« 2010年6月 | トップページ | 2010年8月 »

久しぶりの「近藤勇談話会」

48c95797601ef0be6f76196d71177af0111

近藤勇生家の10代目宮川豊治さんが自ら主催される「近藤勇談話会」もお身内のご不幸などあって、暫く休会であった。
そんな折りに宮川豊治さんから談話会の案内があり、調布文化会館に出かけた。宮川豊治さん、弟の宮川清蔵三さんはじめ何年振りであろうか?懐かしい顔ぶれとの暫く振りの再会であった。
宮川豊治さんから、叔父さんに当たる勇五郎からの「勇の処刑に関わる」話しなど熱弁を振るわれた。
身内であるだけに、どうしても伝え置きたいと色々な話しの中に、特別な響きが伝わってくる。細かい説明内容はともかく、時の経過と共に抗し難い、重い事実も散見された。

①「戊辰60年の繰り返しの因縁で色々の事実が発見される」
<宗門人別帳の紹介の中で>
『龍源寺が宗門人別帳に載っている。弘化4年(1847) 百姓源次郎、孫として勝五郎14歳。天保9年勝五郎5歳孫とされている。昭和63年上石原の中村家から発見されている。昭和3年が慶応4年の戊辰の役から数えて1回目の60年目に相当し、子母澤寛が新選組始末記を発行した。昭和63年は戊辰から数えて、2回目の120年に相当、勇の名前が勝五郎にまちげないと発表された。60年目の繰り返しに変な因縁がある。
勇伍郎の没年は83歳で私(豊治さん)は2歳も越えてしまった。もう3回目を迎えるのは不可能である』
熱弁の中でも時折、聞き取り難いこともあったが、既に85歳の御高齢にあることに無理のないこと、むしろ大衆前に熱弁振るう元気さに頭がさがる。しかし、何時まで続けられるやら心配もある。

②「談話会休会中の事実」
時の経過はお仲間の一人「近藤勇と新選組の会」会長 土方貢氏も昨年逝去され、残念な旨紹介された。
土方貢氏は勇を愛し、「多摩に勇ありき」で以下のように尽力された。
勇の座像は、近藤勇没後130年の記念事業に「近藤勇と新選組の会」が、平成13年10月8日に建立したもの。
新選組本ではお目にかかれない、勇の略歴を背景に地元ならではの幕末の調布の紹介した「幕末・多摩と近藤勇」を著述された。
個人的には談話会で土方貢さんとお会いし、モダンな出立姿のスナップ写真を撮ってお送りし、丁寧なご挨拶を頂いた。
そのうちに杯を交わし、勇を背景に深大寺や天然理心流門下であった名家田辺家など調布の蘊蓄をお聞きすることも、約束されたが、遂に叶わぬことになってしまった。
謹んで土方会長のご冥福をお祈りする。

などなど、欠落した会合の中で、身の回りで色々なことが起きていることに、驚きと、さみしさと複雑な気持ちの集まりでもあった。僣越ながら、戦友を失う中で、勇の貴重な生き証人。何時までも頑張って、新選組を語り継いで頂きたい。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

京急沿線に龍馬を追う

Image1                         <おりょうさんの街、大津>

京浜急行の沿線には龍馬の関わりが大変多いことは既に当ブログでも紹介している通りである。
全国的に大雨が災害を起こしているが関東では梅雨開けとも思える、夏のの日が容赦無く照りつける中、又来てしまった。
京浜大津は閑静な住宅地で駅付近に僅かな店があるが、淋しい場所である。「おりょう」の墓がある「信楽寺」がここにあり、その姿に明らかに「おりょう」をフアンが三々五々訪れている。
京で「龍馬」と出会い、寺田屋で深手をおった「龍馬」と手を携え、 九州での新婚旅行など蜜月の時代を送ったが、「龍馬」は新国家創成に日本中を駆けめぐるなか、襲撃され亡くなってしまう。「龍馬」との生活は僅か3年程で、あるがその後30年近くを横須賀で再婚し、暮らしている。墓も立てられない零落した暮らしぶりであったようだが、「龍馬」との事実が判り、没後立派な墓が立てられた。

Image2111                                      <はまかわ砲台>

京急を上り「立会川」で下車する。
「おりょう」さん見たら「龍馬」に寄らない訳には行かないだろう。
「龍馬」は、嘉永6年(1853)3月に土佐藩を後に剣術修行の江戸に着くが折しもペリー艦隊が浦賀へ、更に羽田沖までに侵入する。幕府より各大名へ湾の警護を命ぜられ、土佐藩は立会川川口付近にあった土佐藩の下屋敷(現品川区大井)警護のために砲台を設置する。江戸詰の武士を含め一兵卒だった「龍馬」も動員される。
この「浜川砲台」見た黒船が「龍馬」を国防の必然性に心を開いていく。
浜川橋のたもとから立会川が海に注ぐところまでが土佐藩抱屋敷であった。「龍馬」は屋敷と砲台を通ったのである。
砲台で使われた基礎の石が見つかり、砲台跡に飾られ往時の姿を僅かに留める。駅には等身大の龍馬像が出迎えてくれる。

Image11111                                     <吉田容堂の墓>

「立会川」駅から第一京浜を越えて浜川中学校側に行き、広大な土佐藩の下屋敷跡を確かめる。第一京浜を上り鮫洲に向かう。第一京浜に面した高台に大井公園に到着するも、此処も下屋敷の一角にその大きさに驚く。
ドラマでは丁度、吉田容堂は、吉田東洋を暗殺した土佐勤王党の大弾圧に乗り出し、首領の武市半平太(瑞山は切腹を命じられ、他の党員も死罪などに処せられ、土佐勤王党は壊滅させられた。
容堂は幕政に参画し井伊直弼、安政の大獄で謹慎。文久3年(1863年)京都で会津藩・薩摩藩による長州藩追い落としの軍事クーデター(八月十八日の政変)佐幕派による粛清の猛威が復活した。容堂も謹慎を解かれ、土佐に帰国、土佐勤王党の大弾圧が行なわれた。
明治政府樹立まで、徳川宗家温存路線を押したが、薩摩・長州勢に主導権を握られ討幕に押し切られる。
ドラマでも酒を欠かさず飲んでいる姿に、情が入っての意見の変化が多いようである。
晩年武市瑞山を殺してしまったために土佐藩内に薩長に対抗できる人物を欠いて新政府の実権を奪われたと考え、これを悔やんだとも言われている。
その吉田容堂の墓が大井公園にある。かっては眼下の江戸湾が拡がる眺めの良いところで、巨大な石階段が隆盛を誇った財力を物語っているが、年月の経過に石段が歪んでいる。
吉田容堂の墓から海側に進路を取り、旧東海道を品川宿まで歩き、この暑さに倒れこむ様に品川駅へ

因みに京急沿線では神奈川駅の旧東海道の神奈川宿(現台町)にはおりょうさんが勤めた割烹旅館「田中家」がある。更に横須賀中央駅から米が浜通りには西村松兵衛と暮らし此処で亡くなった終焉の地碑とおりょうさんの胸像が優しく出迎えてくれる。

このように京急沿線は、旧東海道、土佐藩屋敷、砲台、おりょうさん終焉地、海軍基地など龍馬との接点が多いのである。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

「甲州街道歩き」真っ盛り

Img_1469111 

江戸日本橋から下諏訪に至る「甲州街道」は昨今のウオーキングブームもあって、各地の観光協会や国土交通省が支援している。
「甲州街道」は江戸と甲州結ぶ物流の大動脈でもあり、幕府の力を象徴する参勤交代、甲州勤番の旗本の往来、将軍家用の宇治茶を運ぶお茶壺道中など幕府の大事な要路であった。
慶応4年には倒幕に勢いを得た東征軍が江戸城を目指し、迎え撃つ甲陽鎮撫隊が江戸から向かい勝沼で戦い、破れた往復の要路であった。
明治13年明治天皇の京都行幸では貞愛(さだあい)親王・太政大臣三条実朝以下供奉した騎兵・馬丁300人以上の大部隊が巡行されている。

Img_08131

その原点たる「甲州古道」を自らの足で歩き、往時の世界を確かめてみた。
「甲州古道」はJR中央線や国道、更に中央自動車道などの建設でずたずたに寸断され廃道になったり、現在の国道に重なったり、一言に「甲州古道」と言っても、地図にフォローされているわけではないので、それを見付けながら辿るのは中々難しかった。
「甲陽鎮撫隊」の近藤勇や土方歳三ら幹部の馬上姿、大砲2門・武器弾薬の長持ちを抱えた隊列を追って、この甲州古道を下って見た。
ゴロゴロとした足場の悪く、急峻で厳しい小仏峠は想像以上にきつかった。景信山や高尾へ向かうハイカーの群れから離れ熊、いのしし、へびの類が何時現れてもおかしくない、甲州古道の小原宿へ向かう淋しい山道は己一人であった。

そんな「甲州街道」歩きが今や日の目を浴びている。TV等でも「甲州街道」を三田村邦彦、舞の海らが甲府まで約140㎞の道程を4人で街道沿いには電車や
車では見られない、名所旧蹟、美しい風景、隠れ名店などの光が当てられ、追い風にもなっている。

梅雨真っ盛り、うっとうしい毎日が続いている中、本陣のご案内であった。
午後の一時、雨傘はもとより雨合羽で完全武装した、初老の男女軍団が到着した。
雨の中、府中からの行軍で、土間の上がり縁にどっかりと座り込み、疲労困憊で中々上え上がって これなかった。
今日は日野宿まで、時間はたっぷりあると伺う。こちらから指示するまでもなく、皆さんゆっくりと畳の上で座り込んだ。
当初の説明に初めは頷き、しっかりと反応があったが、暫くして「文久3年、1863年・・・」の説明は徐々に核心に触れて言ったが、静になり中には明らかに(-.-)Zzzzz‥モードになっている方も居られた。お疲れの所、睡魔がピークに、説明が子守歌になったようであった。
考えてみれば此処は参勤交代の御休息所、歳三も京の疲れに昼寝。旅の疲れにじっくり休むのも、現代でもしっかり役割を果たし先人の残した伝承を継いでいる場所と改めて確認した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年6月 | トップページ | 2010年8月 »