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スペシャルドラマ「坂の上の雲]

司馬遼太郎の数々の作品はNHKの大河ドラマに取り上げられ人気を博している。しかし、司馬遼太郎が生前のおりNHKからの懇願もあったが、大作「坂の上の雲」は当人の了解を得られず、放映が実現しないまま、司馬は亡くなってしまった。
史実の不透明な部分が残される幕末を素材とするものが、小説化されても、余り問題にされないが、維新以降の現代史ともなってくると様子が違ってくる。舞台となる日露戦争の乃木大将を「立派な軍事であったが、いくさ下手」という司馬の一方的評価が広まってしまったことが問題の根っこのようである。

そんな事情の中でどのようなやりとりがあったか判らないが、スペシャルドラマ「坂の上の雲」が実現する。

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ドラマは2007年11月にクランクインして以来、撮影は終わり編集中のようである。
国内では主人公の秋山兄弟と正岡子規の故郷である松山をはじめ18の都府県で、ロケおよびスタジオでの収録。
海外はロシア、中国、フランス、イギリスなど6か国でロケを行った。
放映は2009年秋で第1回 11月29日(日)から12月27日(日)全5回、毎日曜日午後8:00~9:30放映される。

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出演者は「秋山真之」 … 本木雅弘、「秋山好古」 … 阿部 寛、「正岡子規」 … 香川照之を中心に伊東四朗、竹下景子、松たか子、片岡鶴太郎、小澤征悦 、的場浩司 など多彩な俳優さんが出演される。

早いもので、もう8月も終わり、年末の話しは拙速気味であるが、楽しみにしたい。

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咸臨丸の生涯

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<咸臨丸(復元船、咸臨丸まつりより)

ペリー来航を機会に急遽オランダに発注し、外輪船主力 の時代にスクリュウーで走る咸臨丸は最新式の軍艦と言われている。
オランダで完成し、日本に送られ、長崎海軍伝習所の練習艦になる。
咸臨丸概略仕様 全長49.7m 幅7.9m 排水量630トン(諸説あるようである)
百馬力の補助エンジンが付いていたが、燃料を大量に積み込めなかったために洋上に出ると帆走することになっていた。
米修好条約の批准書交換のため護衛艦として咸臨丸は幕府木村摂津守、勝海舟らと併せアメリカ海軍の、ブルック船長以下11人が乗り合わせアメリカに向け太平洋横断する。
こうした栄誉に輝いた咸臨丸であった。032800401

<ブルック大尉と佐久間象山、咸臨丸まつり>

しかし運送船に格下酷使して故障が頻発する蒸気機関を取り外され、ただの3本マストの「運送船」に格下げされてしまう。

明治元年(1868)咸臨丸は回転丸に引かれ、榎本武揚らに率いられるて北海道に向かうはずであったが      江戸湾を出航する折りに、外洋で海が荒れ、幕府艦隊はちりぢりになり、咸臨丸は駿州 清水港に吹き寄せられる。 船の生命線たる蒸気機関を外され、自力走行が不可能になり、荒れた海の中、相模湾 に漂い座礁してしまった。知らせを聞いた官軍は清水港に停泊している咸臨丸に戦いを挑み、白旗を掲げ降伏の意志を示す咸臨丸に乗り込み、乗組員を惨殺する。36の遺体が清水港に浮いたと言われ、官軍に弓を引いた賊であるとして後難を恐れ遺体は海上に放置されたままで何日も港に浮いていた。
この惨状に見かね清水次郎長が遺体を収容し清水市築地町清見寺に埋葬する。
咸臨丸は官軍にだ捕され、明治新政府の配下になる。

明治4年(1871)嵐のため函館港外で座礁、全壊したと伝えられる。
老朽木造船咸臨丸の最期は時の新聞にも報道されず、静かに幕引き迎えた。
最新式蒸気艦で華々しくデビュウーしたものの、晩年は忘れ去れた存在に14年の短い   生涯であった。

咸臨丸は勝海舟が軍艦奉行になる布石でもあった。勝海舟(太平洋横断まで)

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彦五郎の晩年に思う

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この週末、鬱陶しい梅雨も一段落、厚い雲に隠れていたお天道様もようやく顔を出し、ようやく夏らしくなってきた。暑さを演出する油蝉が、この時とばかり騒ぎ、短い命の最後をかざり、仰向けにひっくり返ったのが、多数庭先に落ちている。夏休みとお盆で、両親に手を引かれた小中学生が、此処、本陣に多数みうけらるのもこの時期だからであろう。幕末好きのお父さん、お母さんに連れて来られるのはごく自然であろうが、最近はその逆で小中学生が新選組に興味を持ち、子供の誘いで来る場合もあり、とても頼もしく目に映る。

写真は本陣建屋の南側、中庭に面する「中の間」である。幕末維新の激動時期に日野宿農兵隊や新選組が生れ、内乱の渦に入って行くが、15代将軍慶喜公の大政奉還により、新たな時代を迎えてゆく。彦五郎は維新以降も区長や南多摩郡長を務めるなど公職に携わっていたが、その要職を解かれ、村事と俳句三昧の世界に入り、この「中の間」で悠々と余生を送った。

「行く先は知らねど知れて夏野越」と言う俳句を彦五郎は残している。
死んでから行く先のことまでは知らないが、もうそろそろお呼びがかかる頃だということは判っている。それにしてもこんなに弱った体、よくもまあこの夏の酷暑を乗り越えられたものだ、若い頃天然理心流で鍛えたお蔭かも知れぬ。

とふと廻りを見たら、妻も天然理心流の仲間も、殆ど居なくなってしまった。
彦五郎は自分の人生を振り返って、満足し、ああ~そろそろ、おのぶさんの所、近藤や土方の所へ行けるなあ。言う事を思い浮かべながら、亡くなったのでは無かろうか、折しもお盆の時期、こんな春日庵盛車(彦五郎の俳号)の俳句が浮かんでくる。

因みに彦五郎は明治35年9月、76歳で没している。

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これぞ プロの案内人

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1947年から1949年までの3年間に亘る第一次ベビーブームに出生した世代を「団塊の世代」と指し、厚生労働省の統計約800万人に上ると言われている。
そう言う世代が丁度、定年の節目を迎え、組織の枠から解かれ、いよいよ第二の世界へのデビュウーが始まった。

昨今のメタボ対策やら健康指向とも、併せ、あちこちで歩け歩けが始まったのも一つの傾向である。
余生をたっぷり時間を持つことより、時間をかけた「街道歩き」が一つのブームさえ呼んでいる。現在小職の住む、旧南多摩郡部には、江戸日本橋から下諏訪に繋がる「甲州街道」があり、日にちを別けて、小刻みに街道を歩き、かっての歴史ロマンを確かめながら、完走するものである。
先日、当番で本陣で勤務したおり、クラブツーリズムの一行30人の集団がどどっと来館された。
その殆どが、ン十年前のかってのお嬢様が主体で、真夏の炎天下府中宿からデイーバックを背負い、汗をかきながら、余り効きのない冷房にも、多少の冷気にホットした様子であった。
その群れの中心にハンドフリーのマイクを下げ、引率されている講師に何処かで見かけた御方と思いきや、ちょっと小柄でチャーミングなご尊顔は紛れもなく「紺野 洋子先生」であった。
東奔西走、数泊で京都に廻ったり、このような三多摩地区や江戸にもパワーフルに駆け回っておられ、クラブツーリズムではおそらく何千~のフアンが居られるのでは思うぐらいの人物である。
かく言う小職も2008年大河ドラマに連動し、天璋院篤姫ゆかりの地のご案内が「紺野 洋子先生」であった。

全く何も残されていない皇居で、詳細を語らい、幻の大奥の世界に運んでもらったり。
徳川宗家の菩提寺が何故、増上寺か寛永寺か二つの生い立ちをとうとうと語る奥の深~い話しに、感心させられた。
機関銃のように連射する言葉と早いフットワークに聞き漏らすまいと追いつくのも大変であった。
そんな大先生の前に、これも巡り合わせの偶然に、ご挨拶申し上げたら、あの懐かしい声が返ってきた。これから横山宿(八王子)まで案内されるようであった。
さ~てどんな中身か聞きたかったが、ぞろぞろと集団を引き連れ、甲州街道を西下し、本陣を去って行った。

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八王子城落城と「お十夜」

大河ドラマ「天地人」八王子城落城で大きな節目を迎え、いよいよ天下分け目の関が原に移ってゆく。
北条氏照が当初滝山城を築城し、併せて大善寺を開基する。その後、城を元八王子に移し、八王子城とし、大善寺も一緒に移る。
秀吉の小田原城攻めの時に八王子城は落城し、大善寺は横町(現大横町)に移る。
その八王子城落城の戦死者を弔う「お十夜」が市内の名物行事として、戦中迄で続けられた。

Image211<日野の大昌寺>

落城以降に大善寺の讃誉上人を日野の大昌寺に迎え開山した。
讃誉上人は数年後亡くなるが、日野の大昌寺はご承知の通り、日野宿名主、佐藤彦五郎の佐藤家の檀家寺でもあるが、そのルーツが大善寺と繋がって居る。
そんな背景から八王子の大善寺に併せて大昌寺も毎年10月境内に露店が出るなど賑やかな「お十夜」が行われた。
10数人の僧侶と檀家、信者が集まる中、鉦と太鼓に合わせ「南無阿弥陀仏」を唱え「ウーハイ」という合いの手で鉦を叩き本堂いっぱいに響きわたる荘厳なものであったようである。
僧侶の読経、僧侶の*「華籠(けご)」の散華に集まった人が争って拾うなどの儀式で9時近くまで盛大な「十夜法要」が行われていた。その行事は大昌寺も大善寺と同じように淘汰されてしまった。
*華籠(けご):散華の時に用いる花を入れる器。葬式の時にお棺に入れてやるものとも言われている。

大善寺は昭和38年大谷町へ移っている。
戦国時代、1日で起きた戦いは秀吉の天下統一が加速されるが、八王子城の悲劇は戦中まで、「お十夜」で弔い、市民に語り告げられた行事であったのである。
八王子が落城して10年後が関が原の戦いである。

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