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函館戦役を巡る旅、最終回「歳三の最後、函館山山中の碧血碑」

<歳三の最後>Hakodate601

一本木を挟んで旧幕府軍と新政府軍は数次にわたる戦闘が繰り広げられる。
歳三は関門を離れ一本木浜に向かった。弁天台場近く浜に乗り上げて浮き砲台となった回天から乗員がボートで脱出しようとしたところ、七重浜方面からの敵が発見し攻撃に向かってきた。少数の兵を率いた歳三は回天乗員の援護を行い、彼らを五稜 郭方面にへ退避させた。再び歳三が関門に戻った時に、馬上の歳三の腹部を一発の銃弾が貫いた。
歳三戦死の報は五稜郭に届けられ、使者が一本木に駆けつけ、隊士の立川主税、沢忠助とともに遺体は五稜郭に運ばれ、そ の一角に埋葬された。
散る場所を求めとうとう蝦夷地にまで来てしまった。流山で別れ、地下で眠る近藤勇昌宣との再会が叶えられたのであろうか・・・。
木柵を背後に「土方歳三之最期の之地」碑が建っている。一本木浜からここの関門に戻り、一発の銃声が35年の生涯が閉じられた。
何処でも見かけるビル街の一角に小さな池と僅かな植え込みに、夫婦連れと修学旅行で訪れた女子高校生の二人組が熱心に、見入っている。五稜郭で群れなす単なる観光ツアー集団と明らかに違っている新選組フアンだと言うことが判る。こういう人達に支えられている歳三もさぞ満足にしているに違いない。碑の前に沢山の花が飾ってあった。

<称名寺>

Hakodate603歳三が戦死した4日後の15日「孤立して応援もなく、進退既にきわまりし上は、降伏して天裁を待つにしかず」(孤立して応援もなく、進退もすでに極まったからには、降伏して運を天に任せるしかない)
この言葉の通り、孤立した弁天台場では、すでに食糧が底を尽き、弾丸は撃ち尽くし、砲撃で井戸を破壊されたために飲み水すらなかった。

弁天台場のあった函館ドックから山側に登った所に称名寺がある。戊辰戦争が蝦夷地に展開され、新選組も戦線を北に移動するが新選組の最後の屯所となってしまった。歳三の供養碑やエトロフ開発など殖産興業で多大な業績を残した高田屋嘉兵衛一族の墓がある。
歳三は榎本軍に加わり函館で戦死した。その場所は一本木(若松町)、一本木鶴岡町、異国橋など諸説があるが、土方家の檀家寺の高幡不動金剛寺の過去帳には函館称名寺に供養塔を建てたと記録されている。称名寺は明治期の大火で3回も焼けて碑は存在しないので昭和46年に有志が現在の碑を建立した。墓碑には昭和29年台風で壊された新選組隊士の名も入っている。正面に「歳進院殿 誠山 義豊大居士」と野村義時(利三郎)・栗原仙之助・糟谷十郎・小林幸次郎の4人の隊士名が入っている

<碧血碑>

Hakodate803立待岬側から、案内に沿って狭い山道を碧血碑に目指すが、殆ど車の影は見られないが、碧血碑の案内看板のスペースで車を乗り捨て、奥深い山道に入って行く。
んな樹林の中、僅かな空間に碧血碑にたどり着く。碧血碑は歳三や新選組隊士を含め約800人の戦死した旧幕府軍兵士の霊を弔うために榎本ら生き残った幹部たちが明治8年に建立したものである。碑石は7回忌にあたる明治8年(1875)大鳥圭介や榎本武揚らの協賛を得て東京から船で運ばれたもので、碑の題字は大鳥圭介とされている。碧血とは「義に殉じて流した武人の血は3年経つと碧色になる」という中国の故事によるものである。
背面には、以下の16文字が刻まれている。
明治辰巳実有此事
立石山上以表厥志
「明治辰巳に実にこのことあり。山上に石を立て以ってその志を表す」
明治7年に新政府の「朝敵となった人の祭紀、慰霊を許す」を得ても賊軍の懲罰は中々溶けず、墓石の建立もままならなかった。そんな時代背景からから表現は旧幕府脱走軍の霊を公然と弔うには支障があったことが、充分伺える。
詳細はこちらで載せてます    函館戦争を辿って

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