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念願かなった迎賓館見学

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温かい陽気に後押しされ、赤坂の迎賓館へ向かう。
何時も門前から、遥か遠い幻の建物を見てきたが、何時も門は閉ざされ、一般庶民には遠い存在であった。今回、天皇在位20年をお祝いして、前庭の特別公開が日にち限定であり、これを逃しては見る機会は無いと、何はともかく行かねばと駆り立てられた。新聞紙上にも大きく取り上げられた前宣伝効果もあってか、平日にも関わらず四谷駅から迎賓館へ向かう群れ衆が一杯で、特に見物欲旺盛な群れを組む、おばさん族が取り分け多い様に感じられた。
門の前ではガードマンが群れなし、行列を作り、間引きしながら入場させていたが、園内を前に瞬く間に入場待ちの行列が生れ、改めて関心の深さ、見ておきたいと言う衆で一杯になってしまった。
門を潜ると、持ち物検査、金属探知機のボデイー検査と目の前の迎賓館の中庭に入るだけで、厳しい検査の洗礼受けて晴れて門を通過して、初めて中に通される厳重な警戒振りであった。
中庭にはロープが張られ、要所に動員された係員が立っており、会場内は数人のガイドが説明しているが人垣の渦が出来、中々聞き取りにくい。
ロープ際に立つ女性の係員に、渡されたパンフレットの表記された部屋と実際の位置関係を訪ねたら、口ごもり、挙げ句の果てセキュリテイの関係からお答え出来ませんとのことであった。
会場に説明するガイドはしっかり説明しているがと、問いかけるといやな親父にからまれたとばかり、渋々と応える始末に、何とも見下したお上の姿を見るようであった。

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元々徳川御三家の一つ、紀伊殿(紀伊和歌山藩)の広大な中屋敷で、紀州徳川家の江戸中屋敷、天璋院篤姫江戸城から移り住んだ屋敷の一つ。
中屋敷は、明治維新後に天皇家に献上され、都心の中で数少ない自然が残された一つである。
丁度日露戦争の最中、明治32年から42年、10年間の工事もかかって完成した東宮御所である。
大正天皇の皇太子の時の住まいである東宮御所であったが結局、使われなかったと言われるが何とも勿体ないことである。
片山東熊(とうぐま)の総指揮にのもとに、当時の一流建築家や美術工芸家が総力を挙げて建設したものである。
片山がベルサイユ宮殿、ルーブル宮殿、バッキンガム宮殿、ウイーンのシエンブルグ宮殿などヨーロッパの様々な宮殿を見て、その要素を取り入れている。正面が玄関であるが、左側が皇太子殿下のプライベートな入り口で右側が妃殿下の入り口である。

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玄関の天井部は日本のデザインと伝統文化を表した鎧兜(よろいかぶと)。左右の天球儀はアメリカ的デザインと、一つ一つが微に入り、細に渡り、精巧に作り上げたモニュメントをふんだんに組み上げ、まさに豪華絢爛な世界であった。昭和になって迎賓館として使われるようになった。
手入れの行き届いた庭園と贅を尽くした壮麗なネオバロックの建物の前に夢物語の世界に漸く近づき興奮した1日でもあった。

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信濃町歴史散策

JR中央線信濃町駅から外苑東通から東側の路地に入ると、完全に創価学会の町になっている。
創価学会、創価文化会館、創価女子会館とそれに類する外郭団体が続き学会のメッカである。
今尚、周辺は創価学会施設の建設ラッシュが続き、創価学会の隆盛を誇っているが、本部の東側の一画が約2000坪の旧徳川家の学問所のあったと言われるが、街の大きな変容振りに、その面影を辿るのは難しくなってしまった。

Img00006211111 <左から家英、家達、家正の徳川宗家3代。実に良く似ている>

天璋院や徳川宗家16代徳川家達ら一族が住んでいたのが千駄ヶ谷の徳川邸であった。明治16年に天璋院が亡くなり、翌明治17年家正が誕生し、徳川宗家17代となる。
当時の武家華族の習慣として、男子は7歳になると親元を離れ、学問所「学寮」を呼ばれる家に移り、此処を本拠として学生生活を送る。
廻りは殆ど野菜畑で南東の隅にはテニスコートがあり、宗家17代の家正公がラケットを持ち、走り廻ったと言われている。学習院から東京帝国大学法学部、同大学院を経て外交官として華麗なエリートコース歩まれる。天璋院の遺言で「家達の跡取りが生れたら島津から嫁をもらうように」と言われ薩摩藩29代藩主島津忠義の9女正子を花嫁として迎える。
因みにこの結婚は姑の徳川家と嫁の薩摩に対する感情的なしこりは残され、嫁姑、親子関係にも溝が生れるなど必ずしも上手くいかなかった。徳川と薩摩の深い溝が、埋まらず天璋院の意のままに成らなかったことを天の上で恐らく悔やんだ事であろう。

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<聖教新聞社本社が面する路地>

北側、四谷三丁目側に向かうと聖教新聞社本社が面する路地に出る。
此の路地の一画が明治・大正・昭和にかけて文筆活動を続けた「長田幹彦」の邸宅であった。
石壁に囲まれた邸宅で、この辺りは戦災にあわず、周辺は戦前からの建物がそのまま残されていた。
その長田邸の先住者は、バルチック艦隊を日本海で迎え撃つ歴史的な日本海海戦の旗艦三笠で活躍した軍人「秋山真之」である。
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<秋山真之>

日本海海戦の折り旗艦三笠から高々と掲げたZ旗は「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」の起草者、名軍令部長と言われた「秋山真之」中将であった。
無骨、冷徹な軍人のイメージから、海軍切っての名文家と知られる逸材であった。
日清、日露戦争の戦役前後には兵站基地として青山の練兵所共合わせ信濃町駅が役割を担ったのであろう。
そんな背景から高級軍人の邸宅が多数在ったと言われている。
幕末中心の司馬遼太郎作品が次々と大河ドラマ化される中にあって、現代史の「坂の上の雲」は問題をはらみ実現しなかったが、スペシャル番で遂に放映されることになった。
当ブログで「四谷の寺町に幕末を追う」を書いたが、その左門町は直ぐ隣接している。信濃町から左門町へ手短な歴史散策として楽しめる。

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