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輝いていた「近藤長次郎」

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大河ドラマもいよいよ薩長同盟が結ばれ、倒幕の流れに潮目が変わっていく。
その間、歴史に関わる人物が次々に登場し、消えて行く。その一人が亀山社中の「近藤長次郎」であった。
その役回りが北海道で人気を博し、さっそうと中央に躍り出た今なお北海道を地盤に今をときめく役者さん「大泉洋」である。ドラマでは龍馬と共に船で最前線で携わり海運日本の先駆けを作って行くが、その過程で実にせつない死で「大泉洋」版、「長次郎」の悲劇のヒーローが生れていく。
本人曰く、僅かに残された「長次郎」の写真がそっくりさんであるのも抜擢された理由の一つと言われているが、「大泉洋」の人懐っこい、明るい朗らかなキャラクターが、そのまま「長次郎」のイメージに染色されてしまった。だから最後のあっけない死はとても切ないのである。
ここで「長次郎」はどんな人物であったか、あれや、これやと書いてみた。
◇饅頭屋から逸材
高知城下の饅頭商人の息子として生まれ「長次郎」自身も饅頭を売り歩いていたため、はじめは苗字がなく「饅頭屋長次郎」と呼ばれたが才覚優れ名字帯刀を許された。幕末期に「饅頭屋」と言われる特異の存在に思いつくことがある。ドラマでも登場する新選組局長「近藤勇」が天然理心流の剣術修行時代の兄弟子にあたる「島崎一」も実は「饅頭屋」出身である。
「島崎一」の生家は小山にあり家号「饅頭屋」と言い、普段は百姓を行い、村祭の折や、頼まれた時に饅頭を売ったようである。竹刀で「勇」と勝負すると何時も「島崎一」が勝ったと言うから、「勇」を持っても饅頭屋にかなわず技は「島崎一」が一枚上、度胸は「近藤勇」が一枚上だったと言われている。

◇海運の道に
「長次郎」はその才能を山内容堂にも認められ名字帯刀を許さた上で神戸海軍操練所に入る。土佐藩出身である坂本龍馬と共に海援隊の前身である貿易の結社である亀山社中を薩摩藩の支援で長崎に設立する。
英語など語学力始め優れた才覚を持つ「長次郎」はグラバーなど商社を通じて銃や船を買いつけ、長州藩に売るなど、亀山社中の中でも中心的役割を果たす。

◇長次郎事件
「長次郎」は汽船ユニオン号の長州藩への売買に、尽力したことから、長州藩から謝礼金を受け、その一部を仲間には内緒でイギリスへの留学費用に充当し、海外へ向かおうとした。しかし、乗船した船が悪天候のため長崎に引き返し、海外行きが発覚される。所謂公金横領のかどで、亀山社中の隊士からの指示もあって自害したと言われている。「饅頭屋」の出身の「長次郎」は名字帯刀を許さた武士の身分で散ったのである。

◇「長次郎」の残された写真
悲劇的な末裔のその後、息子の「百太郎」は父・「長次郎」の足跡を求めていろいろと旅するうちに行方不明になってしまったと言われている。孫に当たる「百太郎」の娘さんも、戦時中、疎開先の福井で、焼夷弾に被弾し亡くなった。
「長次郎」の写真や手紙が唯一、後世に語りかける姿である。

◇「大泉洋」から語り伝えたいもの・・・本人のコメント(抜粋転記)
1)長次郎さんの最期
『そして、龍馬伝はとりあえず地獄の撮影を一旦終えました。
長次郎さんは残すところあと数シーンです。
この一週間はずっと亀山社中のみんなとのシーンを撮っていました。
あのね、長次郎さんの最期の回は本当に切ないわ。
社中のみんなとお別れするのも辛いし、なんだかずっと切ない気持ちのままの撮影でした。
深夜2時に撮影が終わって次の日もあるのに、そこからみんなで飲んだりもしました。
福山さんが飲ませてくれるお酒は本当に美味しいのよ。
大変な撮影でしたが本当に楽しい撮影でした。
社中のみんなとのシーンはもう無いけど、長次郎さんの大事なシーンがまだ残っています。
長次郎さんに恥じないように一所懸命に頑張ります!!』
2)スタジオパーク
「僕スタジオパーク出られるのめちゃめちゃ楽しみでね」「実は憧れてましたよ」

◇最後に
北海道ローカル版『水曜どうでしょう』から、全国版へブレーク、そして大河ドラマの出演、憧れのスタパへ登り詰める。「近藤長次郎」の道産子スターが今一番、輝いてみえました。

あの、切ないシーンの残像が何時までも、引きずって・・・。

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「佐藤彦五郎」来世の世界を思う俳句

Image21            <佐藤彦五郎の居室として使われた部屋>

年々暑くなる中、日野宿本陣で内輪を煽りながら僅かな冷気に何とか息継いでいる。そんな中で協会の好意で用意された冷茶サービスは暑く渇ききった喉を潤す、恵みの水である。
そんな本陣で一番奥の部屋は「下の間」「中の間」が手を加えられ、12畳半の部屋で晩年の彦五郎の居室として使われた。折しもこの暑い季節に彦五郎は趣味の俳句を起こしている。
俳句の背景に歴史の流れの一部を振り返ってみる。

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慶応4年(1868)3月、江戸城開城を目指す官軍が勝沼で新選組を母体とした甲陽鎮撫隊を撃破し、日野宿に乗り込んでくる。農兵9人が呼び出されたが、皆逃げ去ってしまった。その日の夜中に下名主の佐藤家に官軍が踏込み、粟之須村忠左衛門、平山村惣二郎、日野久兵衛が縛り上げられた。近藤勇が官軍を迎え撃つために甲府へ赴く時、兵卒の募集や兵器の供給をもっぱら日野宿で行い彦五郎は勇に協力していると聞いているので捕縛しようとした。彦五郎は書類や武器を処分し、妻「のぶ」と子供を連れて太久野村(西多摩郡日の出町)へ既に逃げ、近隣の関係者は親戚知人を頼って身を隠すなど宿内はこれまでにない緊迫状態に包まれた。長男源之助は見つかり、官軍の本営で彦五郎の行方など厳しい取り調べを受けた。同年4月、勇は流山で掴まり板橋で処刑される。
幕府を支えた日野宿が幕藩体制が音を立てて崩壊していく歴史の転換を目の前の官軍を前に身を持って受け止めていた。
助命嘆願が叶い隠れていた彦五郎は漸く帰ってきた。
明治維新を迎え、漸く落ち着きを取り戻した宿ではあったが、明治10年雪の降る日に「のぶ」が47歳で亡くなる。

宿での要職は息子の源之助に譲り、彦五郎は悠々自適の世界で暮らす。天保8年(1837)祖父彦兵衛が隠居し、11歳の彦五郎が名主に就き、18歳の折に土方歳三の姉、「のぶ」を妻に迎えた。幕末の激変する渦に巻き込まれ、幾多の波を被りながら宿を守ってきたが、ふと周りを見ると既に誰も居なくなってしまった。

そんな心情を込めて、ここでこんな俳句を残している
「行く先は知らねど知れて夏野越」
死んでから行く先のことまでは知らないが、もうそろそろお呼びがかかる頃だということは判っている。それにしてもこんなに弱った体、よくもまあこの夏の酷暑を乗り越えられたものだ、若い頃天然理心流で鍛えたお蔭かも知れぬ。
彦五郎は自分の人生を振り返って、満足し、ああ~そろそろ、「おのぶさん」の所、近藤や土方の所へ行けるなあ。と言う事を思い浮かべながら、亡くなったのでは無かろうか
その彦五郎は明治35年9月、76歳で亡くなる。

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