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函館戦役を巡る旅、4「五稜郭、奉行所、千代ケ岡台場」

Img_93371函館戦役を巡る旅もいよいよ五稜郭へ
函館で泊まったホテルが、ビル郡を押し退け市内を俯瞰する函館のシンボリックな五稜郭タワーが目の前であった。タワーの右側の緑は五稜郭の五稜郭公園である。あの星型の変わった城郭は近寄っても、何も判らない。高いところから全体を俯瞰し、始めてその美しさが伝わってくる。函館戦争の最後の総力戦も、新政府軍がどのように上陸し、両軍相まみえる姿はやはり此処からである。
タワーから五稜郭は繋がっており、新装復元した奉行所とも合わせ、観光のメッカか、一般客とも合わせ女子高校生の大量の群れ、タワーに上がると、何やら中国語、韓国語が飛び交い、国際化の真直中であった。
五稜郭はヨーロッパの城都市を参考に設計された西洋式土塁である。城堡と呼ばれる5つの突角が星形の五角形状に土塁がめぐっていることから五稜郭と言われている。郭内には最近(2010年)に復元された函館奉行所庁舎とその付属建物20数棟あったが、写真の通り僅か、3棟が復元されているのみである。写真の手前側の三角形状土塁は半月堡で郭内の出入り口を防御するためのものである。元々星形の五角形状に合わせて5箇所ある筈であるが、工事規模の縮小により、1箇所だけになっている。

             < 復元された函館奉行所>

Img_93721では、140年振りに姿を表したその奉行所に行って見る。
元々函館山麓にあった奉行所は元治元年(1864)五稜郭内に完成し業務が開始され、蝦夷地の統治や開拓、諸外国との交渉など幕府の北方政策の拠点でもあった。戊辰戦争の最後の戦いとなる函館戦争の舞台となり、屋根の太鼓櫓は新政府軍軍艦からの砲撃目標となり多数被弾した。旧幕府軍により約半年間占拠されたが、新政府軍の奪還により五稜郭は開城され、国内を内戦状態となった戊辰戦争も終焉を迎えた。明治4年(1871)に開拓使により奉行所庁舎は解体されてしまい目の前から消えてしまった。

140年経過した2010年、全国から集められた宮大工など、日本の伝統建築が受け継げられた匠の技が4年の歳月をかけて丹念に作られた美しい姿が再び表した。その一つの広間は精巧で繊細な欄間と言い、和室の奥の深い伝統技術に日本間のすばらしさをたっぷり堪能した。復元されたのは当時の1/3,1000㎡と言われるから当時の計り知れない大きさに蝦夷地を統括した奉行所の重さを感じさせられる。
奉行所の案内人に愚問とお思いつつ、「五稜郭内での歳三の亡骸はどの辺か」と聞いてしまったが、元より判るはずもなかった。
諸説紛々としている中で恐らく、この五稜郭内で埋葬されているとの発表が盛んにあるが、未だ判っていない。

再びタワーから目を転じると立待岬から函館山の姿手に取るように見える。函館山を挟んで弁天台場の反対側に立待岬が台場の死角となり上陸地点にしている。この函館山は市街地を俯瞰できる場所にあり、戦略上の重要な拠点となるであろう。
夜明けをもって新政府軍の艦砲射撃の音が鳴り響いた。
砲撃を合図のように新政府軍の奇襲部隊が函館山背後と弁天台場側の山瀬泊(現入船町)から上陸し戦闘になり、市中は分断され台場は孤立する。
敵兵を迎えた旧幕府軍は混乱し、函館山、寒川、弁天台場で多数戦死する
その立待岬はご覧の通り、切り立つ岸壁が海岸に取りつき人おも寄りつかない、自然の立地が要塞化している。敢えて険しい崖に取り付き山頂へ目指した。半島の突端に位置する事から、幕府が蝦夷地を直轄する時に警備のために台場が築かれたことがあった。第二次世界大戦中は要塞地帯法で市民の出入りは立ち入りを禁じられていた。近代においても、津軽海峡からの外来に対する防衛上の拠点でもあったのである。

                  <中島三郎之助父子最後の地碑;

Img_93121千代ケ岡台場の最後は悲壮だった。
千代ケ岡台場を守っていたのは、元浦賀奉行・中島三郎助率いる中島隊12名の他砲士20名と陸軍1小隊の50数名であった。
中島三郎助は浦賀奉行所の一与力の身分にありながら日本の直面した国際危機の中で国の将来を憂い、幕府のとるべき、重要な方策、先見性を評価され 国防上必要な軍艦の建造や砲台の築造を命じられ、幕府の枢要な国務に携わった。
大政奉還して幕府崩壊し与力・同心も解散するなか、幕臣として主家徳川に殉ぜんと決意し、長男恒太郎(22歳)と次男英次郎(19歳)および腹心の同心らと榎本武揚と行動を共にして江戸を脱出し、函館五稜郭に籠って、新政府軍を迎え討ち、二子と共に此処千代ケ岡に散下した。
「ほととぎす、われ地を吐く 思い哉」と言う辞世の句を残した。明治2年(1869)5月16日 49歳没。
大鳥圭介らに五稜郭へ退却するようにと勧告されても、中島は、「この郭は我が墳墓の地なり」と言って相手にしなかった。
新政府軍は、降伏した旧幕府軍兵士を先鋒とし、抜刀して攻め込んで来た。中島三郎助と2人の息子は大砲でこれを迎え撃つ。1時間の戦闘で半数以上が死に、中島父子も戦死した。
亡くなる前に2歳の与曽八に短刀と、家族への訣別の遺書を贈っている。中島父子を記念して千代ケ岡陣屋にあった縁の場所は「中島町」と名付けられた。幕臣として主家徳川に殉ぜんとする、最後まで武士魂を貫くところは歳三ともあい通じるが、親の後を追う二人の息子も、凄い中島町と命名される由縁で、末永く語り告げられるだろう。
この頃になると、旧幕府軍では一兵卒から士官クラスが次々と戦線を離脱し、五稜郭を抜け出し、その足で官軍に投降し降伏者の数は340余名にのぼった。
詳細はこちらで載せてます

 函館戦争を辿って 

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