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幕府軍医「松本良順」

200pxjun_matsumoto1松本良順(後に順と改める)」は天保3年(1832年)下総佐倉藩医師「佐藤泰然」の次男として江戸麻布(東京都港区)に生まれる。
当時、里見の一介の医者に過ぎなかった「泰然」は息子の「順」を友人の「松本良甫(りょうぼ)」に養子に出し、松本家として幕医の地位の道を選んだと言われている。
「泰然」は実子を後継者とする枠にこだわらず優秀な人材を集め、佐藤家は4代まで養子に継がせている。医者として有能な人物を選んで育てる、進歩的選択は順天堂創始者の「泰然」の意志として代々受け継がれている。
幕府軍医の責任者の地位までになった「順」が敢えて佐藤家を継がず「松本順」になったのはそんな事情が考えられる。
長崎伝習之御用を命じられ、長崎(長崎県)に赴く。オランダ軍医のポンペに医学等の蘭学を学ぶ。
江戸に帰り奥医師に進み、医学所頭取となる。
「順」は幕府軍医の責任者となり徳川家茂・慶喜、篤姫などの主治医となり、戊辰戦争では幕府方の負傷者の治療を勤める。
会津藩の下に京都の治安維持のために活動し重傷を負った新選組の局長「近藤勇」や 、新選組隊士の診療も行った。
慶応2年(1866年)夏、第2次長州征伐のため、大坂に出陣していた徳川家茂の病状が悪化、当人も不眠で治療にあたることでその信頼に応えたが、その甲斐なく家茂の死を看取った。

◇戊辰戦争では敵味方に
戊辰戦争では、歩兵頭格医師として幕府陸軍の軍医、次いで奥羽列藩同盟軍の軍医となり、最前線で幕府を支える。
戊辰戦争で国内が旧幕府か新政府か揺れ動く中、佐倉の順天堂は時の佐倉藩主「堀田正倫」が徳川の存続を京で嘆願中、幽閉され藩主不在の中、新政府側に付く。そんな背景から佐藤家に養子で迎え入れた「進」は戊辰戦争では鳥羽伏見の戦いで負傷した会津藩兵を江戸で治療したが、東北転戦時には佐倉藩が新政府側に付いたため新政府軍の医者として送り出される。
幕府方は「泰然」の息子の「順」が付き、新政府側は養子「進」が付き、国内内乱となった戊辰戦争では「泰然」の息子がそれぞれを敵味方相まみえる両軍の医者のトップとして従軍する皮肉な結果が生まれる。
「順」は会津戦争後、仙台にて降伏し、戦後一時投獄されるが赦免され、出獄後に山縣有朋などの薦めで軍医総監となる。


◇日野との繋がり                                                                                           
今日に至る以降も「泰然」の意志は継がれ、医者として有能な人物を選んだ進歩的選択は代々受け継がれているが、その一人が日野の「有山登」である。「有山登」は日野本郷の名主「佐藤彦五郎」の4男「彦吉」が有山家の養子となり、「彦吉」の次男である。
「登」は順天堂医院長を勤める「佐藤達次郎」次女「寛」と結婚し、1955年~1984年にかけて5代目の順天堂の堂主となり、二代目の順天堂理事長を勤めている。
親戚として新選組と関わりの深い「松本順」との繋がりをもっているのである。

                    「殉節両雄之碑」

Img05321 明治21年(1888)高幡不動の近藤・土方が幕府の忠節を讃える「殉節両雄之碑」の建立されたが、推進役の一人は佐藤彦五郎で書は「松本順」である。
幕府の忠節を讃える碑に時の明治政府は快く思わず、中々許可されなかったが、近藤・土方由縁の人達のネットワークは繋がって居たのである。
明治40年(1907年)に死去、享年75。墓所は神奈川県大磯町の妙大寺。

系譜他詳細はこちらで紹介してます

佐倉順天堂 

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