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[坂の上の雲」と日清戦争

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<興礼門(フンレムン)>

「坂の上の雲」のドラマもいよいよ日清戦争に突入する。日清戦争というと日本と中国の対決がクローズアップされるが、戦場は朝鮮半島だった。
朝鮮半島と言うと、ン十年前になってしまうが、輩の仕事も同地には深い関わりを持ち、何十回か往復し、長い時は半年近く、建設業務で一冬を越してしまったこともある、第二の故郷でもある。
昨今の韓流ブームに「大長今」に夢中になり、そのドラマに背中を押され、かみさんとソウルに行ってしまった。
その観光名所の一つが忘れもしない「景福宮(きょんぼくぐう)」と言う荘厳で華美な王宮であった。
明治27年(1894)7月、日清戦争は事実上ここから始まった。日本軍の一団が「景福宮」の門に爆薬で破壊を試みたが失敗した。門によじ登り斧で叩き、四苦八苦しながら破壊し、乱入する。他の門も開け、王宮を守る朝鮮兵たちと約3時間余りの、銃撃戦で王宮を制圧した。
王宮占領は日本に取って思い通りにならない偽政者をとりかえさせ、清国の軍隊を朝鮮から追い出してくれと日本に依頼させるためであった。
当時、お上に反旗を翻す東学を奉じる農民らの「世直し運動」に手を焼いた朝鮮政府は宗王国の清国に出兵を頼んだが、そこで日本も兵を送り込んだ。武装蜂起した東学農民は日清の動きを見て朝鮮政府と手を打ち、騒ぎを納めたが日本軍は引かなかった。2日後に仁川に近い豊島沖で日清の海戦が始まる。
日本軍は王宮占拠に留まらず清国軍と戦う一方、東学農民軍を殲滅にかかる。
日本政府内では慎重論の多い中で主導したのがドラマでも登場した外相の「陸奥宗光」であった。こんな背景からドンドンと深みにはまってゆく。
「景福宮」の戦いが謂わば日清戦争の始まりでもあったが、偶発的な小競り合いとされ、日本軍の公式戦史にはなく、真実は闇に葬られた。しかし、奈良女子大の中塚明名誉教授が福島県立図書館で詳細な戦史草案を見いだし、百年の後に世に問うたと言われている。

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<明成皇后遭難の地>

一方「景福宮」の敷地内には暗殺された皇后の碑がある。

1895年、乾清宮で明成皇后が殺害される乙末(ウルミ)事変が発生した。当時、日本は日清戦争後ロシア、ドイツ、フランス三国の干渉により、領有権放棄し日本の威信は失墜すると共に、朝鮮内における日本勢力の後退を意味していた。そんな背景の中、政治の実権を握り、親露政策を推し進めていた李氏朝鮮国王の高宗の王妃明成皇后に不満を持つ者や「三浦梧楼」が指揮する日本軍・日本人壮士によって暗殺したのである。
無惨に殺害された場所に「明成皇后遭難之地」と言う、碑が建つ。「三浦梧楼」は長州出身で戊辰戦争では寄兵隊で参戦、維新後は西南戦争に参加したバリバリの軍人である。

詳細は此処で紹介してます。韓国最大の古宮へ , 

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「どうだんつつじ」と「壺伊勢屋事件」

Img_72461111 <日野宿本陣の中庭>

本陣の植木の一つで玄関口の植え込みの満天星(どうだん)つつじは秋口の紅葉時期にご覧のような真っ赤な色合いとなり、丸で垂れ幕を掲げたようで、目を奪われるそんな輝いてる期間は限定されているが、普段、近くに居るが、見事な紅葉の色模様は正に感動ものであった。
もう後、半月で今年も終わってしまう。

押し迫った慶応3年(1867)12月15日此処、日野宿問屋兼帯名主の「佐藤彦五郎」に討手方手配命令が江川代官から下り、日野宿から「彦五郎」以下6人の天然理心流の門弟が隣の八王子宿の旅籠へ踏込み「壺伊勢屋事件」が発生する。
当時、三田の「御用盗」と言われた薩摩浪士が乱暴狼藉を働き、遂に江戸城西の丸を炎上させてしまう。そんな折りに浪人12人が組み、関東諸村を徘徊し、押仮り軍用金と称して脅迫していることを察知し、代官「江川太郎左衛門」が、その浪人の徒に間諜(かんちょう)を入れ捕縛の機会を狙っていた。
その日野宿からの一行が八王子宿に廻り、「壺伊勢屋」に踏込み、泊まった浪士達と激しい戦いが繰り広げられる。
浪士側は2人死亡、1人重傷を負い、残りは窓から逃げるが、千人同心らに寄って取り押さえられる。
一方日野宿側は「馬場市次郎」が先頭に立ち、階段を駆け上がるところ壁際に身を潜めた浪士が6連発の短筒で一斉射撃し、最初に踏み込んだ「市次郎」は浪士の短筒に討たれてあえなく即死する。彦五郎の本陣長屋に住む岡引「山崎兼助」が背中を討たれ、重傷を負うが翌々日亡くなる。
浪士として捕らえられた浪士の一人は後の新政府の内務大臣となる要人の一人となった「内海忠勝」である。

亡くなった一人「山崎兼助」はこのつつじの植え込み近くの長屋に住み、「馬場市次郎」とも一緒に「大昌寺」に埋葬された。
「市次郎」は馬場家の墓にあり、墓誌に生々しい事件当日の日にちが、読みと取れる。一方「兼助」の墓石は梅の樹の近くに埋葬されたと言われているが、その所在は判らなかった。一緒に住んでいた家族は居なくなってしまい、無縁になってしまったのであろうか・・・。

攪乱戦術に幕府は遂に治外法権であった三田薩摩藩邸の焼討を敢行する。形だけでも天皇を抱え込んでいた薩摩藩に向かって幕府が発砲したことから薩摩藩は「朝敵幕府を追討せよ」と討幕の口実を手中にし、これが戊辰戦争の口火になってしまった。

詳細は壺伊勢屋事件

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「坂の上の雲」と「近衛師団」

いよいよ、「坂の上の雲」が放映された。
秋山好古が陸軍大学校時代にコルーマン髭のドイツ軍人で教官の「メッケル」が教壇に立ち、強国となった背景に近代兵学を教える如何にも厳格な教育姿が見られた。好古はフランス留学が決まった旧松山藩主久松家の若殿に帯同してとともに渡仏することになり、フランス仕込みの騎兵を学ぶ。
そんな好古であるが阿部寛に置き換えるようにかなりの男前であった。
風貌は当時では日本人離れした長身で色白、大きな目であり陸軍大学校時代はその厳めしい教官のメッケルから、ヨーロッパ人に間違えられた言わしめるほどであり、故郷の松山や留学先のフランスでは女性にかなり人気があったようである。

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<旧近衛師団司令部>

一方、明治政府は、政府直属の軍隊である「御親兵」を創設しこの御親兵は、「近衛兵」として改組され、平時は天皇や皇居の警護などに当たり、戦時には戦線に参加する。徴兵令で集められた鎮台兵を配下に、近衛歩兵大隊を基幹として近衛歩兵連隊が編成される。
好古は日露戦争など輝かしい功績から13代目の近衛師団長となる。

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<北白河宮能久親王>

因みに近衛師団長2代目は北白河宮能久親王である。親王は上野の寛永寺に入り通称「輪王寺宮」として上野戦争に巻き込まれた彰義隊の盟主に、更に彰義隊敗北により東北に逃避、仙台藩に身を寄せ、奥羽越列藩同盟の盟主になる。幕府敗北した維新に蟄居を命じられ、その処分後、伏見家に復帰、更に北白川宮家を相続する。
プロイセンに留学し、陸軍に身を置き、陸軍中将となり近衛師団長として台湾でマラリアに罹り、死去する。という劇的で数奇な運命を辿っている。

旧近衛師団司令部は北の丸の一画に現東京国立近代美術館工芸館で、明治を彷彿させる姿が残されている。
その近くに北白河宮能久親王の乗馬の雄姿がある。
このように戊辰以降の姿がこの建物、銅像に繋がり、その歴史事実を「坂の上の雲」が呼び起こしている。

詳細は旧近衛師団司令部で掲載されている

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