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梅の花のように散った「近藤勇」と「千人同心」

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       <高尾の紅梅>

厳しい寒さの中で冷たい雨が続いたが梅も終わり、そろそろ桜の時期になり、確実に春がやってきた。
この可憐な梅の木に、散っていった「近藤勇」と千人頭「石坂弥次右衛門」の二人が果たせなかった話が残される。
日野宿北原に住んでいた千人同心「井上松五郎」は、八王子千人町この「石坂弥次右衛門組」の世話役を勤めていた。
文久1年(1861)、2年のころの早春の一日この石坂家を、「井上松五郎」の案内で「近藤勇」が訪れた。「弥次右衛門」も快く迎え入れ、種々談笑したが、「近藤勇」は庭に咲く血梅に目をとめて、慎ましく咲く様を激賞した。「弥次右衛門」も、「それほどお気に入りならば」と後日接木(つぎき)か取木(とりき)をして贈ることを約束した。
しかし、この約束は、文久3年「勇」が浪士組に参加して上洛し、新選組局長として京都市中取締り、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争の渦に入っていく。
一方、「弥次右衛門」も、幕末期は、将軍上洛の先供(さきとも)、第一次・第二次長州征伐、甲州出張等席の温まる暇も無い程であった。
鳥羽伏見の戦いで勝利した東征軍が討幕で江戸に迫ってきた。
慶応4年(1868)3月、戊辰戦争で参謀「板垣退助」幕僚「谷千城」ら東征軍が東下するなかで、甲府で阻止するために「近藤勇」以下の甲陽鎮撫隊一行が甲州街道を西下した。しかし、勝沼で東征軍を迎え戦ったが僅か2時間余りで甲陽鎮撫隊が破れ、「勇」は江戸へ遁走し、流山で捕まり4月25日板橋で処刑された。「勇」の首は閏4月8日~10日三条河原で晒された。
一方、「板垣」ら東征軍は八王子へ進駐し、千人隊は恭順し、更に日光で進出した。八王子で東征軍を出迎え恭順を示した千人頭「弥次右衛門」が、日光勤番で急死した代番で急遽日光へ派遣される。日光で再び東征軍を出迎え、日光勤番も恭順する。
しかし、一旦恭順した筈の八王子の千人隊が抗戦になびき、八王子に帰った 「弥次右衛門」は責任を問われ、切腹したのが翌閏4月11日と「勇」の後を追うように亡くなった。この時、剣術に熟達した長男は留守で、80歳になる父が介錯(かいしゃく)したが、老齢のために首が落とせず、「弥次右衛門」は、明け方までうめき苦しんで息を引きとる凄惨な死であったと伝えられる。
結局、二人が取り交わした梅の木の譲り渡しが果たせぬまま、散ってしまった。

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       <日野 宿本陣の梅>

この梅の木を新選組愛好家、故「谷春雄」さんが、譲り受け、自らの手で育て偲んだとことが「血梅」と言う記事で以下のように残されている。
明治維新という激動の中に、その姿を没していった「勇」「弥次右衛門」が愛し、また激賞したというこの血梅は、明治以後石坂家の新潟移住等で、行方がはっきりしなかったが、千人町の石坂家の隣家の庭にひっそり残っていた。しかし昭和20年の八王子空襲で黒焦げになってしまったが、やがて芽吹き、花を咲かせるようになった。この梅の接穂(つぎほ)を入手した友人の佐宗氏が何本か育て、その1本を、「谷君は新選組が好きだから」と進呈してくれたものである。
この血梅は、紅梅としては何となくつつましく、寂しいような花である。毎年この花の咲くころに、140年前、折角の約束を守れず、激動の時代に流されていった両士を偲んでいる。
この紅梅は早春になると薄紅色の花を咲かせるが、花はガクが大きく、花びらの小さい原種に近いような花で、現在の華やかなものが多い紅梅に比べると、少し寂しいような花である。この梅の枝を切ると、中は血がにじんだように真っ赤なので、血梅という名で呼ばれているという。

散っていった千人頭「石坂弥次右衛門」は以下で纏めてみた。

石坂弥次右衛門

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武道で生きた「千葉さな」と「中野竹子」

北辰一刀流小太刀免許皆伝を持ち、長刀師範も務めた。
美貌で知られ「千葉の鬼小町」あるいは「小千葉小町」と呼ばれたという「千葉佐那(さな)」。
北辰一刀流桶町千葉道場に学びに来ていた「坂本龍馬」が姉・乙女に宛てた手紙いわく、馬に乗り、剣も強くて、長刀も出でき、力は普通の男よりも強い。十三絃の琴を弾き、絵も描き、物静かな女性。
顔形は平井加尾より少し良いと、絶賛した女性でもあった。
土佐高知から出た「龍馬」が彼女との出会いから当然、夢中にさせ、桶町千葉道場ら師にも認められ婚約まで交わしたと言われる中であったが、遂に結ばれなかった。
一縷な「佐那」は龍馬の死を知った後も彼を想い続け、一生を独身で過ごし、ひっそりと葬られた。
その「龍馬」も惚れた「佐那」の勇ましい長刀姿は錦絵で残されている旨、当サイトでも報告した。

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<定紋付きの袷に袴をはき、白布の鉢巻をしめ、たすきを十字にかけて、各々薙刀を>

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<「娘子隊(じょうしたい)」の活躍する姿、ひの新選組まつりから>

その長刀若しくは薙刀で同じ時代に名をはせた、もう一人の女性、「中野竹子」が居る。
「中野竹子」は「佐那」より8年後の弘化3(1846)年3月、会津藩士・中野平内の長女として江戸和田倉の会津藩邸内で誕生する。
「竹子」は幼少の頃より、薙刀、書道を習い、薙刀の腕前は道場の師範代を勤め、書道も祐筆(秘書)を勤めるまでに成長した文武両道を備えた才媛である。
「竹子」は薙刀を習っていた赤岡大助の養女となり、会津城下郊外の坂下(ばんげ)にあった赤岡家の道場に寄宿し、師範代として武道に鍛錬する生活を続けていた。
慶応4(1868)年1月、「鳥羽・伏見の戦い」において、幕府軍は薩長連合軍に敗れ、幕府軍の一員として参戦していた会津藩も藩主・容保以下の会津藩士達は、故郷会津へと引き上げることになった。
政府軍は京都守護職を勤めていた会津藩を討伐のために攻めてくる。
 「竹子」の才能を大きく買っていた養父・「赤岡大助」は、「竹子」と縁組させようと考えたが、藩が危急存亡の秋を迎えているというのに、縁組どころではないと断り離縁して、実家へ戻り「竹子」も国内内乱の渦に巻き込まれていく。

政府軍は既に会津城下に攻めて鶴ヶ城を孤立化した。
ここで自害して果てるより、藩主・松平容保の義姉の照姫守護に立ち上がった。
 中野家では「竹子」と母の「孝子」、妹の「優子」の三人が、それぞれ長い黒髪を切り落とし、定紋付きの袷に袴をはき、白布の鉢巻をしめ、たすきを十字にかけて、各々薙刀を手に持って武装し、「娘子隊(じょうしたい)」として照姫のいる鶴ヶ城へと向かい備えた。
鶴ヶ城の危急を聞き、越後口の守備隊と衛鋒隊を若松城に進撃し、この中に「娘子隊」も加わった。
越後街道の柳橋で政府軍と会津軍に激戦が起こり、「中野竹子」は薙刀で数名を斬り伏せたが、飛んできた一弾がその胸を貫き、22歳の若すぎる死であった。
柳橋の戦いに倒れた「中野竹子」は妹の「優子」の手で介錯され、首は法界寺に埋葬された。「竹子」の墓碑には「小竹女子之墓」と刻まれている。
激しい戦いを繰り広げた柳橋付近の薙刀を手に持った女性の白い石像がひっそりと建っているのが娘子隊の一人「中野竹子」である。

幕末から維新にかけて古来の薙刀の武術に長けた二人の乙女のそれぞれの波瀾に満ちた生涯に、ときには逞しく立ち振る舞った姿が内乱の悲劇を今日に伝えている。

その詳細を以下で纏めてみた。

会津鶴ヶ城


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龍馬と千葉さな(一部修正)

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「龍馬」が江戸に行き、北辰一刀流の千葉道場に入門する。桶町千葉道場を開いた千葉定吉の娘の「さな」と出会い、「さな」が「龍馬」に腕試しを願い出る。
「さな」の息する暇無く、激しく襲いかかり素早い竹刀さばきで打ち込まれ、土州藩士に剣客とも言われた「龍馬」も圧倒され、江戸の剣術のすごさに驚かされる。
そんな「さな」の逞しく凄い姿が、大河ドラマからの印象であった。
「千葉佐那」千葉さな子とも呼ばれる。
桶町千葉道場を開いた千葉定吉の娘。初名は乙女。
小太刀に優れ、10代の頃に早くも皆伝の腕前に達し北辰一刀流小太刀免許皆伝を持ち、長刀師範も務めた。
美貌で知られ「千葉の鬼小町」あるいは「小千葉小町」と呼ばれたという。
16歳のころ、北辰一刀流桶町千葉道場に学びに来ていた「坂本龍馬」と知り合い、後に婚約を交わしたとも結婚したとも言う。龍馬が姉・乙女に宛てた手紙いわく、馬に乗り、剣も強くて、長刀も出でき、力は普通の男よりも強い。十三絃の琴を弾き、絵も描き、物静かな女性。顔形は平井加尾より少しいいとのこと。
龍馬の死を知った後も彼を想い続け、一生を過ごした。
「さな」の実像は果たしてどんな姿であっただろうか、口伝しか伝わらず、絵や写真は無く全くの想像の世界であった。
そんな背景の中で「さな」を描いた錦絵が見つかり、朝日新聞にも報道される位に話題になった。
しかし最近になって錦絵の作品の中に長刀(なぎなた)を手に取って男性と戦っている女性は「千葉貞(てい)」で、千葉周作の孫、周之助之胤の姉妹にあたることが判り、「さな」とは別人であることが判った。錦絵が描かれた撃剣会の番付表が残っており、そこに「千葉てゐ」の名前が確認でき、菩提寺の仁寿院の墓所にも「千葉貞」の名前が刻まれている。ことなどそれを裏付ける記録が確かめられている。

明治6年(1873)深川で開催された千葉一門の撃剣会の様子を描いた3枚1組の錦絵に描かれてあった。当初、「さな」節を発表されたのは龍馬研究者の京都国立博物館考古室長の宮川禎一さんであったが、誤りであったことを認められたようである。

維新後は学習院女子部に舎監として奉職した後、千住にて家伝の針灸を生業としてすごした。死後、身寄りがなく無縁仏になるところ、山梨県の民権運動家として知られる小田切謙明が哀れみ、小田切家の墓地のある山梨県甲府市朝日5丁目の日蓮宗妙清山清運寺に墓がある(引墓のようである)。墓石には『坂本龍馬室』と彫られている。

「龍馬」の妻となった「おりょう」による千葉佐那評が悪意に満ちていることを考えると、龍馬と佐那との関係はかなり深いものであり、坂本家での佐那への認識が相応のものであったと推定される。
「おりょう」は当サイトでも紹介した写真でもある通り、まれに見る美人であり、再婚しているが「さな」がどういう姿であったのであろうか・・・。両女性共「龍馬」を思い続け,ひっそりと亡くなっているのは共通しているところである。
2001年に「おりょう」の写真を見つけ出したのも宮川禎一さんであり、今回も龍馬に関わる新真実を発見されており、幻の世界から実像の姿に繋げる探索力にわくわくさせられたが、残念であった。

新聞・TVにしても、センセーショナル記事に疑いもなく、乗せられ、後になって実は言う話しに、中々修正報道、記事は目に付かない。後になってネットによって初めて見る事実に、メデイア情報の危うさも伺える。特に歴史記事は感情によって流されることもあるようだ。

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