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「甲州街道を行く」を見て

普段馴染みの深い甲州古道を江戸から甲府の武田神社までの140㎞を一つの万歩計をバトン代わりに4人の俳優さん女優さんで走破する。4人の共通ノルマはこの140㎞を完走するだけで、バトン渡しの中継点は宿泊する場所を探しながらの、気まま旅である。西に向かえば向かうほど、宿泊場所が少なくなるので、積み上げた距離の過不足は最終走者、舞の海にかっかってくる。

Img_5633111 府中で交替した三田村邦彦は排気ガスの凄い、20号を多摩川を越え日野宿に入ってくる。本陣を僅かに、立ち寄り、近くの農家でトマトの取り立てを美味そうに食べ、のんびりした農園風景が捉えられる。

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高尾から出発し、甲州古道の最初の難関、ガスで立ち込める小仏峠を1時間、喘ぎながら560mの山頂に出る。
相模湖辺りから三田村が軽いフットワークで走るのを追いかけるスタッフの「ゼーゼー」と言う息づかいがマイクを通して伝わり、笑ってしまう。
上野原で澤田亜矢子にバトンタッチ。此処までくるともう旧道は舗装も途絶え、雑草の生い茂る山道、食堂もままならぬまま、談合坂サービスエリア付近に食事場所求め、迷走する。
犬目宿の名ばかりの君恋温泉にようやく当宿場所とする。風呂につかり、しみじみと「はっきりいって辛かった」は 艱難辛苦の旅の姿を物語っているようである。
翌日、昼前に鳥沢宿で、昼食。桂川沿いの猿橋を経て、大月で宿屋探しに、苦労するが1泊4720円の質素な木賃宿を漸くみつけ舞の海にバトンタッチする。

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翌日、下花咲宿本陣に到着、星野家当主から、どっしりした本柱や明治天皇行幸の時の休憩された上段の間など直々に案内して貰う。真木稲荷神社から当コース最大の難所笹子峠が控える。笹子トンネルを通れ
ば5㎞の道は専用歩道無く極めて危険、14~5㎞の旧道をひたすら歩くが、歩いても歩いても登坂道の連続に標高1096mは厳しくのしかかる。
笹子墜道を潜り、廻りは海抜1000mの天空の世界、ここから駒飼宿へ下って4時間かかって甲州街道に合流する。

Img_564111 苦しい時にも笑顔を絶やさず、堪える姿にスポーツマンとして鍛えた根性が弱音を見せなかったが、山越えを果たし舞の海もさすが疲労も限界、如何に凄かったかを物語っている。勝沼での宿探し、TV取材は断られ、もう一軒は満室、バーベキュウの匂いをかぐだけで、神も仏も無く、石垣に向かって号泣する。
駒飼宿から、近藤勇達ら甲陽鎮撫隊が官軍と戦った大善寺についたが、時間が無いためパスであった。
勝沼宿で宿もなく、既に落ちかけた夜道をひたすら石和温泉へ目指し、出発後13時間で漸く石和に到着する。
その間、大月を出て舞の海以下の撮影隊の歩いた山坂道の距離は42㎞と凄い道のりであった。

Img_56431 石和温泉で投宿後、翌日、最後の武田神社へ。腰を落とし、クシャミもままならない、疲労は翌日も背負っていたが、最終ゴールの武田神社では笑顔が蘇っていた。
4人がかりで街道を140㎞、寄り道含めた走行距離は188㎞、甲州古道歩きは感動を与えてくれた。

同じ道を1年前(2008ー6、7)上野原まで歩いみた。懐かしく思い出される。

甲州古道を行く(八王子宿~小原宿)     甲州古道を行く(与瀬宿~上野原宿)

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千駄ヶ谷・徳川邸のおもいで話

Sendagaya02 <花葵のイラスト>(本で使われたもの)

どうしても千駄ヶ谷の徳川邸を知りたいと思っていたら、某行政筋から「花葵」徳川邸おもいで話、著者保科順子 毎日新聞社発行を教えて頂いた。
「維新をきっかけに将軍から華族の世界へ」、知りたいと思っていたベールに包まれた徳川宗家の世界が、当事者の思い出話として、集積され既に10年前(1998)に発表されていた。
既に絶版となっており、篤姫人気の追い風に乗って、1500円の定価が3倍近くになっているが、それを承知で買ってしまった。

徳川一族が暮らす当事者のみでしか通じない言葉や対談がそのまま活字化されたり、理解ししづらい所もあったが、それだけ脚色されずに、生の声が伝わってくる。
何回か読み返すうちに、我々属世界では考えられない風習、慣習が脈々と守られてきた事が判った。
元々、千駄ヶ谷駅前の通りの体育館とは向かい側(西側)に徳川邸が建てられ、天璋院が住んでいたが、手狭なため大正時代に現在の体育館側に新邸の建物は建てられた。
新邸の落成を持って旧邸は母屋を残し、生活の基盤は新邸に移ってゆく。
敷地面積1万2千坪、建坪900坪と言う、一見して外見は華麗な御殿のような世界であった。しかし、実はつつましく、素朴でごく質素な世界があることは維新という歴史背景を踏まえ天璋院の遺志が伝えられ守られているものと思える。

時代の流れ中で、薩摩と徳川が対決した溝が感情的にも埋まらないまま、新しい時代を迎えている。天璋院の遺言で家正の嫁を島津から貰うが、邸内でも色々波紋を起こし、嫁姑に深い溝が生れていた。
将軍職を背負うがために、幼い内から親と離れ、自立を目覚めさす生き方。
将軍家の末裔として特権階級の世界で祖父母に直に育てられたことなど、明治、大正、昭和と時代が変わっていくなかで、千駄ヶ谷を舞台にした新生徳川の様子が赤裸々にえがかれている。
あの白亜の洋館建の建物はその後、どうなってしまったのであろう?。気になっていたその後の行く末は戦後まで生きていたことが確かめられた。
江戸城開城で一先ず終わった天璋院・篤姫物語がこれで繋がったような感じがする。

地図を含め、書き写しするなど、半月程かかってしまったが、漸く完成し、幣サイトでアップ出来た。ご覧頂ければ幸甚である。

千駄ヶ谷・徳川邸

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