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若くして散った佐土原藩「島津啓次郎」

Tensyouin601

叔父の法事で檀家寺である恵比寿の東北寺に行ったが、同じ墓域で本堂の裏側の小高い所に島津家の墓がある。
本堂は改修され今は見ることは出来ないが、かっては島津の家紋入りの立派な暖簾が飾られてあった。
ちょっと遠ざかってしまったが、大河ドラマの「天璋院篤姫」が島津の家紋入り暖簾、島津の墓地の関係が大変気になった。
色々調べて行くと島津忠久に始まる約800年、30代余に繋がる島津の本宗家から派生的に生れた膨大な数の分家の一つ、佐土原藩(宮崎)の島津家であった。

慕域は藩主の「島津忠寛」を中心に兄弟、妻の墓が並んでいる。
「島津忠寛」は旧佐土原藩十一代藩主で戊辰戦争では官軍の一角を担っている。佐土原藩の勇猛果敢な戦いぶりは多大な戦果を収め、その目覚ましい働きぶりに論功行賞が行われ、3万石の賞典録が「忠寛」に下されている。その功績は薩、長、土、鳥取、大垣に次ぐものと言われている。明治2年(1869)6月版籍奉還により「忠寛」は知藩事に任じられ、中央政府の任命する一地方官僚に転じた。明治4年(1871)廃藩置県で免官する、正に幕末から維新に駆け抜けた一人である。

「島津啓次郎」は佐土原藩主「忠寛」の3子として、維新の国づくりに期待されるエリートとして育てられた一人であった。「忠寛」の知友の一人で「勝海舟」の勝塾に入り英語・数学・世界史・世界地理の学習する。「海舟」は「啓次郎」の常軌を逸した行状と計り知れない器量の大きさを扱いかねながらも、将来の大成のため米国留学を勧められ、ニューヘブンのグラマースクールからアナポリス海軍兵学校へ入学するなど順風満帆の留学生活であった。

米国での有色人種への不条理な差別社会、規則ずくめの兵学校、孤独感などから学業に身が入らず、米国人寮生と喧嘩騒動がおこし放校される。帰国後、日本を将来を背負う若者を育てる私学校を起こす。
折しも、少数の官僚による政治に反発、廃刀令の公布、「西郷隆盛」の征韓論に破れ下野し、鹿児島の私学校生徒達が「西郷」を擁して決起し遂に、西南戦争が勃発する。

こうした動きに佐土原では元々「敬天愛人」を信条とする西郷思想で立ち上げた同じ私学校であり、政府の西郷ら幹部の暗殺と私学校の瓦解工作に対しては、西郷に呼応して西南戦争に参加する。しかし、薩軍の敗退とも合わせ、佐土原の隊も四散し、「啓次郎」と僅か数名を残すのみとなり、21歳の若さで城山で「西郷」と一緒に城山で亡くなってしまった。
維新後華族にもなった誉れ高い一族の将来を約束される名門の旧佐土原藩の島津家。「啓次郎」一縷な性格から、自ら追い込んでしまい波乱に満ちたが短い人生を閉じてしまった。

戦後、仏様の判別が出来ない程、遺体を切り刻む位に怨恨も驚くべき事実であるが、何とか本人を確かめたのは側に落ちていた"丸に十字の紋"のナイフのさやであったようであった。
戊辰戦争でも官軍は丁寧に葬られるが会津軍と一般人は放置され、「手を付けた者は厳罰」と捨ておかれた事実が明治2年2月まであった。
国内を内乱に陥れた戊辰戦争もそうであったように、西南戦争も深い傷を残していることを改めて知った。

その波乱に満ちた生涯について、以下で整理した。

若くして散った島津啓次郎

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