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若くして散った佐土原藩「島津啓次郎」

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叔父の法事で檀家寺である恵比寿の東北寺に行ったが、同じ墓域で本堂の裏側の小高い所に島津家の墓がある。
本堂は改修され今は見ることは出来ないが、かっては島津の家紋入りの立派な暖簾が飾られてあった。
ちょっと遠ざかってしまったが、大河ドラマの「天璋院篤姫」が島津の家紋入り暖簾、島津の墓地の関係が大変気になった。
色々調べて行くと島津忠久に始まる約800年、30代余に繋がる島津の本宗家から派生的に生れた膨大な数の分家の一つ、佐土原藩(宮崎)の島津家であった。

慕域は藩主の「島津忠寛」を中心に兄弟、妻の墓が並んでいる。
「島津忠寛」は旧佐土原藩十一代藩主で戊辰戦争では官軍の一角を担っている。佐土原藩の勇猛果敢な戦いぶりは多大な戦果を収め、その目覚ましい働きぶりに論功行賞が行われ、3万石の賞典録が「忠寛」に下されている。その功績は薩、長、土、鳥取、大垣に次ぐものと言われている。明治2年(1869)6月版籍奉還により「忠寛」は知藩事に任じられ、中央政府の任命する一地方官僚に転じた。明治4年(1871)廃藩置県で免官する、正に幕末から維新に駆け抜けた一人である。

「島津啓次郎」は佐土原藩主「忠寛」の3子として、維新の国づくりに期待されるエリートとして育てられた一人であった。「忠寛」の知友の一人で「勝海舟」の勝塾に入り英語・数学・世界史・世界地理の学習する。「海舟」は「啓次郎」の常軌を逸した行状と計り知れない器量の大きさを扱いかねながらも、将来の大成のため米国留学を勧められ、ニューヘブンのグラマースクールからアナポリス海軍兵学校へ入学するなど順風満帆の留学生活であった。

米国での有色人種への不条理な差別社会、規則ずくめの兵学校、孤独感などから学業に身が入らず、米国人寮生と喧嘩騒動がおこし放校される。帰国後、日本を将来を背負う若者を育てる私学校を起こす。
折しも、少数の官僚による政治に反発、廃刀令の公布、「西郷隆盛」の征韓論に破れ下野し、鹿児島の私学校生徒達が「西郷」を擁して決起し遂に、西南戦争が勃発する。

こうした動きに佐土原では元々「敬天愛人」を信条とする西郷思想で立ち上げた同じ私学校であり、政府の西郷ら幹部の暗殺と私学校の瓦解工作に対しては、西郷に呼応して西南戦争に参加する。しかし、薩軍の敗退とも合わせ、佐土原の隊も四散し、「啓次郎」と僅か数名を残すのみとなり、21歳の若さで城山で「西郷」と一緒に城山で亡くなってしまった。
維新後華族にもなった誉れ高い一族の将来を約束される名門の旧佐土原藩の島津家。「啓次郎」一縷な性格から、自ら追い込んでしまい波乱に満ちたが短い人生を閉じてしまった。

戦後、仏様の判別が出来ない程、遺体を切り刻む位に怨恨も驚くべき事実であるが、何とか本人を確かめたのは側に落ちていた"丸に十字の紋"のナイフのさやであったようであった。
戊辰戦争でも官軍は丁寧に葬られるが会津軍と一般人は放置され、「手を付けた者は厳罰」と捨ておかれた事実が明治2年2月まであった。
国内を内乱に陥れた戊辰戦争もそうであったように、西南戦争も深い傷を残していることを改めて知った。

その波乱に満ちた生涯について、以下で整理した。

若くして散った島津啓次郎

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「坂の上の雲」と榴弾砲(りゅうだんほう)

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何れ、スペシャルドラマ「坂の上の雲」でもこの榴弾砲が光を当てられるだろう。
観音崎へ行った折りに、砲門をやや上向きに構えるこの巨大で異様な28サンチ榴弾砲に出会いびっくりした。
東京湾につき出した岬であるため東京湾防備の拠点として明治13、28年の間、観音﨑各所にレンガとコンクリートによる15ヶ所の近代的砲台が築かれる。これらの砲台は日清、日露戦争に活躍したもので、関東大震災で大破したため大正末期にはすべて廃止されている。この場所は「南門砲台跡」で残念ながら当時を忍ぶ物は残されていない。
外国の軍艦の襲撃を守るため、主要な海岸にはこの28サンチ榴弾砲が据えられた。砲弾の直径が28cm.長さ75cmで飛距離は7800mで、およその目安は対岸の房総半島の富津岬まで飛ぶ実力をもっている。観音崎には当時東京湾を守るためにこの榴弾砲を備えた砲台がいくつもあった。

明治37年、日露戦争の旅順要塞を攻撃するも、難攻不落に第1回の総攻撃で約1万6千人の大量な犠牲者を生み、ながらも落せず消耗戦となった。
築城攻撃だけで要塞は落ちずやはり砲兵火力は絶対必要であると、第1線の前線から大本営に繰り返し弾薬の補給を要求していたが、既に底を付き送れないのが当時の国力であった。但し、要塞砲の28サンチ榴弾砲の弾薬ならあると、言うことで急遽使われたのがこの砲であった。
再度の総攻撃に 28サンチ榴弾砲を、日本内地の要塞にあったものを取り外し、短期間で陣地に据付た。
戦時下の緊急事態ではあったが、元より建築機械重機のない時代だけに、人海戦術でこの大きな砲を据えつけたと言われている。
早速実戦で撃ち込んだ威力が大変大きく、難攻不落に膠着状態であった要塞に攻略の糸口が生れ、旅順要塞の陥落の大きな役割を果たしたと言われている。
旅順攻略に若し28サンチ榴弾砲が無かったら旅順の攻略は更に長引いたとさえ言われている。

展示される28サンチ榴弾砲は模型である。平和を甘受する世の中、昔はこのような時代があったことを思い起こしてもらうために、観音崎公園のボランテイアさんの労作である。
周辺は要塞地帯として明治14年(1881)から太平洋戦争終了の昭和20年(1945)の半世紀以上、立ち入りなどを厳しく制限した。
そんな機密の世界が戦後ベールを脱ぎ、軍事施設は埋設・撤去されるなど、公園として手を加えられたが、戦争遺構として未だ当時の姿を留める。観音崎公園として蘇った一帯は観音崎の海岸線の風光明媚な姿とも併せ、鴨居側から観音崎、走水と戦争遺構をたっぷり確かめることが出来る。以下で纏めてみた。参考までにご案内します。

東京湾要塞地帯

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本陣にて新選組まつり

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9日は日野あげての最大の祭り、新選組まつりであった。
土方歳三の命日、5月11日に併せて、一番近い休日と言うことで2010年は5月9日であった。
GWの晴天続きに、今年はどうかなと思われたが、大変良い天気に恵まれた。毎年恒例の祭りに、函館の憤死に何時も歳三の涙雨で、天候に恵まれず、折角の衣装に濡らしてなるまいとパレード最中に駆け足で待避なんてことが鮮明に記憶が浮かぶが、今年は全く心配の無い好天に恵まれた。
そんな当日に本陣のご案内に巡りあわせた。
一年で一番、来館者が来ることを承知で、終日、忙殺される苦しみと一方では全国から大勢のフアンが殺到し、幕末に向き合え、まつりの当事者として下支える喜びと、複雑な思いでその日を迎えた。
1日、館内でご案内しても、平日は10数人、資料館の開催される休日は100~200人程度の来館者が、これまでの通例であった。
ご案内は通常1人で、多い日は2人体制を組んで望み、まつりの日は更に、人員をかけたが、この不況のご時世から、事業仕分けで予算の圧縮から、今年は2人体制であった。

当日、予想通り、開門前に既に来館者もあり、ちょっと早かったが、中庭の掃除を済まし、融通を効かし、定刻前にご案内を始めた。
それ以来、中庭の砂利を刻む音は切れ目なく続き、パレードが近辺を通過する時間帯はまさに来館者のラッシュであった。そんな1日に来館者はなんと500余人を越えていた。
昨年対比で来館者がそんなに変わって居ないことに、新選組の根強い文化が底堅く、続いていることを知らされた。

この日に来ていただく来館者に、一生懸命聞いていただき、向けられる目線に手を抜けられなかった。
「建物」、「参勤交代」、「天然理心流」、「歳三」、「勇」、「彦五郎」、「甲陽鎮撫隊」の広がりに、話題は尽きないが、幕末の風、空気を一緒に共有したかった。
語るに時間は足りなかったが、果たして何処まで伝わったのであろうか、一人よがりではなかろうか、そんな疑問を持ちながら、分刻みのご案内に精一杯頑張った。
大勢の群れを案内するために、大きい声を出し、一巡するにはかなりのエネルギーも要し、切れ目も無いまま続けると喉も猛烈に痛くなる。

来館者は元より物知り博士も多く、色々な期待感を持って来場される。
そんな中で時には、拙い説明に終始しながらも終了時に拍手を頂くこともあり、こんな巡り合わせに感動も生れ、ご案内冥利につきる。

一通りご案内を終わって、閉館時間を迎えるも、来館者は幕末にタイムスリップさせ、余韻を確かめるべく、部屋に残り、中には畳の上で横になり歳三の世界を確かめていた。そんな空気に理解しつつも、気の毒ではあるが、なるべく刺激しない様に、お引き取り頂き、まつりの騒ぎはこうして無事に終演を迎えた。

喉の痛みは暫く続き、引きずるように家路に付いた。幕末を通じて社会との繋がりを持ち、出会いで色々学べることの喜びに、浸りながら刺激的な1日は終わった。

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