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龍馬のもう一人の妻「千葉佐那」

Sanako302                      「千葉佐那」が眠る甲府市朝日町の「妙清山清運寺」

「龍馬のもう一人の妻」として生涯を閉じ「千葉佐那」は江戸から離れた甲府に何故、埋葬されたか、甲府まで赴き、「佐那」の姿を追ってみた。
「佐那」は天保9年(1838)3月6日に「千葉定吉」と「たき」の長女として誕生する。
「佐那子」「さな子」など文献等から記録が残されている。
父親の「定吉」は北辰一刀流の開祖である「千葉周作」の弟で「桶町道場」と称され環境で育っている。
「佐那」は小太刀に優れ、北辰一刀流小太刀免許皆伝を持ち、長刀師範も務めた。美貌で知られ「千葉の鬼小町」あるいは「小千葉小町」と呼ばれ江戸の町では評判となったと言われている。
嘉永6年(1853年)、「龍馬」は剣術修行のための1年間、江戸遊学し、北辰一刀流の千葉定吉道場で「佐那」と出会う。
「桶町千葉」で「佐那」が「龍馬」に腕試しを願い出る。稽古は師範役の重太郎と佐那が当たり、剣術稽古とも併せ、龍馬19歳、佐那16歳師弟の間柄を越えて、若い男女の二人が自然とお互いに好意をいだくようになったと考えられる。

Image1                             <大河ドラマから>

桜田門外の変を受け、尊王攘夷思想が土佐におよび「龍馬」「土佐勤皇党」に加盟し文久2年(1862年)3月「龍馬」は脱藩し、土佐を離れる。再び江戸へ千葉道場にも潜伏するなど長州・薩摩など転々としている。
文久3年(1863)8月「龍馬」が姉の「乙女」あてに手紙を書いている。
馬に乗り、剣も強くて、長刀も出でき、力は普通の男よりも強い。十三絃の琴を弾き、絵も描き、物静かな女性。顔形は平井加尾より少しいいとのこと。「龍馬」は「佐那」と出会ってから10年後、密かな想いをこのように書いて、姉に打ち明けている。
慶応2年(1866年)1月「龍馬」の奔走により「薩長同盟」が成立。伏見寺田屋へ戻り祝杯を挙げたが、伏見奉行が「龍馬」捕縛の為に200名が急襲する。「龍馬」は危うく逃れたが瀕死の重傷を負うが「おりょう」の渾身的な看病で助けられ、後日祝言を上げる。傷の養生をかね、九州の霧島などハネムーン旅行など蜜月の時代があったが、慶応3年(1867年)11月、京の醤油商「近江屋」で暗殺集団の手で襲撃され絶命する。
国事に東奔西走する「龍馬」は自然と「佐那」の間が離れてしまい、「龍馬」の死がどのように伝えられたのであろうか

◇「佐那」その後を伝える新聞記事
「佐那」は横浜に移って貸し長屋を建てて生活を始め明治7年(1874)鳥取藩の元藩士「山口菊次郎」と結婚する。
しかし菊次郎は多情で、身持ちの悪さなどから離縁し、明治14年秋には横浜を離れ千住に移り住み亡くなるまで再婚しなかった。
従来、「佐那」は独身を貫いたと言われていたが、横浜の毎日新聞(現在の毎日新聞とは無関係)が「佐那」が一時期結婚していたことが、新聞紙上で報じられた。・・・2010ー7(毎日・東京・日経など)

明治15年(1882)桶町から千住(現千住1ー4)に移り、「千葉灸治院」始めた。明治21年(1888)に更に現仲町1ー1に移って灸治院を続けている。明治25年(1892)に「小田切謙明」と妻「豊次」が「千葉灸治院」に来院し、針灸を通じて「佐那」と深い絆が生れる。
佐那」は山梨の小田切家に訪れ針灸による渾身的な治療など往き来があったようである。
「佐那」が「豊次」を訪ねた折りに、山梨日々新聞記者が取材している

明治29年(1896)10月15日「佐那」は千住にて病気で59歳の生涯を閉じる。遺骨は東京府(現東京都)谷中霊園に埋葬されたが、無縁仏となりその後判らなくなった。
「佐那」が亡くなった後、「豊次」が谷中墓地に墓参りし無縁仏になると、危惧し、分骨して貰い甲府市朝日町の「妙清山清運寺」
の小田切家の墓所に埋葬したと伝えられる。「佐那」にとっても当地甲府は前述の通り無縁ではなかったのである。

以下で詳細をアップしています。

もう一人の妻、千葉佐那

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