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晩年の「おりょう」を追って

「おりょう」は寺田屋で深手をおった「龍馬」と手を携え、 九州での新婚旅行など蜜月の時代を送った。
「龍馬」は新国家創成に日本中を駆けめぐるなか、「おりょう」は長崎から下関へと移り住み、ひたすら「龍馬」の帰りを待った。慶応3年(1867)11月、京の近江屋で「龍馬」と「中岡慎太郎」は刺客団に襲撃され凶刃に倒れ、「おりょう」のもとに知らされ、再び「龍馬」の姿を見ることはなかった。
一時土佐の坂本家で暮らしたが、龍馬が海援隊に残した金をめぐり折り合いが悪く、土佐を出る。出身地の京都で「龍馬」の墓を守って暫くいたが明治5年(1869)、弟を連れ東京に出たと言われている。

◇横浜割烹料亭で再出発

現存する割烹料亭「田中家」

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明治に入って「おりょう」は神奈川の田中家という高級料亭の仲居としても働き、美貌、回転の良さからフアンも多かったが、惜しまれつつ辞めた。
「おりょう」は非常に頭が良く酒を好み、人情深く、客あしらいもうまく、勉強家で英語を喋り海外事情にも詳しかったと言われている。
旧東海道の一角にビルに挟まれ、横浜台町に割烹料亭「田中家」が見える。海に接する高台に位置し、この辺は風光明媚な場所に料亭が並び、賑わいを見せていたが、海が埋め立てられた現在、横浜駅の周辺の街並みを見下ろす風情に大きく変わり、尚続けているのは「田中家」のみになってしまった。
田中家の創業は江戸時代後期の文久三年(1863年)。 当店の前身「さくらや」が、安藤(歌川)広重の神奈川宿台之景に二階建ての旅篭(はたご)として描写されている。 現在では神奈川宿ゆかりの店舗として唯一の存在となり、古き良き時代を留めながら、料理を楽しめる場所として食通客が訪れている様である。

◇「西村松兵衛」と再婚、横須賀に住む

「おりょう会館」の隣に住んでいた。

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明治8年、「おりょう」が働いていた寺田屋で宿泊した旧知の「西村松兵衛」がこの料亭に遊びに来るようになる。
彼は横須賀造船所建設用の資材の回漕業をしていて、度々来るうちにおりょうさんと意気投合し、「松兵衛」と再婚し彼の住んでいる横須賀の地で世帯を持つことになった。以来横須賀に住み、「西村ツル」と名前を変える。
回漕業は長続きせず、露天商までやっているが、雨の日は商売ならず、無収入の日もあったようである。貧しいだけならまだしも、プライドの高い「おりょう」はテキ屋に類する大道商人の妻であることがみじめでたまらなくなった。誉れ多き「龍馬」の妻として、この凋落に酒で憂さを晴らすしかなかったのであろう。
明治39年(1906)1月、「松平衛」の結婚生活は30年以上に及んだが、「おりょう」は66歳でひっそりと死去した。「おりょう」と「龍馬」が連れ添ったのは、わずか3年ほど、そんなドラマを温めながら、30年近くを此処で過ごしたのである。
おりょうの終焉の地は京浜急行横須賀中央駅から「米が浜通り」に出て「おりょう会館」にあり、語りかけるような等身大、着物の姿の胸像の「おりょう」さんにあえる。
おりょう会館の裏側の路地が回漕業を営んでいたと言われる「西村松平衛」と暮らした場所で「坂本龍馬の妻・おりょう終焉の地」の碑も建ってある。

◇信楽寺には立派な「おりょう」の墓

巨大な「おりょう」の墓

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京浜急行大津の信楽寺には立派な「おりょう」の墓があるが、「鈴木清治郎」の尽力によって建てられた。「清治郎」は大道易者であり、「松兵衛」も露天商を営んでいたことから知り合い「おりょう」の存在を認めた。
 横須賀の裏長屋のその家に「松兵衛」の妻「西村ツル」が「自分は坂本龍馬の妻・おりょうだ」を自ら名乗り、酒好きの鉄火婆さんだったと「おりょう」を評している。
折しも、日露戦争のとき、龍馬の姿が明治天皇の皇后の夢枕に立ったとの新聞記事が話題となりおりょうの存在が世に知られる事にもなる。新聞記事は竜馬の夢枕という事件を利用して、皇后陛下が日本海軍の戦略に関して口出し、天皇、皇后が政治に発言する機会を作りあげた。恐らく世論も味方につけて、薩長派閥から除外された天皇親政派の喧伝による情報操作とも言われている。
「清冶郎」は「松兵衛」の家を訪ねたが、既に「おりょう」が亡くなったことを知る。(明治39年)。
 しかし、夫・「松兵衛」は零落しており、墓もないとのことなので、自分がおりょうのためお墓を建ててやろうと思いたち、大正3年(1914)皇室の要職にある水戸藩出身の香川敬三や横須賀鎮守府長官などからの支援により改めて建てたのが、現在の横須賀・信楽寺に残る「おりょうの墓」なのである。
「贈正四位阪本龍馬の妻龍子」と刻んでいる。敢えて「西村」を名のらず姓を阪本の名を使うのは「龍馬」とのよい思い出が語り継がれることが供養になる」と住職は解釈している。
「龍馬」の遺構は「亀山社中」から「海援隊」に繋がり、帝国海軍の基礎を成し、ロシアのバルチック艦隊を破るまで成長した。「龍馬」はもとより支えた「おりょう」にも正四位が贈られた。    詳細は下記で纏めている。

龍馬の妻「おりょう」

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龍馬をめぐる3人の女性

大河ドラマもいよいよ、操練所の開設や京の街の舞台に天誅組やそれを取り締まる新選組も登場してくる。ドラマの進行に龍馬をめぐる3人目の女性である、おりょうさんも登場し英雄、色を好むではないが、これ程、女性に好かれるも、龍馬ならではの話しなのであろうか?。ドラマを日めくり、登場する女性を追ってみた。

「平井加尾」

佐藩郷士・「平井収二郎」の妹。「龍馬」とは幼なじみの中の特別な存在であった。「収二郎」は「龍馬」の幼なじみだが、優柔不断な「龍馬」を嫌っており「龍馬」と「加尾」が近づくことを警戒した。
兄の「収二郎」は、「加尾」によい縁談がくるよう花嫁修業を積ませているが、「加尾」は龍馬に思いを寄せていた。

そんな折りに土佐藩で尊皇攘夷(じょうい)の運動が起こると「収二郎」は「加尾」を朝廷工作として三条家恒姫(信受院)の付き人となり、京に送らさせ、兄によって二人の間は完全に引き裂かれてしまう。

「千葉佐那」

江戸の名門・千葉道場の娘。千葉道場を代表する剣術の腕をもっているが、負けん気が強く男たちからは「鬼小町」と呼ばれ敬遠されている。江戸に剣術修行に来た「龍馬」と出会い、激しい剣さばきに「龍馬」をも震撼させるほどであったが、一方ではしんしに剣に向かう「龍馬」の姿に「佐那」思いを寄せていく。
男勝りの佐那に手を焼きながらも、よい縁談に恵まれるようにと願う妹思いの兄である。佐那が龍馬に思いを寄せていると知り、二人を結びつけようと画策する。

「平井加尾」と違って家族ぐるみ、龍馬との良縁と積極的に支援するが、勝海舟のもとに走り海外雄飛に将来をかける「龍馬」には未だ結婚する道は無かった用で「佐那」の気持ちは叶わなかった。「佐那」の「龍馬」に対する思いは大変強く、生涯を思い続け、とうとう独身のまま没してしまう。

「楢崎 龍(ならさきりょう)」

養父「楢崎将作」は勤皇派の医者で安政の大獄で獄舎入りし、釈放後病死する。龍馬と出会ったころは、母と妹2人と弟2人を肩を寄せ合うように住んでいた。

京都の東山区本瓦町(かっては大仏と言われる所)に土佐の脱藩浪士の隠れ家となり、勤皇派「将作」の繋がりから母「貞」が世話役として住み込み、龍馬との出会いが生れた。「龍馬」が寺田屋で大量な幕吏たちに襲われ、「おりょう」の機転で瀕死の重傷を負いながら、薩摩藩伏見屋敷に救われる。

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「龍馬」と「おりょう」は祝言をあげ傷の治癒をかね、長崎、薩摩へ温泉地を含め新婚旅行に出かける。霧島温泉は日本最初のハネームーンとして観光地として光を浴びているが、「高千穂の峰」での二人の手を携え登山する姿は一番輝いていた時ではあったが、束の間の幸せな時であった。
その後、「龍馬」は新国家創成に日本中を駆けめぐるなか、「おりょう」は長崎から下関へと移り住み、陰ながら支え続けた。
慶応3年(1867)11月、京の近江屋で「龍馬」と「中岡慎太郎」は刺客団に襲撃され凶刃に倒れ、「おりょう」のもとに知らされる。

「おりょう」と「龍馬」が連れ添ったのは、わずか3年ほど、そんなドラマを温めながら、横須賀で再婚し30年近くを此処で過ごしたのである。

折角、掴んだ幸せも、若くして散った「龍馬」との蜜月の時代は2年にも満たない、束の間の間に「龍馬」は駆け抜けていってしまったのである。

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