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「どうだんつつじ」と「壺伊勢屋事件」

Img_72461111 <日野宿本陣の中庭>

本陣の植木の一つで玄関口の植え込みの満天星(どうだん)つつじは秋口の紅葉時期にご覧のような真っ赤な色合いとなり、丸で垂れ幕を掲げたようで、目を奪われるそんな輝いてる期間は限定されているが、普段、近くに居るが、見事な紅葉の色模様は正に感動ものであった。
もう後、半月で今年も終わってしまう。

押し迫った慶応3年(1867)12月15日此処、日野宿問屋兼帯名主の「佐藤彦五郎」に討手方手配命令が江川代官から下り、日野宿から「彦五郎」以下6人の天然理心流の門弟が隣の八王子宿の旅籠へ踏込み「壺伊勢屋事件」が発生する。
当時、三田の「御用盗」と言われた薩摩浪士が乱暴狼藉を働き、遂に江戸城西の丸を炎上させてしまう。そんな折りに浪人12人が組み、関東諸村を徘徊し、押仮り軍用金と称して脅迫していることを察知し、代官「江川太郎左衛門」が、その浪人の徒に間諜(かんちょう)を入れ捕縛の機会を狙っていた。
その日野宿からの一行が八王子宿に廻り、「壺伊勢屋」に踏込み、泊まった浪士達と激しい戦いが繰り広げられる。
浪士側は2人死亡、1人重傷を負い、残りは窓から逃げるが、千人同心らに寄って取り押さえられる。
一方日野宿側は「馬場市次郎」が先頭に立ち、階段を駆け上がるところ壁際に身を潜めた浪士が6連発の短筒で一斉射撃し、最初に踏み込んだ「市次郎」は浪士の短筒に討たれてあえなく即死する。彦五郎の本陣長屋に住む岡引「山崎兼助」が背中を討たれ、重傷を負うが翌々日亡くなる。
浪士として捕らえられた浪士の一人は後の新政府の内務大臣となる要人の一人となった「内海忠勝」である。

亡くなった一人「山崎兼助」はこのつつじの植え込み近くの長屋に住み、「馬場市次郎」とも一緒に「大昌寺」に埋葬された。
「市次郎」は馬場家の墓にあり、墓誌に生々しい事件当日の日にちが、読みと取れる。一方「兼助」の墓石は梅の樹の近くに埋葬されたと言われているが、その所在は判らなかった。一緒に住んでいた家族は居なくなってしまい、無縁になってしまったのであろうか・・・。

攪乱戦術に幕府は遂に治外法権であった三田薩摩藩邸の焼討を敢行する。形だけでも天皇を抱え込んでいた薩摩藩に向かって幕府が発砲したことから薩摩藩は「朝敵幕府を追討せよ」と討幕の口実を手中にし、これが戊辰戦争の口火になってしまった。

詳細は壺伊勢屋事件

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