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武道で生きた「千葉さな」と「中野竹子」

北辰一刀流小太刀免許皆伝を持ち、長刀師範も務めた。
美貌で知られ「千葉の鬼小町」あるいは「小千葉小町」と呼ばれたという「千葉佐那(さな)」。
北辰一刀流桶町千葉道場に学びに来ていた「坂本龍馬」が姉・乙女に宛てた手紙いわく、馬に乗り、剣も強くて、長刀も出でき、力は普通の男よりも強い。十三絃の琴を弾き、絵も描き、物静かな女性。
顔形は平井加尾より少し良いと、絶賛した女性でもあった。
土佐高知から出た「龍馬」が彼女との出会いから当然、夢中にさせ、桶町千葉道場ら師にも認められ婚約まで交わしたと言われる中であったが、遂に結ばれなかった。
一縷な「佐那」は龍馬の死を知った後も彼を想い続け、一生を独身で過ごし、ひっそりと葬られた。
その「龍馬」も惚れた「佐那」の勇ましい長刀姿は錦絵で残されている旨、当サイトでも報告した。

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<定紋付きの袷に袴をはき、白布の鉢巻をしめ、たすきを十字にかけて、各々薙刀を>

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<「娘子隊(じょうしたい)」の活躍する姿、ひの新選組まつりから>

その長刀若しくは薙刀で同じ時代に名をはせた、もう一人の女性、「中野竹子」が居る。
「中野竹子」は「佐那」より8年後の弘化3(1846)年3月、会津藩士・中野平内の長女として江戸和田倉の会津藩邸内で誕生する。
「竹子」は幼少の頃より、薙刀、書道を習い、薙刀の腕前は道場の師範代を勤め、書道も祐筆(秘書)を勤めるまでに成長した文武両道を備えた才媛である。
「竹子」は薙刀を習っていた赤岡大助の養女となり、会津城下郊外の坂下(ばんげ)にあった赤岡家の道場に寄宿し、師範代として武道に鍛錬する生活を続けていた。
慶応4(1868)年1月、「鳥羽・伏見の戦い」において、幕府軍は薩長連合軍に敗れ、幕府軍の一員として参戦していた会津藩も藩主・容保以下の会津藩士達は、故郷会津へと引き上げることになった。
政府軍は京都守護職を勤めていた会津藩を討伐のために攻めてくる。
 「竹子」の才能を大きく買っていた養父・「赤岡大助」は、「竹子」と縁組させようと考えたが、藩が危急存亡の秋を迎えているというのに、縁組どころではないと断り離縁して、実家へ戻り「竹子」も国内内乱の渦に巻き込まれていく。

政府軍は既に会津城下に攻めて鶴ヶ城を孤立化した。
ここで自害して果てるより、藩主・松平容保の義姉の照姫守護に立ち上がった。
 中野家では「竹子」と母の「孝子」、妹の「優子」の三人が、それぞれ長い黒髪を切り落とし、定紋付きの袷に袴をはき、白布の鉢巻をしめ、たすきを十字にかけて、各々薙刀を手に持って武装し、「娘子隊(じょうしたい)」として照姫のいる鶴ヶ城へと向かい備えた。
鶴ヶ城の危急を聞き、越後口の守備隊と衛鋒隊を若松城に進撃し、この中に「娘子隊」も加わった。
越後街道の柳橋で政府軍と会津軍に激戦が起こり、「中野竹子」は薙刀で数名を斬り伏せたが、飛んできた一弾がその胸を貫き、22歳の若すぎる死であった。
柳橋の戦いに倒れた「中野竹子」は妹の「優子」の手で介錯され、首は法界寺に埋葬された。「竹子」の墓碑には「小竹女子之墓」と刻まれている。
激しい戦いを繰り広げた柳橋付近の薙刀を手に持った女性の白い石像がひっそりと建っているのが娘子隊の一人「中野竹子」である。

幕末から維新にかけて古来の薙刀の武術に長けた二人の乙女のそれぞれの波瀾に満ちた生涯に、ときには逞しく立ち振る舞った姿が内乱の悲劇を今日に伝えている。

その詳細を以下で纏めてみた。

会津鶴ヶ城


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