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海運史を飾る浦賀

Image1       <浦賀の燈明堂の浜付近で船舶を見る>

ドラマの進捗が2回目のペリー来航に併せ、「龍馬」が再び土佐藩の下屋敷の警護のために動員される。
日本中に夷人(外国人)をしりぞける攘夷活動が活発になる中、桂小五郎は「龍馬」を呼び出し、「吉田松陰」を探しに出る。
ストリーは「龍馬」と「松陰」の出会いが生れるが、果たして出会えたのだろうか?
「龍馬」が生涯を通じて大変大きな出来事として、姉の乙女さんに宛てた手紙の中にあると思う筈であるが、判然としてない。
まあ、それはともかくとして、人一倍、好奇心旺盛な「松陰」や「佐久間象山」が最初に見た黒船が大きく心揺るがし、純粋で一縷な気持ちを、海の向こうの世界に駆り立てられたのであろう。
最初の黒船来航時は浦賀の割烹旅館「徳田屋」へ江戸を始め各地から駆けつけた見物客で、ごった返し満室となり廊下にまで溢れたと言われているが、神田お玉ケ池の「象山書院」から駆けつけた早耳の「象山」が一番乗りだったようである。
後から駆けつけた「松陰」も「徳田屋」で合流し、「象山」らと膝を交えて、未だ見ぬ黒船を前に、未知の文明世界に耳を傾け語りあったのであろう。
浦賀港は深い入江にあり、それを挟んで東西の浦賀町があるが、それを結ぶ小さな渡し船 「横須賀市道2073号線」がある。
その船着場近くに、「徳田屋」があった。幕末から明治、大正まで在ったが、関東大震災で潰れてしまい、徳田屋跡碑だけが、当時の姿を僅かに語り継いでいる。前述の「松陰」や「象山」も此処を利用したが、桂小五郎などなど武士や文人などが必ず訪れた由緒ある旅館である。

その入江の先が平根山でトンネルを通じて海岸沿いに燈明堂の浜に出ると、外海に出る。天気がよければ向かい側の房総半島が確かめられる。その沿岸部に数隻の黒船が現れ、砲声を轟かせ、「松陰」や「象山」も身体を震わせながら、目の前の姿と音に衝撃的な対面をする。

04290056>       <大勢の幕末の志士達で賑わう咸臨丸祭り>

浦賀にはせんさく好きで、最初に黒船に乗り込んだ男として「中島三郎助」がいる。根掘り葉掘り聞きまくり、アメリカ人には煙ったかれたが、その旺盛な探究心から日本で最初の洋式帆船「鳳凰丸」が生れ、建造の主任技師として活躍した。
「三郎助」は「勝海舟」・「榎本武揚等」と共に、長崎の海軍伝習所に派遣され、海軍士官として修業と造船技術を身につけ、江戸海軍操錬所教授方として海国日本の造船・操船の第一人者、礎を築いた先駆者である。
「三郎助」は幕臣として意志を貫き戊辰戦争で旧幕府軍として参加、函館で子供達と三人一緒に戦死しており、浦賀港を見渡せる東林寺に眠る。

華やいだデビューを飾った、最初に太平洋を横断した咸臨丸はこの浦賀から出航している。この咸臨丸の渡航を前に「勝海舟」は此処で断食したと言われる。
過酷な冬の太平洋を始めて航海するに当たって、舟玉明神を祀る「叶神社」に航海の安全祈願をしたその碑が建っている。

幕末の海運史はまさに浦賀から起きており、沢山の人物が此処で関わっている。浦賀ドックを含めた街ぐるみ、海運の歴史にたっぷり浸る事が出来る、大好きな街である。

そんな姿を三浦紀行で纏めてみた 。

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龍馬と黒船

Image111                                                          <龍馬像>

「龍馬」は、嘉永6年(1853)3月に土佐藩を後に剣術修行の江戸に着くが折しもペリー艦隊が浦賀へ、更に羽田沖までに侵入する。
幕府より各大名へ湾の警護を命ぜられ、土佐藩は立会川川口付近にあった土佐藩の下屋敷(現品川区大井)警護のために砲台を設置する。江戸詰の武士を含め一兵卒だった「龍馬」も動員される。黒船は砲台から約6㎞、望遠鏡によって確認出来る距離まで近づいた。
翌年、ペリー艦隊7隻が再度、浦賀へ来航し、ワシントン・バースデイの祝砲を放ち、「龍馬」はこの地鳴りのような轟音を浜川砲台で聞いている。
この煙を吐きながら疾走する異様な船影と砲の威力の衝撃的な出会いに、「龍馬」は驚き、江戸市民を恐怖のどん底に陥れ戦々恐々とする。「龍馬」はもとより、吉田松陰、佐久間象山もこの異様な姿を見届けようと浦賀まで来ている。
目の前の黒船に異国と自国の軍事力の彼我の差に愕然となったようである。
「軍(いくさ)も近き内と存じ、承り候。その節は異国の首を討ち取り・・・」と衝撃的な事実を父親に送っている。

浜川橋のたもとから立会川が海に注ぐところまでが土佐藩抱屋敷であった。幕府への「差出」によると869坪が抱屋敷の広さである。
ここは土佐から送られてくる物資の荷揚げ地であり、立会川から荷を陸上に上げていた。ペリー来航の嘉永6年(1853)土佐藩は砲台築造の「願」を幕府の許可を得て、翌年「浜川砲台」と言われた砲台を造った。砂浜の柔らかい土地を石、土砂で埋立2300坪に拡大させている。警備陣は「品川下屋敷」を宿所としてこの砲台に配置されていた。

「浜川砲台」と「品川下屋敷」を結ぶ連絡路は現在の立会川商店街であり、その距離約200mである。若き日の「龍馬」も警備陣に加わっており、この道を「龍馬」がさっそうと毎日歩いた。

Image211                                         <龍馬が通った立会川商店街>

そんな姿を確かめたく、京浜急行立会川へ行ってみた。「若き日の竜馬が行く、はまかわ砲台」「龍馬の街」と旗、看板とまさに立会川商店街はまさにブラックカラーからブルーカラーの龍馬一色で塗りつぶされ盛り上がっている。 再び、戻った「龍馬」も恐らく、この姿に黒船以上に戸惑い驚くであろう。商店街が町おこしにかける、地域のエネルギーを見るようであった。
立会川駅近くの小公園の一角にかっこいい龍馬像もある。「龍馬」の像は2004年龍馬研究家の小美美濃氏を通じ、高知市と品川の交流が始まり浜川砲台の礎石の一部を高知市へ贈る一方、高知市から寄贈された。
歴史には一見遠そうな女子校生やおばちゃん達までも、携帯かざし、パチャパチャと賑わいを見せていた。動機はどうあれ今を時めく「龍馬」が此処でも、人集めに一役買っているのである。
立会川沿いに「浜川砲台」の看板表記にある種の期待感を持って訪れたが、運河の護岸壁の隅に置かれた、育種かの巨岩のみであった。
説明が無ければ、何の変哲もない只の石であるが、恐怖に陥れた黒船を迎え討つための、先人が残した貴重な歴史遺産なのである。
こんな所にも「龍馬」が居るのである。龍馬の姿を以下追ってみた。

坂本龍馬

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