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咸臨丸の生涯

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<咸臨丸(復元船、咸臨丸まつりより)

ペリー来航を機会に急遽オランダに発注し、外輪船主力 の時代にスクリュウーで走る咸臨丸は最新式の軍艦と言われている。
オランダで完成し、日本に送られ、長崎海軍伝習所の練習艦になる。
咸臨丸概略仕様 全長49.7m 幅7.9m 排水量630トン(諸説あるようである)
百馬力の補助エンジンが付いていたが、燃料を大量に積み込めなかったために洋上に出ると帆走することになっていた。
米修好条約の批准書交換のため護衛艦として咸臨丸は幕府木村摂津守、勝海舟らと併せアメリカ海軍の、ブルック船長以下11人が乗り合わせアメリカに向け太平洋横断する。
こうした栄誉に輝いた咸臨丸であった。032800401

<ブルック大尉と佐久間象山、咸臨丸まつり>

しかし運送船に格下酷使して故障が頻発する蒸気機関を取り外され、ただの3本マストの「運送船」に格下げされてしまう。

明治元年(1868)咸臨丸は回転丸に引かれ、榎本武揚らに率いられるて北海道に向かうはずであったが      江戸湾を出航する折りに、外洋で海が荒れ、幕府艦隊はちりぢりになり、咸臨丸は駿州 清水港に吹き寄せられる。 船の生命線たる蒸気機関を外され、自力走行が不可能になり、荒れた海の中、相模湾 に漂い座礁してしまった。知らせを聞いた官軍は清水港に停泊している咸臨丸に戦いを挑み、白旗を掲げ降伏の意志を示す咸臨丸に乗り込み、乗組員を惨殺する。36の遺体が清水港に浮いたと言われ、官軍に弓を引いた賊であるとして後難を恐れ遺体は海上に放置されたままで何日も港に浮いていた。
この惨状に見かね清水次郎長が遺体を収容し清水市築地町清見寺に埋葬する。
咸臨丸は官軍にだ捕され、明治新政府の配下になる。

明治4年(1871)嵐のため函館港外で座礁、全壊したと伝えられる。
老朽木造船咸臨丸の最期は時の新聞にも報道されず、静かに幕引き迎えた。
最新式蒸気艦で華々しくデビュウーしたものの、晩年は忘れ去れた存在に14年の短い   生涯であった。

咸臨丸は勝海舟が軍艦奉行になる布石でもあった。勝海舟(太平洋横断まで)

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