事顧問団に参加する、生き生きとした若者姿もあれば古式豊かの武将姿で身を固めた最後の奉行「河津裕邦」の姿など、大変珍しい逸品にお目にかかれる。
幕末フアンには見逃せない展示である。
場所は東京大学本郷キャンパス内。開館時間は10:00~17:00(但し、入場は16:00まで)
月曜もしくは祝日の翌日が休館。2009年5月末まで

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葵御紋を巡って

これまでの歩いた歴史旅を総ざらいして、写真ライブラリーから特に有名な意味合いを持った葵御家紋を拾い集めみた。

それぞれの場所には思い入れもあるが、特に葵紋にこだわりを持って歩いたわけではないが、整理したらこんなに膨らんでしまった。これがこつこつ刻み込まれ積み上げられた財産で、正直言って、まあ~よくぞ歩いたなあ~と言うところである。
どうであろう、最近の歴史歩きの旅ブームに後押しされ、「葵御紋歴史旅」なんぞは如何であろう。

最初は徳川家康を神として祀った神社として東照宮がある010900081

芝公園の一角にあり、元々増上寺の社殿であったが、明治初期に神仏分離令により、増上寺から切り離されて芝東照宮となった。

さて、徳川家の菩提寺が芝増上寺と上野の寛永寺の二つの菩提寺があるのであろう。
徳川家康が江戸へ入府した時に増上寺の前を通りがかり、当時のご住職と面談した縁から生れたと言われている。一方寛永寺は三代将軍家光が天台宗の僧天海に帰依(仏教徒になる)、葬儀は寛永寺と言う遺言から、二つの目の菩提寺という事態になってしまった。
以来歴代将軍が交替で造営することが慣例化した。厳密には交互とは言えないが、それぞれ6人ずつ葬られている。

それでは菩提寺の芝増上寺と上野寛永寺

<芝増上寺>

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芝増上寺の御霊屋(おたまや)墓所入り口の鋳抜門、14代将軍家茂公と皇女和宮が一緒に眠っている

<上野寛永寺>

Image1 上野の寛永寺、「徳川綱吉霊廟勅額門」13代将軍家定公と天彰院 篤姫が一緒に眠っている。

              Img_47671      

寛永寺 谷中の墓地、閉ざされた歴代将軍の中にあって、唯一開かれた墓地。簡素な神式を臨んだと言われ、15代将軍慶喜公と美香子夫人が一緒に眠っている。

季節柄、緑、花に覆われ、わくわくするような気分で、外歩きを楽しめる時期である。
将軍様の様子伺いに、大河ドラマの記憶と重ね併せ、葵門をキーワードに春の訪れを確かめ、訪ねるのも良いのではと思えるのである。

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