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四谷の寺町に幕末を追う

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<四谷、左門町付近>

JR中央線信濃町から、外苑東通りを北の方向に向かうと左門町交差点に出る。進行方向右側に、車が1台やっと通れる路地にお寺がぎっしりと詰まり、並んで居るのには驚かされる。
正覚寺、顕性寺、本性寺、報恩寺、松巌寺、西應寺・・・勝興寺、ETC未だ未だこの通りに面している。
この夥しい寺群は江戸城西北に外堀が設置され、立ち退きを余儀なくされた麹町地区の寺社群が四谷地区に一斉に集団移転した幕府の江戸城構築の名残である。
左門町、須賀町・若葉二丁目(かつての寺町・南寺町)一帯に寺院が多く見られるのはそんな理由による。
寺院の移転と見附の設置により、四谷地区の様相は一変した。寺院の周辺には門前町屋が軒を並べ、商人職人の活動が栄えた。
そんな奥まった寺町に、都会の喧騒を離れ、幕末の面影が追うのも楽しい。路地の一番奥まったところに勝興寺があり、向かい合わせに西應寺がある。

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<勝興寺>

勝興寺は山田浅右衛門の墓がある。浅右衛門は徳川の御様御用(おためしごよう)と言う、刀剣試し斬り役で俗に"首切り浅右衛門"を代々続けてきた。形式的な世襲ではなく、技術を伴い、当主が役目を果たすかたわら、弟子を育て跡継ぎを選び、継いでゆくもので、その役割から気の重い役回りを明治の始め迄、何と八代まで続いた。

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<西應寺>

西應寺には 幕末から明治にかけて活躍した、「最後の剣客」といわれた榊原鍵吉の墓がある。鍵吉は、幕府講武所剣師範役直心影流の男谷下総守信友門下となり、免許皆伝、更に師範に昇進、元治元年(1864)下谷車坂に道場を開いている。男谷下総守信友は勝海舟と従兄弟にあたり、海舟も男谷の直心影流の門弟の一人である。
鍵吉は、旧幕府軍として上野戦争にも参加している。明治維新では徳川に従い静岡に移ったが上京、撃剣会を発足、衰退した剣術の再興普及に努めた。

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<習成館道場>

左門町の交差点に戻り、外苑東通りを渡ると、ビルになった鞍馬流剣術の「習成間道場」がある。道場には柴田章雄(しばたあきお)氏がお住まいになり、鞍馬流十八代宗家を伝承している。
習成館道場は昭和二十年の戦災で焼失しが、十七代宗家鐵雄が平成元年に同地に再興し、近代的施設設備のもとで歴史ある武芸、鞍馬流の形稽古、研究が盛んに行われ、現代に繋いでいる。
明治時代の初期に習成館道場を開き多くの門人を育てたがその名前は勝海舟が命名したと言われており、此処にも海舟の姿が色濃く残しているのも、意外な発見であった。

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09、四谷・千駄ヶ谷歴史散策」カテゴリの記事

コメント

四谷は仕事でも、プライベートでも良く行く
所なんですが、なかなか「見学」するところが多そうですね。大抵は夜に行くことが多いのですが、今度は昼間訪れてお墓めぐりをしようと思います。

道東の旅のレポも拝見いたしました。
やっぱり「クマ」は出るんですねー。
北海道はまだまだ自然がいっぱいな感じがいたしました。
阿寒湖のマリモはとっても可愛いですね。
以前お土産ですごく小さなマリモを頂いた事がありますが、
あれは人工的に作ったものなんだと思います。
食べ物もおいしそうで、めちゃ羨ましい限りですー。

投稿: ねこ江戸 | 2009年11月 2日 (月) 13時45分

ようこそいらっしゃいました。
四谷のの寺町、見どころ一杯です。
榊原鍵吉は上野戦争にも参加、旧幕府として静岡に行きました。墓は小屋の近く、あることも執念で見付けました。信濃町は創価学会に占拠されてますが、徳川宗家17代、家正の幼少のおりは付近の一角「学寮」で教育を受けたり、坂の上の雲の秋山兄弟が住んでいた屋敷があったようで、そちらの方も併せてどうぞ・・・。
未だ、特定していませんが、武家屋敷の名残があるようです。
道東、大地、動物の触れ合い、食べ物、何回行っても飽きずに、魅力的な場所です

投稿: 隠れ新八 | 2009年11月 2日 (月) 18時30分

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