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惹きつける「おりょう」さん

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<30才頃の新たに発見された写真、井桜直美氏所有>

2001年新たな「おりょう」写真が発見と言う衝撃的な新聞記事が発表され話題を呼んだ。「そんな写真が今頃と?」半信半疑の感想がよせられたが、京都国立博物館で特別展示した時には1カ月で3万人弱という、入場者を迎え、その反響は大きかった。

写真の出所は京都国立博物館の宮川楨一氏が従来の「おりょう」写真を調べていたところ京都河原町の大型書店で井桜直美著「セピア色の肖像」の中にこの新たな写真が見つかり、仰天した。井桜氏に確認したが、出所は不明であった。しかし、従来有る井口家アルバムの写真と、新たな発見写真は着物の柄、髪形から、同日、内田九一撮影と同じ日に撮られていることが明白である。更に写真の裏面に「たつ」と記されている。

撮影背景を以下のように推定している。
慶応3年(1867)「竜馬」の死を下関で聞き、土佐、そして京都で暮らし、「龍馬」の墓を守った。明治5年(1872)弟を連れて東京に出た時に「内田九一」写真館で撮影した。

唯一、「おりょう」の容姿を中条仲子が以下のように伝えた。
「明治元年頃、「おりょう」は28才の女盛り、どちらからと言えば小形の身体に渋好みの衣服がぴったり似合って、細面、瓜実(うりざね)顔、色はあくまで白く、典型的な京美人であった。
正に左の写真とそっくりである。しかし、出所不明で研究者やファンの間でひろく議論を呼んだが、この写真を否定することもあっても肯定することは難しかった 。

2008年5月に警察庁の科学警察研究所が信楽寺にある、おりょう本人と確認されている晩年の写真とこの写真を比較し科学的な面からメスが入れられ。 「同一人物の可能性が高い」との鑑定結果を発表した。

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<;信楽寺にある、おりょう本人と確認されている晩年の写真>

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鑑定を依頼した高知県立坂本龍馬記念館では、森健志郎館長が「科学的な鑑定で、あいまいな推測から一歩進んだ。おりょうの可能性が高まった貴重な結果だ」と喜んでいる.。
以上のことから、ようやっと新しい写真も市民権を得た。

先日、横須賀に行き信楽寺に御参りに行ってみた。信楽寺の案内板にも.人を惹きつける、新しい写真が飾られてあった。

「おりょう」さん自身が、どう感じられたであろうか?、両方の写真を比較し、素人目にも、二重まぶた、耳、あごの部分がそっくりに見える。

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「伊藤博文」と「安重根」

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<韓国独立運動家「安重根」>

「坂の上の雲」で俄に旅順がクローズアップされる。
明治42年(1909)10月26日現中国東北部のハルピン駅頭で訪れた明治の元勲で初代韓国統監であった「伊藤博文」が射殺された。犯人は北朝鮮・海州(へじゅう)生まれの韓国独立運動家「安重根」(アン・ジュングン)であった。
「安」は捕まり、旅順監獄に収監され、1910年3月1日に絞首刑にされた。「安」が処刑される直前に獄中で書いたと見られる「独立」の遺墨が有名でこれまで、韓国始め、日本にも複数見付けられている。
「独立」の遺墨は「安」の思想の中核を表したもので朝鮮半島の民族的英雄とも言われている。

Koreaa32 <「独立」の遺墨>

「安」の遺墨は「独立」と横に書かれ、その左側に「甲戌(こうじゅつ)二月 於旅順獄中 大韓国人安重根」とある。「甲戌」は安が処刑された年の1910年を指す。
「安」の遺墨の特徴は署名の下に押されている墨の手形である。
左薬指は抗日を誓って同志と「断指同盟」を結成した際に第一関節で切断されたため、小指と同じ位の長さになっている。血判書は見るが、「断指」の生生しい姿は、その思い入れの強さの現れである。

ン十年前のことであるが、私が初めて韓国に行ったおり、たまたま起きた事件がきっかけにこの遺墨の思わぬ出会いがあった。

忙しい仕事の中、休みはしっかり取れた休日に言葉もままならない無謀な鉄道の一人旅で、不覚にも不正乗車で取ッ捕まってしまった。当初は居丈高の犯罪者扱いであったが、どうも購入した切符が、謝って購入したことで、特に他意のないことが判明し、無事嫌疑が晴れた。そればかりか、駅長室では茶のサービスまでの持てなしに甘んじ、一外国人として丁重に扱ってくれた。

その、長くて拘留された駅長室に掲げてあったのが「安重根の遺墨」であることを駅長から教えてもらった。
当時、歴史に無頓着であったので、「安重根」も全く判らなかったが、後で気心の知れた韓国人スタッフにこの話を伝えた。スタッフからこのような遺墨を掲げる、駅長は安重根を民族的英雄として讃える代表的な抗日家の一人であること、教わり、思わず身震いさせられた。
安重根が絞首刑された 三月一日はサムイル節として、抗日独立運動に命を捧げた記念日として祭日になっている。
当時、我々日本人スタッフも一緒に仕事を休み思わぬ韓国の祭日を甘受した。しかし国民感情が悪い中、安重根を讃えるこの民族的祭日は、日本人が悪感情のターゲットになっていた。外の食堂もトラブル回避ともあって「日本人お断り」の張り紙さえ貼られるなど、外部、取り分け繁華街は出られず、宿舎でおとなしく、固まっていた。

この日に限って、サムイル節は日本人とって、居心地の悪い一日でもあった。韓流に沸き返る今日、日韓を往復する交遊は深まるが、忘れられない一日であった。

当時のことを此処で紹介してます韓国プラント建設回想記

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薩摩・紀州 ・多摩郡の剣士集結

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あっと言う間に正月も終わってしまった。
「お屠蘇モード」から「仕事モード」へ拝を除いて、それぞれスイッチを切り換えて、新しい時代に向かって、敢然と立ち向かう時期である。
そんな折りに市内の無銭(無線)仲間4人で、今や発展の象徴で輝いてる立川の「がんこ」で新年会を実施した。
集まるのも家の主として孤高な「がんこ親父」も居れば、結集するのも「がんこ」で相応しい場所であろう。
こたつ部屋形式の個室に外部からの雑音もなくひざつめて談笑しながらの宴会は居心地の良い場所である。
しかし、人気の高い店だけに、確保出来るのも2時間ぴったり、時間が経つとさっさと追い出される。
そんなこともあって、時計を見ながら、先ずは寡黙に目の前のコース料理を食らいつき、パカパカ飲みまくる。
宴もたけなわ、程よく、酔いもまわったころ、それぞれ話が弾み、気炎が上がったのが、自然とそれぞれの出自の話しで盛り上がった。
仲間の一人目の剣客は幕末時期に討幕の活き上がる、薩摩出身で、酒の酔いも廻ってくると、言葉の端々に男ぽい薩摩の言葉が、出てくる。
曰く身分階級の世界は「竜馬伝」の土佐藩の世界に止まらず、薩摩も同じであったようで、さしずめ、身分の高い位置のご先祖であったようである。島津斉彬の国際化の夢を繋ぎ、ローハイドで有名なテキサスで10年在住された、バリバリの国際人であるところが流石凄い。
次いで二人目の剣客は徳川宗家に世継ぎの御三家、水戸・尾張・紀伊の紀伊地方の出身であった。計算だかい関西商人とは違って持って生れた本人の性格と恵まれた育ちからであろうか、武士の風格さえ感じられる。
せかせかしないおっとりした感じは豊かな財力の基盤を背景に、御三家を思わすような感じがする。
一方では立志伝に燃え、幕末の志を持つ様な気風で紀伊から江戸に出て戦う、外国系の技術者である。
そして三人目は今をときめく「竜馬伝」で出てくる岩崎弥太郎が起こした大財閥の企業に身を置くバリバリの某電機会社に勤める技術者である。
出生地は近藤勇の生家、武州多摩郡上石原村近くの産で宮川家に親戚縁戚を持つ、孤高高い人物であると言われるが、果たして先祖は名の通った剣士であったか、判らなかった。昨年は宮川宗家のお願いなど1年あまりの苦労を共に、多摩の母校の同窓会に天然理心流の演武披露を実現したことなど。
話題に尽きない、凄い逸材の集まりである。
当然のことながら140~150年前なら、「討幕」か「佐幕」か血気にはやり、至近距離からたちまち刃の向け会い、斬りあいに血の海の世界であったかもしれない。
そこまでタイムスリップせず、歴史の蘊蓄(うんちく)を語りあい、ささやかな平和な確かめ会う一時であった。
燃え上がる浪士も時には、企業戦士として第一線の戦いに疲れ、酔いと談笑の心地よい響きに、何時の間にか子守歌の世界に入ることさえ過去にはあった。
そんな姿に「あ~あ、疲れているんであろうな」とも冷やかし、勿論、後々の酒の摘みのネタになってしまうので名うての剣士の薩摩・上石原村はちょっぴり身構え、酒量は控えめの姿勢は貫いていた。(可哀相)
そんな話しに何処の馬の骨か、判らぬ水飲み百姓の小生はただただ関心して聞くだけであったが、実に楽しい宴席である。
集結した4人の浪士、流石、チョンマゲは無かったものの、武士の嗜み、何時も、何処でも、肌身はなさず、腰に帯刀に非ず、無線機を下げて、馳せ参じる者も居れば、勿論水飲みの身分は丸腰での参画であった。
あっと言う間の楽しい2時間であったがやはり、収まりが付かず、場所を変えて2次会席へ。
「討幕」でも「佐幕」でも、桜の咲くころ、平山城址の桜の木の下でまた果たし合いを約束して散会した。

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龍馬・岩崎弥太郎と岩崎邸

Img_38861_2来年(2010年)は大河ドラマでいよいよ坂本龍馬の出番である。
同じ土佐藩出身で幕末から維新にかけ、海運で時流に乗り、財をなし此処旧岩崎邸を建てたのは岩崎弥太郎であった。大河を意識にするには未だ早いが、4月の休日に館内は大変な混みようであった。

岩崎弥太郎は、土佐藩の貧しいゆえに郷士の身分を他人に売り渡して、浪人となった地下浪人である。
幼い頃から文才を発揮し、漢詩を披露し才を認められる。
吉田東洋が開いていた少林塾に入塾し、弥太郎の生涯に大きな影響を持つ後藤象二郎らと知り合う。東洋が土佐藩に参政するが、この機会に弥太郎も土佐藩に仕える。
慶応3年(1867年)後藤象二郎により起こした藩の商務組織「土佐商会」に席を置き貿易業務を従事する。土佐商会は九十九(つくも)商会と改称、弥太郎は海運業に従事し、更に「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立する。この時、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせて三菱のマークを作った。
維新政府が樹立され全国統一貨幣制度に乗り出した時に、十万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。後藤を通じて新貨幣制度を事前に知る立場を巧みに利用した現代のインサイダー取引を行うなど、持ち前の才覚と一方では政商として暗躍したドロドロとした面も持ち合わせる。
こうした資金を背景に海運業は上手く廻り、至近国家の近代化、共併せ大型蒸気船による海運事業に新時代の物流を支え、航路は国内に留まらず朝鮮半島や中国大陸にも広げ、三菱の基盤を築きあげた。Img00006

同じ土佐藩出身で保守的な土佐藩の殻を破り、藩を海運から貿易に目覚ますきっかけを生んだのは坂本龍馬であろう。龍馬は長崎で海援隊を組織し物産・武器の貿易を行い、長崎のグラバー商会から買い付けた銃器弾薬を長州藩に転売することに成功した。一方では薩長連合を生み、討幕のうねりを起こし、倒幕後は貿易と海運による立国の夢にかけたが、龍馬は志半ばで凶刃に倒れる。
「貿易と産業の振興が、これからの時代を担うものだ」という龍馬の遺志は弥太郎が継ぎ、成功したのでは無かろうか・・・。
しかし、司馬遼太郎の「龍馬がいく」の中で、龍馬は、弥太郎を「好かなかった」と書いている。
海運はひたすら国のためとする龍馬には、上述の商才に走り資産を成す弥太郎の姿は、受け入れ難いものではと思える。西南の役に伴う物資輸送や明治政府の国策に、いち早く対応し、さまざまな事業を展開して財閥を形成していった。それによって得た財の象徴が、この大きな屋敷と、コンドルの建てた邸宅である。
弥太郎が用意したこの広大な屋敷は明治29(1896)年に完成したが、弥太郎は完成を見る前に明治18(1985)年に亡くなっており、当主は長男久弥の代となっていた。
三菱の事業は、弟の弥之助、そして久弥と継承され、発展していった。
日本政府の招聘により来日した英国人ジョサイア・コンドルの設計によりもので、木造2階建て・地下室の洋館で、本格的な洋風建築。明治期の上層階級の邸宅を代表する西洋木造建築である。
装飾品等々素晴らしい建物ではあり、取り分け2階のピンク色の洋室は豪華なカバー和紙(金唐革紙(きんくらかわし))を使い、時価1億2千万円と言われ、度肝を抜く。地下の多数の柱は耐震構造(非公開)で、大半の構造物が崩れた去った関東大震災もくぐり抜け、今日まで生き残った所にジョサイア・コンドルの心ゆきが感じられる。

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南側に用意されたテラスには3ッの押しボタンが用意され、それを押すとビールが届けられると言う、庭先を眺めながら、自然の冷気を感じ、リッチな気分でビールの味も格別と思われる。

その豪華な建物とそこで住んだ末裔達の暮らしぶり。そこを舞台に戦後に起きた謎めいた事件など興味は尽きないが此処で紹介する。

旧岩崎邸

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龍馬・岩崎弥太郎、二人が追ったロマン

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<旧 岩崎邸>

大河ドラマでいよいよ「坂本龍馬」の出番である。
昨年(2009年)4月に当ブログで書いた「龍馬・岩崎弥太郎と岩崎邸」記事が異常な反応を示し、たちまち200ヒット/1日と凄い閲覧があり、改めて「龍馬」人気の高さ・凄さを思い知らされた。
「龍馬伝」で登場する「岩崎弥太郎」役は暮れに放映されたスペシアルドラマ「坂の上の雲」で「正岡子規」役を演じる香川照之で、あの独特の風貌がそのまま「弥太郎」になっており、年末、年始を通じて登場する今や引く手あまたの俳優さんである。

ドラマで紹介された土佐藩の貧しいゆえに郷士の身分を他人に売り渡して、地下浪人(しけろうにん)になった「岩崎弥太郎」は鳥籠を売り歩き農民からもさげすまされる貧しい暮らしをしていた。
取り分け土佐藩には人間性を全く無視した上士(じょうし)・下士(かし)の厳しい階級制度が支配し、下士の「坂本龍馬」や地下浪人の「岩崎弥太郎」は屈辱的な差別の中で暮らさねばならかった。
そんな「龍馬」は剣術の腕を磨き、「弥太郎」は学問を学び、それぞれ将来に夢をかけた。
同じ土佐藩出身で二人は保守的な土佐藩の厳しい階級制度・身分制度など、思い切り虐げられた鬱屈したエネルギーが爆発しそのまま立身出生の道を開いたのでは無かろうか。
在来の殻を破り藩を海運から貿易に目覚ますきっかけを生み「龍馬」は貿易と海運による立国の夢にかけたが、志半ばで凶刃に倒れ、夢とロマンを追いかけ散ってしまった。
一方で「弥太郎」は幕末から維新にかけ、海運で時流に乗り、現実的な生き方で財をなし三菱財閥の根源を生む、名門の岩崎家を彼の世代で創設した。

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<洋館の南側、テラスと広々とした庭>

その象徴の一つが今日残す旧岩崎邸であったりする 。
二人の立身出生のサクセスストーリは「龍馬・岩崎弥太郎と岩崎邸」で書いたつもりなので、重複するので改めて書くつもりはないが、結果的には「夢・ロマン」を追っかけ、今日の海運・産業の広い分野での基礎作りであったと思われる。
今日、隆盛を誇る三菱も裾野は広く、知人の一人も電機の関連で現職で頑張って居られ、人一倍関心がある旨語っていた。三菱の原点は「鳥籠売りから」に始まる物語に恐らくグループ全体でも、話題の多い作品である。
歴史的遺産として建物と其処で暮らした一族。戦後の建屋で起きた謎のスパイ事件など興味に尽きない。

其の「弥太郎」の遺志を伝える重要文化財旧岩崎邸はこちらで紹介する。
旧岩崎邸

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