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千駄ヶ谷・徳川邸のおもいで話

Sendagaya02 <花葵のイラスト>(本で使われたもの)

どうしても千駄ヶ谷の徳川邸を知りたいと思っていたら、某行政筋から「花葵」徳川邸おもいで話、著者保科順子 毎日新聞社発行を教えて頂いた。
「維新をきっかけに将軍から華族の世界へ」、知りたいと思っていたベールに包まれた徳川宗家の世界が、当事者の思い出話として、集積され既に10年前(1998)に発表されていた。
既に絶版となっており、篤姫人気の追い風に乗って、1500円の定価が3倍近くになっているが、それを承知で買ってしまった。

徳川一族が暮らす当事者のみでしか通じない言葉や対談がそのまま活字化されたり、理解ししづらい所もあったが、それだけ脚色されずに、生の声が伝わってくる。
何回か読み返すうちに、我々属世界では考えられない風習、慣習が脈々と守られてきた事が判った。
元々、千駄ヶ谷駅前の通りの体育館とは向かい側(西側)に徳川邸が建てられ、天璋院が住んでいたが、手狭なため大正時代に現在の体育館側に新邸の建物は建てられた。
新邸の落成を持って旧邸は母屋を残し、生活の基盤は新邸に移ってゆく。
敷地面積1万2千坪、建坪900坪と言う、一見して外見は華麗な御殿のような世界であった。しかし、実はつつましく、素朴でごく質素な世界があることは維新という歴史背景を踏まえ天璋院の遺志が伝えられ守られているものと思える。

時代の流れ中で、薩摩と徳川が対決した溝が感情的にも埋まらないまま、新しい時代を迎えている。天璋院の遺言で家正の嫁を島津から貰うが、邸内でも色々波紋を起こし、嫁姑に深い溝が生れていた。
将軍職を背負うがために、幼い内から親と離れ、自立を目覚めさす生き方。
将軍家の末裔として特権階級の世界で祖父母に直に育てられたことなど、明治、大正、昭和と時代が変わっていくなかで、千駄ヶ谷を舞台にした新生徳川の様子が赤裸々にえがかれている。
あの白亜の洋館建の建物はその後、どうなってしまったのであろう?。気になっていたその後の行く末は戦後まで生きていたことが確かめられた。
江戸城開城で一先ず終わった天璋院・篤姫物語がこれで繋がったような感じがする。

地図を含め、書き写しするなど、半月程かかってしまったが、漸く完成し、幣サイトでアップ出来た。ご覧頂ければ幸甚である。

千駄ヶ谷・徳川邸

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09、四谷・千駄ヶ谷歴史散策」カテゴリの記事

コメント

 毎々のご努力に感嘆、感謝しております。
興味深く読ませていただいています。

 さて、古本については、アマゾンが安いと思いますよ。
 ちなみに、「花葵」アマゾンで検索すると、2450円位から何冊か出品されています。
 私はアマゾンで積読状態の本を何冊も買い込んでいます。

投稿: 鳴門舟 | 2009年6月 6日 (土) 05時47分

鳴門舟さん何時も御贔屓に感謝してます
元々千駄ヶ谷に住んでおり、多少は土地勘もあり、周辺をウロウロしましたが、結局判らずじまい。あの白亜の御殿がどうであったか、この本で統べたが解きあかしてくれました。
私が購入したのもアマゾンからです。

投稿: 隠れ新八 | 2009年6月 6日 (土) 06時48分

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