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第14回ひの新選組まつりの中止

東北地方を中心とした大規模な震災により各地に多大な被害がもたされた。とりわけ新選組の舞台となった宮古、会津、など太平洋岸は津波などで致命的なダメージを受けている。

未だ根幹となる福島原発の収束も見えないまま、不安と恐怖のさめやらない深刻な事態になっている。開催場所となる日野市も計画停電や物流ルートの異常から物不足など、生活に関わる混乱が続いている。

そんな背景から、4月29日、5月7日、8日に開催予定であった「第14回ひの新選組まつりの中止」の決定が決まった事を日野市まちおこし連絡協議会及びひの新選組まつり実行委員会から流された。

折角、根付いてきた 新選組まつりであったが、新選組と関わりの深い、被災地の心情を思うと、やむ得ない決断であったと思える。

今、出来る事はと言う事でサークル仲間と相談し、日野市役所を通じてささやかであるがか「東日本大震災の義援金」の募金で応えた。

今まで経験した事の無い大地震。文久3年(1863)に構築された日野宿本陣は多くの建物の損壊を起こした関東大震災をくぐり抜け、その頑健な建物は頼もしかった。今回の地震では本柱や梁の一部に亀裂が走ったが、大きな事故もなく、「3.11」をくぐり抜け、関わりある者として一安心した。

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寂しく変身したとうかんの森

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2010ー11弊ブログの「新選組のふるさと・日野を歩く」で、当時、とうかんの森はどのようになるか以下の記事のようにその行く末を案じていた。
『とうかんの森は今でも繋がる土方一族がお稲荷さんを守っているが、天空高く伸びきった木の近隣への落葉の始末に枝落としか、或いはかなりの部分の伐採か、その処置が検討されているようであった。
その話を聞き、数日前此処へ訪れたときにはかなりの幹に識別のテープが幹にまかれてあったが、当日はそのテープが無くなっており、どのような確認がされたのか大変気になった。
まあ、この姿が何時までも残るように、お稲荷さんに祈りつつも、しっかり、その姿を見届けておいた。』

Img_0274111111 現地に行って、その姿に目を疑ったが、やはり大胆に手を加えられてあった。

丸で長髪の福山雅治が思い切りバリカンを入れられ、二三部刈りになったような、そんな大変身であった。
森の中心部となる、絡み合った樹木は虫食い状態で、それこそ中身は空っぽで首皮状態で何とか、10数メートルの高さを支え会い、何とか立つていたが、何時倒れてもおかしくなかった、ようである。
しかし、樹齢100~数100年の蓄積された遺産を思い切って、断ってしまったものだ。
宅地開発が進み、森が蝕まれ、周辺の落葉など、その始末が大変であったかも知れないが、残す道は無かったのであろうか・・・。
すかすかとなった空間に僅かな樹木が、寂しくそびえ立っていた。

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済州島と司馬遼太郎

            済州島(cheju)と漢拏山

Img_29431近くて遠いと言われた隣接韓国は日本に追いつけ追い越せと、誇り高い民族性とナショナリズムが産業を初め、サッカー、野球などスポーツを含め今や広い分野で隆盛の勢いである。
韓国は現職時代、仕事で深い関わりを持ち、何度か往復しているが済州島(cheju)はその一つで元々、発電所の制御設備の仕事で何度か訪れている。
昨今の韓流ブームに、完璧に染まってしまった連れの熱い要望もあり、仕事を離れ何十年ぶりかの韓国chejuの変容振りを確かめるのも面白いと、お付き合いした。

              賑やかな旅ツアー

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◇どんな旅巡り。
'06ー4、昼間はバスに身を委ね、乗っては降りの繰り返しに、観光地を巡る、阪急交通社のツアーであった。参加者は17名で大半はお金と時間沢山持つ、「ン十年前の美少女軍団」で、おじさんは私含め、2名だけのおぞましい、ハーレムの世界であった。


◇chejuの地で、司馬遼太郎の登場
そんな中で3日間、終始天候に恵まれた中で、現地旅行社の、時々理解出来なかったが、まあ流暢な日本語を駆使した献身的な女性ガイド、文(moon)さんにお世話になった。
韓国と関わりを持ち、多数の出会いがあったが、文の姓は少ない部類と思うが、chejuに生れ、育った生粋のcheju人であることが後で判った。
moonさんのchejuにかける思いが、広い知識に繋がって、観光地、食事所、お土産屋とcheju島内の東西南北を楽しく駆けめぐった。
そのmoonさんの口から何と、司馬遼太郎の「眈羅(たんら)紀行」の紹介があった。日本に隣接しているとはいえ、異国の地でmoonさんが淡々と語る、中に突然の司馬作品の登場に驚いた。全国を歩く「街道をゆく」シリーズは何冊か読んでいるが、「眈羅紀行」は見落としていた。
改めて司馬作品の浸透力は国内ばかりかchejuにまで及んでいることに司馬の凄さを思い知らされた。蛇足ながら、帰国後早速その本を買い求め、旅の記憶と重ねてみた。(笑い)

◇3日間cheju島をまさに駆けめぐった。
島の歴史を物語る様に火山活動が原点であり、内陸部の噴火口や溶岩道や海岸線の奇岩絶壁など世界的にも例が少なく、それが島のあちこちに国の指定文化財として大変多く残され、地球誕生を思わせる幻想的な夢の世界であった。
この火山活動に連動して生れた神話は三姓穴の形で、祀られ、語り継がれ、その聖地を訪れchejuの誕生の原点を知る事が出来た。
史跡探訪とも併せ、韓流ドラマ、チャングムや・オールインの撮影現場を周り、思い出のシーンに皆さん、うっとりしていた。
3日間の旅、食事に一緒に箸を突っ付き会い、和気あいあいの中、韓流通のおばさん達の話に耳を傾け、韓国文化一色に塗り潰された世界は居心地が良かった旅であった。

                神聖な「三姓穴」

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□三姓穴の話
紀元前2337年、漢拏山の北の麓の三姓穴から3人の神様が生れ、それぞれ高乙那(コウルナ) 良乙那(ヤンウルナ)  夫乙那(ブウルナ)と言い祀られている「眈羅王国」の開国の神話が此処三姓穴から生れている。
「眈羅」と言う独立国家は12世紀まであったが、百済から新羅の勢力下に置かれ、その名は眈津(たんしん)とも変称させられたが、高麗朝末期の1291年、現在のcheju(済州)の名称に改称させられた。
今でも島全体の人口の30%は高さん良さん夫さんと言われ、 これら三姓が島出身で、今回の案内人もその一人である。
3神人は土から生れ、狩猟で生活していたが、東の海から大きな舟がやって来て、3人の気品のある美しいお姫さまが五つの穀物の種と五つの動物を連れてきた。
お姫さまは碧浪(hekiryou)国から来たと言われているが、その存在ははっきり判っていない。chejuの東と言うことから九州の島国ではないかと言われている。福岡、北九州当たりに行くと宗像神社に祀られた3人のお姫様がchejuに来たのではと言う話もあるが、4300年も前の昔話である。
三姓穴に行ったが、神の誕生地は遠方から眺めに留まった。近くに上から見た写真が展示されてある。
不思議なのは此処は雨が幾ら降っても溜まらず、雪が降って、廻りが積っても此処だけは積もらない。近代科学のメスは入らず、今日まで一度も測量していない、謎の深い穴である。

◇司馬遼太郎が何故、眈羅にその思いを馳せたか
それは司馬の奥様が小学生の時、文順礼さんという同級性がいた。文の一家は眈羅の島から日本にきた。
文順礼さんは可愛くて勉強が出来、言葉づかいと、お行儀の良い品格の持ち主であったことが、鮮烈なイメージで残されていたようであった。その間、日本の敗戦の混乱から互いの消息を絶えた。それが大阪の市立博物館の韓国の出土物の展示会で37、8年振りの感激の再会があった。
その時に一緒にいた文順礼さんの連れ合いも眈羅の人である事が判った。その出会い含め、眈羅の人との交遊関係は深い。
司馬とのそんなご縁が、一緒に当地に赴きたいと言う気持ちが強く働き二人の眈羅人を説得しchejuに同行したようである。・・・眈羅紀行より

3日間の旅はこちらで紹介してます韓国chejuの旅 

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