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幕末の佐倉順天堂

                        <本郷キャンパスにある順天堂大学>220pxjuntendouniv1

文京区本郷キャンパスにある順天堂大学は医学部を中心とした名門である。お正月恒例の箱根駅伝では優勝11回を数える常連校として茶の間の話題に賑わしていたが、最近は各大学の宣伝効果を狙って、群雄割拠の時代を迎え、中々出幕も少なくなってしまったが、順天の名前でトップランナーを多く輩出し続けている。
その順天堂は天保9年(1838)佐藤泰然が江戸薬研堀(現東日本橋)に蘭方医学塾(和田塾)を開学し、多くの医者を輩出した現在の順天堂の起源である。
戊辰戦争では幕府方の医者として活躍する「松本良順(後に順と改める)」は「泰然」の実子であり、日野宿の名主佐藤彦五郎の4男有山家に養子に行った「彦吉」の実子も順天堂の要職に就いている。
戊辰戦争の荒波から維新の時代の流れの中に順天堂の医術ががどう関わってきたか、当時の医術の最前線ともあわせ調べてみた。

                              <佐倉順天堂>Img_97661 天保14年(1843年)、「泰然」は佐倉藩主「堀田正睦」の招きで江戸から佐倉に移住。病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」を開設する。「正篤」は、、攘夷鎖国が時代錯誤であることを痛感し、一刻も早く諸外国と通商すべきという開国派であった。
藩主としては蘭学を奨励し、「泰然」を招聘して佐倉順天堂を開かせるなどから「蘭癖」とまで呼ばれた。
一方では蘭学を認め難いと言う,幕臣もおり蘭学者にくわえた「蛮社の獄」と言われる弾圧事件があるが、「泰然」は蘭学者「高野長英」を匿った首謀者として幕府の目付役「鳥居耀蔵」に睨まれて江戸を出なければと言う諸説もある。
「高野長英は」入牢6年後脱獄したが,その後自殺する。
「佐倉順天堂」の治療は当時の最高水準を極め、蘭学の先進医療を行うとともに医学界を担う人材を育てる。
順天堂は大阪の緒方洪庵の適塾とならぶ有名蘭学塾であった。
嘉永6年(1853年)「泰然」は功績が認められて、正式に佐倉藩士に取り立てられ、町医から藩医となる。
安政6年(1859年)、病気を理由に家督を養子の佐藤尚中に譲り隠居する。
◇「泰然」の息子「順」が何故「松本順」に
「泰然」は実子を後継者にこだわらず優秀な人材を受け継がれ佐藤家は4代まで養子に継がせた。
里見の一介の医者に過ぎなかった「泰然」は息子の「順」を友人の「松本良甫(りょうぼ)」に養子に出し、松本家として幕医の地位の道を選んだのも、その一つと考えられる。
「順」は幕府軍医の責任者となり徳川家茂・慶喜、篤姫などの主治医となり、戊辰戦争では幕府方の負傷者の治療
を勤める。重傷を負った新選組の局長「近藤勇」や 、新選組隊士の診療も行った。

                              <戊辰戦争>Img_93401◇戊辰戦争では敵味方に
戊辰戦争で国内が旧幕府か新政府か揺れ動く中、時の佐倉藩主「堀田正倫」が徳川の存続を京で嘆願中、幽閉され藩主不在の中、新政府側に付く。そんな背景から佐藤家に養子で迎え入れた「進」は戊辰戦争では鳥羽伏見の戦いで負傷した会津藩兵を江戸で治療したが、東北転戦に新政府軍の医者として送り出される。幕府方は「泰然」の息子の「順」が付き、新政府側は養子「進」がそれぞれを敵味方相まみえる両軍の医者のトップとして功績を上げる皮肉な結果が生まれる。
「順」は会津戦争後、仙台にて降伏し、戦後一時投獄されるが赦免され、出獄後に山縣有朋などの薦めで軍医総監となる。
◇維新以降
明治維新後、養子として向かい入れた「尚中」は順天堂第二代堂主となり、明治新政府の要請を受け、佐倉より門下生を率いて上京し、大学東校(東京大学医学部の前身)の初代校長として近代医学教育確立に尽力した。
今日に至る以降も「泰然」の意志は継がれ、医者として有能な人物を選んだ進歩的選択は代々受け継がれているが、その一人が日野の「有山登」である。「登」は「彦吉」の次男で佐藤達次郎次女「寛」と結婚し、1955年~1984年にかけて5代目の順天堂の堂主となり、二代目の順天堂理事長を勤めている。親戚として新選組と関わりの深い「松本順」との繋がりをもっているのである。高幡不動の近藤・土方が幕府の忠節を讃える「殉節両雄之碑」の建立推進役の一人は佐藤彦五郎で書は「松本順」である。
◇生死をかけた手術手法
「泰然」が手がけた時期の手術は麻酔薬は、副作用がひどかったので、「副作用で死ぬ人が居る、生きたいのなら少々我慢しろ」と手術に麻酔薬を用いず、患者の生命力を頼って手術したといわれている。
手術をする場合は、「手術承諾書」と手術により死亡した場合、佐倉に埋葬するために必要な書類を患者に提出させていた。
当時の外科手術はそれだけ、リスクも多く、生命に関わる事だけに、実施にあたっては、当事者のみならず、藩まで巻き込んでの医療行為であった。
手術道具としての"のこぎり"も、使われたのである。麻酔を使わず、生身の体に加えられる執刀の道具に想像しただけでも、身の毛のよだつものであったか、伝わってくる。 しかし、かかったら諦められた不治の病にメスを入れ、根治に繋げられる一縷の道にかけ、患者を救っていったのである。
当時の外科手術の最先端の患者は、麻酔なしで体を切り開かれ、とても残酷なようであったが、「泰然」は、痛みより病人の命を大切に敢然と立ち向かったのであった。
安政5年(1858)蘭医塾・診療所となった建物は千葉県指定史跡になり、佐倉順天堂記念館として公開されている。

系譜を含め、詳細はこちらで紹介してます

佐倉順天堂
 

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函館戦役を巡る旅、最終回「歳三の最後、函館山山中の碧血碑」

<歳三の最後>Hakodate601

一本木を挟んで旧幕府軍と新政府軍は数次にわたる戦闘が繰り広げられる。
歳三は関門を離れ一本木浜に向かった。弁天台場近く浜に乗り上げて浮き砲台となった回天から乗員がボートで脱出しようとしたところ、七重浜方面からの敵が発見し攻撃に向かってきた。少数の兵を率いた歳三は回天乗員の援護を行い、彼らを五稜 郭方面にへ退避させた。再び歳三が関門に戻った時に、馬上の歳三の腹部を一発の銃弾が貫いた。
歳三戦死の報は五稜郭に届けられ、使者が一本木に駆けつけ、隊士の立川主税、沢忠助とともに遺体は五稜郭に運ばれ、そ の一角に埋葬された。
散る場所を求めとうとう蝦夷地にまで来てしまった。流山で別れ、地下で眠る近藤勇昌宣との再会が叶えられたのであろうか・・・。
木柵を背後に「土方歳三之最期の之地」碑が建っている。一本木浜からここの関門に戻り、一発の銃声が35年の生涯が閉じられた。
何処でも見かけるビル街の一角に小さな池と僅かな植え込みに、夫婦連れと修学旅行で訪れた女子高校生の二人組が熱心に、見入っている。五稜郭で群れなす単なる観光ツアー集団と明らかに違っている新選組フアンだと言うことが判る。こういう人達に支えられている歳三もさぞ満足にしているに違いない。碑の前に沢山の花が飾ってあった。

<称名寺>

Hakodate603歳三が戦死した4日後の15日「孤立して応援もなく、進退既にきわまりし上は、降伏して天裁を待つにしかず」(孤立して応援もなく、進退もすでに極まったからには、降伏して運を天に任せるしかない)
この言葉の通り、孤立した弁天台場では、すでに食糧が底を尽き、弾丸は撃ち尽くし、砲撃で井戸を破壊されたために飲み水すらなかった。

弁天台場のあった函館ドックから山側に登った所に称名寺がある。戊辰戦争が蝦夷地に展開され、新選組も戦線を北に移動するが新選組の最後の屯所となってしまった。歳三の供養碑やエトロフ開発など殖産興業で多大な業績を残した高田屋嘉兵衛一族の墓がある。
歳三は榎本軍に加わり函館で戦死した。その場所は一本木(若松町)、一本木鶴岡町、異国橋など諸説があるが、土方家の檀家寺の高幡不動金剛寺の過去帳には函館称名寺に供養塔を建てたと記録されている。称名寺は明治期の大火で3回も焼けて碑は存在しないので昭和46年に有志が現在の碑を建立した。墓碑には昭和29年台風で壊された新選組隊士の名も入っている。正面に「歳進院殿 誠山 義豊大居士」と野村義時(利三郎)・栗原仙之助・糟谷十郎・小林幸次郎の4人の隊士名が入っている

<碧血碑>

Hakodate803立待岬側から、案内に沿って狭い山道を碧血碑に目指すが、殆ど車の影は見られないが、碧血碑の案内看板のスペースで車を乗り捨て、奥深い山道に入って行く。
んな樹林の中、僅かな空間に碧血碑にたどり着く。碧血碑は歳三や新選組隊士を含め約800人の戦死した旧幕府軍兵士の霊を弔うために榎本ら生き残った幹部たちが明治8年に建立したものである。碑石は7回忌にあたる明治8年(1875)大鳥圭介や榎本武揚らの協賛を得て東京から船で運ばれたもので、碑の題字は大鳥圭介とされている。碧血とは「義に殉じて流した武人の血は3年経つと碧色になる」という中国の故事によるものである。
背面には、以下の16文字が刻まれている。
明治辰巳実有此事
立石山上以表厥志
「明治辰巳に実にこのことあり。山上に石を立て以ってその志を表す」
明治7年に新政府の「朝敵となった人の祭紀、慰霊を許す」を得ても賊軍の懲罰は中々溶けず、墓石の建立もままならなかった。そんな時代背景からから表現は旧幕府脱走軍の霊を公然と弔うには支障があったことが、充分伺える。
詳細はこちらで載せてます    函館戦争を辿って

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