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龍馬と黒船

Image111                                                          <龍馬像>

「龍馬」は、嘉永6年(1853)3月に土佐藩を後に剣術修行の江戸に着くが折しもペリー艦隊が浦賀へ、更に羽田沖までに侵入する。
幕府より各大名へ湾の警護を命ぜられ、土佐藩は立会川川口付近にあった土佐藩の下屋敷(現品川区大井)警護のために砲台を設置する。江戸詰の武士を含め一兵卒だった「龍馬」も動員される。黒船は砲台から約6㎞、望遠鏡によって確認出来る距離まで近づいた。
翌年、ペリー艦隊7隻が再度、浦賀へ来航し、ワシントン・バースデイの祝砲を放ち、「龍馬」はこの地鳴りのような轟音を浜川砲台で聞いている。
この煙を吐きながら疾走する異様な船影と砲の威力の衝撃的な出会いに、「龍馬」は驚き、江戸市民を恐怖のどん底に陥れ戦々恐々とする。「龍馬」はもとより、吉田松陰、佐久間象山もこの異様な姿を見届けようと浦賀まで来ている。
目の前の黒船に異国と自国の軍事力の彼我の差に愕然となったようである。
「軍(いくさ)も近き内と存じ、承り候。その節は異国の首を討ち取り・・・」と衝撃的な事実を父親に送っている。

浜川橋のたもとから立会川が海に注ぐところまでが土佐藩抱屋敷であった。幕府への「差出」によると869坪が抱屋敷の広さである。
ここは土佐から送られてくる物資の荷揚げ地であり、立会川から荷を陸上に上げていた。ペリー来航の嘉永6年(1853)土佐藩は砲台築造の「願」を幕府の許可を得て、翌年「浜川砲台」と言われた砲台を造った。砂浜の柔らかい土地を石、土砂で埋立2300坪に拡大させている。警備陣は「品川下屋敷」を宿所としてこの砲台に配置されていた。

「浜川砲台」と「品川下屋敷」を結ぶ連絡路は現在の立会川商店街であり、その距離約200mである。若き日の「龍馬」も警備陣に加わっており、この道を「龍馬」がさっそうと毎日歩いた。

Image211                                         <龍馬が通った立会川商店街>

そんな姿を確かめたく、京浜急行立会川へ行ってみた。「若き日の竜馬が行く、はまかわ砲台」「龍馬の街」と旗、看板とまさに立会川商店街はまさにブラックカラーからブルーカラーの龍馬一色で塗りつぶされ盛り上がっている。 再び、戻った「龍馬」も恐らく、この姿に黒船以上に戸惑い驚くであろう。商店街が町おこしにかける、地域のエネルギーを見るようであった。
立会川駅近くの小公園の一角にかっこいい龍馬像もある。「龍馬」の像は2004年龍馬研究家の小美美濃氏を通じ、高知市と品川の交流が始まり浜川砲台の礎石の一部を高知市へ贈る一方、高知市から寄贈された。
歴史には一見遠そうな女子校生やおばちゃん達までも、携帯かざし、パチャパチャと賑わいを見せていた。動機はどうあれ今を時めく「龍馬」が此処でも、人集めに一役買っているのである。
立会川沿いに「浜川砲台」の看板表記にある種の期待感を持って訪れたが、運河の護岸壁の隅に置かれた、育種かの巨岩のみであった。
説明が無ければ、何の変哲もない只の石であるが、恐怖に陥れた黒船を迎え討つための、先人が残した貴重な歴史遺産なのである。
こんな所にも「龍馬」が居るのである。龍馬の姿を以下追ってみた。

坂本龍馬

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19、坂本竜馬」カテゴリの記事

コメント

貴サイトを数人の同好の士に紹介したところ、大変感謝されました。
 私もうれしくなりましたので、まずはお知らせまで。

投稿: 鳴門舟 | 2010年2月 5日 (金) 05時20分

鳴門舟さんのネットワークに載せていただきありがとうございます。
幕末の好奇心の赴くまま、あちこちに徘徊していますが、こんなお便りを頂き、嬉しさと、半面、身の引き締まる思いをしております。
宜しくお願いします

投稿: 隠れ新八 | 2010年2月 5日 (金) 20時34分

「黒船」を追って。拝見しました。
毎度、豊富な資料で感嘆しております。
 さて、先日あるサイトで、井伊は外国の圧力に屈して開国しただけであって、頑迷な保守的な考えの持ち主である、というのを読み、私は確かにそうには違いないだろうが、
あの時、かたくなに開国を拒否していたら、
武力でもって強引に開国させられていたのではないのか、植民地化という事も考えられたのでは、とふと考えてしまいました。

投稿: 鳴門舟 | 2010年2月12日 (金) 15時27分

鳴門舟さん、毎度ご贔屓にありがとうございます。
攘夷か開国か揺れ動く中で日本がちいちゃな大砲を作ってもアメリカ軍艦にかないっこない。
戦争すれば負ける。条約の締結を拒めば中国のように阿片戦争のような事件になるという列強の忠告を信じた。
私も、その場面では井伊の判断は止む追えないと思います。
ただ、性格の強さに加え、ブレーンがなく、「徳川のために俺が頑張らなければ崩壊する」という危機意識から安政の大獄が起きてしまったのではと思います。
某国の首相も、影の人の意見を聞くだけでなく「俺が頑張らなければ崩壊する」と言う危機意識を持って欲しいと、ふと思ってしまいます。

投稿: 隠れ新八 | 2010年2月12日 (金) 22時56分

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