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竜馬・おりょうが奏でる唄

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後何カ月、後何日、終わるぞ~終わるぞ~
前宣伝もあったが、最後のシーンでポテンシアルを上げていく制作意図に載せられ、しっかり見てしまった。
亡くなる寸前まで陽気で明るく振る舞う竜馬が近江屋で竜馬と中岡が暗殺される凄惨なシーンはどんな形ででドラマは終わってしまったのか、甚だ興味があったが、"明"から一気に"暗"にその落差が自然に涙腺を緩め、"うるうる"させる所なのであろうか、福山雅治のもって生まれたキャラクターと見事な演技であった。

「よう来てくれた。会いたかったぜよ。今この時を大切に生きとおせ。頼んだぜ 日本の未来 おんしに。龍馬」
というメッセージが書かれ、二人が温かく迎えてくれるのが横須賀大津の信楽寺である。

台の上に繊細な木彫りの「龍馬」と「おりょう」の二人が座敷の上に仲良く並んで 座っている。
二人の前には楽譜台と脇には見慣れぬ楽器が据えられ、今にも二人の唄がかなでられるように、生き生きとした姿が目に映る。
見慣れぬ楽器は何であろう?。その姿は琵琶に似ているが、清国伝来の弦楽器「月琴(げっきん)」である。
弦をはじくと、琵琶に似ているが、やや高く甘い音色がすると言われている。
「龍馬」が長崎に居るころ、聞き慣れない音色に、取りつかれ、好奇心旺盛な「龍馬」は唐物屋に飛び込み、正に衝動的に買い求めた。長崎から「おりょう」のもとへ、「龍馬」が最初に贈ったのが、この「月琴(再現品」である。

東奔西走する「竜馬」は「おりょう」の前に居るのは束の間であり、せめてこの「月琴」が「竜馬」の身代わりと思って抱き、唄って欲しい。しかし、そんな願いも叶わぬまま、 「おりょう」の前から消えてしまった。

そんな二人の絆、「月琴」の音に併せて高らかに唄う「おりょう」の姿に心打たれ、此処信楽寺から立ち去り難かった。
以来、その音はどんな音か、またそれに併せて「おりょう」がどう歌うのか、気になった。
果せるかなドラマの最終回でその演じる姿が歌の響きが、ああ~これなのかと、テレビの前で聞き耳を立てた。

信楽寺で手招きされるまま、近くに寄ってみる。幽玄な世界、二人の前に一緒に座り、仲睦まじい二人に当てられながらも、その姿を一人じめしてしまった。長崎、下関以来の再会が此処、二人の念願が叶い、ここ信楽寺で実現したのである。

「龍馬」の駆けめぐる姿を追っかけ、最後は「おりょう」との隣あわせる姿に終着点までたどり着くことが出来た

その信楽寺はこんな所にあります。竜馬の妻おりょう

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「新選組のふるさと・日野を歩く」

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新選組のふるさと・日野を歩く」幕末歴史史跡散歩が実施され、その案内役の大役を仰せ使った。
前日からの雨も朝になっても、益々雨足激しく、こりゃだめかなとも思いつつ、時間の経過と共に雨が上がり、どんよりとした雲間に青空も見えてきた。
事前広報にローカル新聞他に案内を出したが、読売の夕刊に「で かける」が多数の申し込みを生み40名を越える大盛会になってしまった。
前々日、案内の傍ら物を直に見てもらうことも、印象的な巡り旅になるだろうと旅案内人は石田散薬のミソソバ探しに、浅川の支流沿いに走り、漸く見つけ、枯れないように水気を含ませ、新聞紙に包み大凡20本近くに小分けして、当日持参した。
紅葉で真っ赤に燃える高幡山を背後に高幡不動の歳三像前で集合する。高幡山のお住職の案内により奥殿・大日堂を案内してもらう。
境内は出店も出て、メインイベントの高幡不動尊万燈会で何時になく人で一杯の中40人の集客に囲まれる中、正義のために命をすてた近藤勇昌宣、土方歳三義豊「殉節両雄の碑」でいよいよ案内が始まる。
この日のためにと思い、学生時代の期末試験にふともどって、万端準備したが、緊張の余り、言葉が出て来ない。当日は某国の首相も言質を損なわずメモを活用しているが、それを真似するわけでは無いが、言葉やデータの誤りに思わぬ波紋を起こさない為にもメモは離さず活用した。
碑の前で新政府が「朝敵となった人の祭紀、慰霊を許す」と許可したが建立まで14年の歳月がかかった戊辰の怨念が聞く方にどの程度伝わったか、隣の出店の流すスピーカ音も気になりはてさて何処まで伝わったか? 反応を確認する余裕もなく、隊列はスタートした。

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牛の額の様なユーモラスな形状が牛額草、右側に可憐な花が咲いている

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高幡の雑踏をくぐり抜け静寂の向島用水にたどり着く、コンクリートから柔らかい土の感触を確かめながら当初、予定したベンチで本日の出物、牛額草(ミソソバ)を披露する。
牛の額をもじったミソソバはほぼ全員に渡った。石田散薬にならずとも、"しおり"にすれば何時までも、この一見ユーモラスな姿に歳三の姿を重ねあわす事が出来る。
酒に含んで飲めば、鉄分+アルファーとアルコールの血行促進で効用もと、用意した石田散薬も瞬く間に手を離れ、歳三の遺稿はこんな形で伝わった。散薬を通じて歳三の世界へ、見るだけなら結構、食にするには自己責任でとお断りしてお渡しした。

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ふれあい橋で遥か離れてしまった高幡山を振り返り、もうあんなに小さくなった五重の塔の姿を確認する。
甲陽鎮撫隊として勝沼戦争で破れ、高島藩の先導で新政府軍が日野宿に厳しい探索の手が入り、あのこんもりした高幡山も隠れ場所になった説明に頷いていた。
前日の激しい雨で、側面から流れた土が混入し、よどんだ姿で水かさも普段より多く勢い良く流れていたがお蔭様で今日の旅を支援してくれるように雨の心配はなかった。
15時ぴったり土方資料館に到着、この長い行列を予定通り案内出来た事に先ずは一安心。
資料館で直に歳三姿に触れ、たっぷり英気を貰う、この史跡散歩に特別に開放してもらったが、その集団の入場につり込まれ、通りがかりの一般客も、一緒に入れ、喜んでいたようであった。

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さ~て、問題はモノレールの向こう側、入り組んだ道に、多少戸惑いながら、何とか、とうかんの森、歳三の生家跡にたどり着けた。
とうかんの森は今でも繋がる土方一族がお稲荷さんを守っているが、天空高く伸びきった木の近隣への落葉の始末に枝落としか、或いはかなりの部分の伐採か、その処置が検討されているようであった。その話を聞き、数日前此処へ訪れたときにはかなりの幹に識別のテープが幹にまかれてあったが、当日はそのテープが無くなっており、どのような確認がされたのか大変気になった。
まあ、この姿が何時までも残るように、お稲荷さんに祈りつつも、しっかり、その姿を見届けておいた。

北川原公園で階段に登り、多摩川と浅川の合流点にあたるこの付近は出水も多い。
弘化3年(1865)記録的な大雨で歳三の家も三つあった土蔵の一つが流され、母屋も時間の問題と村中総出で現在の家に移築した事実を追ってみた。そのときの大雨で渡し船が川留めとなり、溜まった人と物を満載し、出船した船が転覆 30とも、50名とも言われる溺死者が遥か川崎まで流された悲惨な事故も、見通しの効いた場所で紹介した。

いよいよ最後の石田寺へ、歳三と両親、兄弟、そして粕谷家へ養子に行った兄大作が残した碑文など墓石に手を合わせて紹介した。
歳三の墓域から、出入り口側に位置する新井の土方勇太郎の墓の所在を確認頂く。歳三と同じ時期に天然理心流をならい同心として最後の日光勤番で歳三と出会い最後の別れをした勇太郎を紹介する。宇都宮戦争の白兵戦でたじろぐ味方を斬って鼓舞、宇都宮城を落とした時のことを気にかけ、せめても墓石を建ててくれと頼んだ歳三の話と、その勇太郎と歳三が声をかければ届く位置に眠っている事も併せて紹介する。

既にうす暗くなった時間に拙い説明に最後まで耳傾けていただき、六地蔵の前でお別れの挨拶、拍手を頂き、感動の一時であった。

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江差で念願の「開陽丸」と対面

                                                      < 江差港>

Img_91791 毎年の北海道旅行、豊かな大地、その魅力にとりつかれもう何回続けたろうか、恒例行事になってしまった。
同乗者の意向もあって、ごく一般的な旅に道央か道東で、偏った新選組絡みの道南は封印していた。
まあ、そんな折り、拝の特別な思い込みから、同乗者の理解もあって今年は道南ということにしてしまった。
道南と言うと定番の如く五稜郭と函館山周辺であるが、どうしても、幻の「開陽丸」ガ見たかった。
そこで鯨の尾っぽもような渡島半島を旧幕府軍が上陸した鷲の木の内浦湾(噴火湾)から縦断し、日本海側に出て、新政府軍が上陸した乙部から江差にきてしまった。

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江差の町並みに高い建物の合間から、あの超高い3本マストがちらちら見えるころ、あれが目標の「開陽丸」だと興奮冷めやらなかった。
鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍はやぶれ、未だ戦闘体制のある中で徳川慶喜は、大阪から「開陽丸」で密かに逃げ、品川沖から上陸し江戸城へ向かった。江戸開城後、今度は榎本武揚が抗戦の意志を持つ、脱走兵を集め、旗艦「開陽丸」として艦隊を組み品川から蝦夷へ目指す。
榎本艦隊は品川沖を就航間もなく、銚子沖で暴風雨に遭遇し、乗船者共併せ、「咸臨丸」、「美賀保丸」を失ってしまう。
「美賀保丸」は銚子沖で座礁し沈没溺死する者、捕縛され処刑されるなど犠牲者が生れた。「咸臨丸」は相模湾を漂い、清水港で追討の軍艦を差し向けた新政府軍が白旗を掲げ降伏の意志を示す咸臨丸に乗り込み、乗組員を惨殺し36の遺体が清水港に投げ捨てられる悲劇も生まれた。
品川から逃走した「開陽丸」は途中で仙台に寄りその後加わった「大江」「「鳳凰(ほうおう)」2隻と仙台に結集した奥州諸藩やその他の旧幕府軍を収容し大鳥圭介や、土方歳三など幹部と彰義隊、伝習士官隊、砲兵隊、新選組など中小所隊を加え、総員およそ2300余りと言われている大部隊を蝦夷の地へ送り込んだ。
旧幕府軍は函館を落とし、榎本は「開陽丸」に搭乗し、函館に入港する。21発の祝砲とどろく中を上陸し、五稜郭に入った。
函館戦争で榎本が一番の得意とした場面であった。榎本の乗船する「開陽丸」は江差沖に到着、江差弁天や愛宕山の台場に砲撃し、陸兵を上陸させ、殆ど抵抗もないまま占領する。
所が夜になり、風雪猛烈をきわめ、ついにいかりが引かれ、どんどん岸辺に押し流され、暗礁に乗り上げ自由を失い数日後沈没する。
明治元年(1868)殆ど函館戦争で戦えず此処江差港で没してしまう。
最初の太平洋横断など華々しくデビュした「咸臨丸」は明治新政府の配下となり北海道開拓の一用船として北海道開拓使用達(ようたし)の運送業者に払い下げになり、物資・人員の輸送に当たる。しかし、同船も「開陽丸」の後を追うように明治4年(1871)函館港外で座礁、全壊し海中に没している。
荒れ狂う海にその姿を消してしまい、品川沖で手を携えた両船とも北の海で、没したのも何故か因縁めいている。
その姿を追って此処江差まで着てようやくその雄姿を前に感動した。

Img_92761 幕末の戦争遺稿として江戸湾にあるいは横須賀に台場跡を見てきたが、何れもだけで、殆ど何も残っていなかった。
そんな意味で、目の前の「開陽丸」と引き揚げられた大量な砲と砲弾の生の姿にようやっと出会い、戊辰戦争の終幕を活字からの想像の世界から当時の世界に巻き戻してくれた。

奉行所の復元で賑わう五稜郭に引き換え、江差の「開陽丸」は初年度12万に達した入館者も年を追って減少、最近は年間2万人ということで平日でもあったが、入館者は少なく寂しかった。
陸路伝いに江差の町に入り、遠目の雄姿から、いざ甲板に上がってみると、復元後の長い年月に、海風にさらされ、かなり木部の痛みが目についた。しかしそれも今年(2010)11月から改修するようで、化粧された姿で再びフアンの前にデビュウするようである。
そんな暴れ回る海難を引き起こした江差の海は、風もなく、波もなく全く静かな海であった。
江戸からはるばる蝦夷の江差へ、そして後ろ髪引かれる思いで「開陽丸」に別れを告げた。詳細は以下でご案内

開陽丸

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竜馬・おりょうハネムーン

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郵便物がどんと届けられ、宛て先を見ると薩摩のおごじょさんからであった。
はやる気持ちに駆り立てられ早速開けると、薩摩ならではの尚古集成館の記念グッズセットなど薩摩色豊かな贈り物など頂いてしまった。
中でもこの時期、霧島温泉の「湯の花」はこの時期大変タイムリーな頂き物であった。
因みに薩摩おごじょさんのふるさとはこんな神聖な「高千穂の峰」を仰ぐ素敵な牧園町なのである。
大河ドラマの筋書きをちょっと巻き戻し、亀山車中の代表となった「竜馬」を幕府転覆を企てる人物として、幕府捕り方の追求の矛先となる。
潜伏先を嗅ぎつけられ遂に200人に及ぶ幕府捕り方大集団に囲まれ乱闘となる寺田屋事件が発生し、「竜馬」は危うく命は取り留めたが、両手に深手の瀕死の重傷を負う。

おりょうの咄嗟の知らせに捕り方とピストルで対峙し、何とか捕縛を逃れ、薩摩藩の伏見屋敷に駆け込み救われる。当然おりょうの手厚い看護に、養生するが、二人の絆が生まれ、祝言をあげる。

事件後、未だ傷が完治してないまま、傷の治癒をかねて九州ハネムーンに薩摩船籍、「三邦丸」で長崎に向かい更に鹿児島に向かっている。
そのハネムーンが日当山、塩浸、霧島などの温泉を巡り、寺田屋で負った傷の養生に努めたと言う。温泉の効果であろうか傷の治りは早く数日後に霧島山登山し、新たに入手した短銃で鳥撃ちに興じるなど、はしゃぐ二人は最も幸せを感じた一時であったろう。
その霧島温泉の「湯の花」を風呂にしっかり入れ、湯治の二人旅を描きながら、湯に漬かり、思いを馳せることが出来る。

そんな薩摩おごじょさんの気のきいた贈り物に心は霧島に心酔してしまった。

湯船につかりながら・・・鹿児島小原節を
「花は霧島 たばこは国分 燃えて上がるは オハラハー桜島」
「見えた見えたよ 松原越しに 丸に十の字の オハラハー帆が見えた」「あ、よい、よいよいやさと♪♪・・・♪」
風呂のエコーに気分よく、薩摩島津の家紋と桜島にこよなく、気持ちをこめて・・・。
あ~あ、のぼせてしまった。

そんな竜馬ハネムーンも束の間、「後竜馬襲撃に何カ月とか何十日」との案内に竜馬終幕が師走の慌ただしさをかき立てているようである。

二人の脱出劇と蜜月の様子はここで紹介してます

龍馬の妻「おりょう」

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