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大捕り物騒動、「壺伊勢屋事件」(一部修正)

<現在、呉服屋の壺伊勢屋>

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大政奉還後、益々勢いを得た薩長はその矛先を倒幕に向けて動き出す。
西郷隆盛は「江戸の薩摩屋敷を根城に薩摩浪士隊は江戸の周辺地で騒動を起こして幕府勢力の分散化を図り、京都方面での討幕派の計画を支援し援護する。幕府を挑発して討幕の口実を得る」と言う事であった。
慶応3年(1867)10月頃江戸を新徴組や親藩藩士が必死で警備体制をして警戒していたが、三田の「御用盗」と言われた薩摩浪士が乱暴狼藉を働き、同年12月23日遂に江戸城西の丸を炎上させてしまう。
そんな背景の中でで薩摩藩の挑発行為により多摩地方で起きたのが壺伊勢屋事件である。

薩摩藩江戸屋敷で益満休之助を中心に、各地から脱藩浪士を集め幕府の関東地を動乱に陥れるべく画策していた。
幕府側から薩摩屋敷に密偵を入れ、浪士達の行動を内偵していた会津藩士「甘利宗四郎」が代官江川太郎左衛門英武の手代「増山健次郎」に、「薩摩藩井上真一郎」こと、上田務以下同志4人が甲府城を乗っ取る心つもりで三田の薩摩藩邸を出立し、甲州街道を甲府に向かうが、私も同道する」との報告があった。
その「上田務」は幕末、宣徳隊を組織し蛤御門の変に参加、後に高杉晋作の挙兵に応じ、四境戦では芸州口の最前線で戦った歴戦の人物である。
報告に驚いた「増山健次郎」は江川家手代「根本慎蔵」と共に上田一行の計画を阻止するため途中の討取り計画を練り江戸城の、勘定奉行「小栗上野介」の指示を仰ぎ了解を取り付ける。「増山」は「鯨井俊司」を指名し同日夕方、芝新錢座の江川屋敷を出立した。

<捕縛作戦に参加した日野勢、新選組まつりから>

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「増山」と「鯨井」の二人は内藤新宿から宿駕籠で乗り継ぎ途中上田一行を追い越し、日野宿の名主「佐藤彦五郎」宅にたどり着く。
「増山」と「彦五郎」は武州一揆打ち払いの折も共に働いた間柄で今回上田等討ち取り計画の支援を依頼し、「彦五郎」も了解した。
当初、日野の多摩河原で討ち取る準備を進めたが、密偵の通報から上田等3人は上布田の旅旅籠で剣術師範他が者が加わり、浪士集団が段々膨れ上がってくることが知らされ、急遽八王子宿の旅宿で夜討に変わった。
「増山」は八王子へ先行し、応援要請は千人隊にも告げられ、近隣の駒木野の農兵隊頭領「鈴木金兵」にも及ぶ大捕り物作戦に広がった。

「上田務」を隊長とする浪士一隊は薩摩屋敷を出発し上布田で宿泊後、一行浪人が八王子宿に入り、妓楼「柳瀬屋」と「壺伊勢屋」に入宿する。
一行は酒宴を開き、宴で酔ったふりをした「甘利宗四郎」は剣術師範他を向かい側の「柳瀬屋」連れ出し酔わせ寝込んだすきに座敷を抜け出し、「増山」に上田等一行は浪士や博徒と合流し100人近い集団で甲府に向かう仔細を報告、是非とも、今夜中に討ち取ってしまいたいと進言した。
「甘利」の進言を受けた、「増山」は人数を二手に分け、「柳瀬屋」は「増山」「鈴木金兵」「甘利」の3人、壺伊勢屋は日野勢がそれぞれ担当する手筈を決めた。
深夜2時頃、「増山」等は「柳瀬屋」の二階に上り「甘利」が寝ていた剣術師範をピストルを発射し、「増山」が切りつける大乱闘が始まる。
一方「壺伊勢屋」の浪士等は「柳瀬屋」での銃砲音の夜討に気づき、壁際に身を潜め身構えた。日野勢は「山崎兼助」「馬場市次郎」を先頭に立ち、階段を駆け上がるところ、6連発の短筒で一斉射撃し、最初に踏み込んだ「馬場市次郎」は浪士の短筒に討たれてあえなく即死する。
日野剣士の「山崎兼助」は背中を討たれる重傷を負い、事件の翌々日亡くなってしまう。
上田等浪士たちはその場で斬り倒されたり、傷を負いながら逃走し、浅川河原にたどり付いたところを惨殺されたが、上田他は逃げ延びた。

事件で負傷し、幕府の負っての手から逃れた「上田務」は慶応4年(1868)3月頃、京都滞在中の江川太郎左衛門手付「柏木総蔵」に申し入れ、事件を指揮した「増山健次郎」と「鯨井俊司」両人の首級と当日八王子に残した武器・金子などの返却を迫った。
武器等は小栗家へ渡されており東征軍の侵攻時期でもあり、処置に困った江川家では、増山と鯨井を改名させて所在を隠し「上田務」に増山と鯨井の首級および物品の代償として金1000円を支払い事件解決の至談書を提出し受け取っている。

◇「上田務」は京都で処刑、さらし首

「上田務」は慶応4年(1868)6月薩摩藩の「伊牟田尚平(いむたしょうへい)」の金策に加担し、近江国長浜の今津屋で押込み強盗を働き捕らえられる。明治2年(1869)7月、「上田」は「伊牟田」と一緒に加担した一人として、京都粟田口でさらし首の刑に処せられた 。事件の口述書が「京都府史料」に残されている。

従来、「上田」は後の神奈川県令「内海正勝」であると、大正13年(1924)に出版された『三多摩政戦史料』に書かれており、これが半ば信じられ流布されていたが、「上田」は処刑されており、「内海正勝」と同一人物であることは誤りであることが、この度、明らかにされた。
・・・広報ひの平成23年4月15日

<事件のあった八王子横山町付近>

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詳細は以下でまとめた。

壺伊勢屋事件

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幕末の風を求め「佐倉」へ

Sakura107佐倉市は千葉県北部、北総台地の中央部に位置し、都心から40㎞の距離にある。千葉には南西20㎞、北部には印旛沼がひろがる
面積は約104k㎡ある。佐倉の市域は印旛沼の南に広がる、低地、台地、傾斜地と変化に富んだ地形にあり、その間を鹿島川、高崎川、小竹川が流れ印旛沼に注いでいる。佐倉城址周辺、印旛沼周辺や東部、南部の農村地帯など豊かな自然が残っている。
その佐倉で吹いた歴史の風を辿ってみた。
佐倉は戦国時代から大名千葉氏の居城として、栄え豊臣に滅びるまでの歴史を持ち、更に幕府配下で佐倉城の築城もあった。
そんな背景から下総国(現千葉・茨城)の中心地ととして、歴史的な基盤を備え、明治維新後、そのまま千葉県の県庁所在地になってもおかしくない都市であった。
維新後、徳川親藩の堀田家で官軍に素直に従わなかったからか、県庁所在地は千葉市に取って代わられた。同じような運命をたどった都市は、滋賀県の彦根市(井伊大老の彦根藩)、山形県の米沢市、新潟県の長岡市なども同様の扱いと考えられる。地方の大きな都市として歴史と文化を持ちながら、その時の主(あるじ)の考え方が、幕府側についたと言ういうことで、何れも県庁所在地になりえなかったのである。


廃藩置県後、佐倉城は取り壊され、城跡は鎮台が置かれ、今は国立歴史民俗博物館が建っている。
かっての栄華を誇った佐倉城も、積み上げられた土塁が僅かな城跡を留める程度であった。
宮小路町はその佐倉城に出仕した武士たちの屋敷が建ち並び、今でも一部残っている町なのである

<武家屋敷>

Sakura509佐倉城から西へ「ひよどり坂」を下って武家屋敷のある、鏑木小路に向かう。坂の名前の由来は判らないが「ヒヨドリの鳴き声が聞こえた」ということなのであろうか、名の通り幻想的な世界を生み出すロマンチックな、急坂である。現在は真竹から孟宗竹に種類が変わったものの、深い竹林に囲まれた坂道の形状は、昼尚暗く、江戸時代と、ほとんど変わっていないという。土の地面と言い、自然の中の世界は江戸の世界をそっくり、残した異境の世界である。
鏑木小路は、土手・生垣で整備され、花道として武家屋敷の世界を演出している。
江戸時代の武家屋敷の大半は藩の所有で、藩士は貸しあたえられた。大名屋敷などと比べ、規模は小さく質素であった。

屋敷の規模や様式は居住する藩士も身分によっても変わってくる。天保改革によってぜいたくは諫めることを目的に、身分によって、住宅の規模や門の形式、玄関の間口と構造、畳の種類まで細かく規定している。
佐倉に保存公開されているものも、それぞれ3種の等級を持ち、旧河原家住宅は「大屋敷」、旧丹馬家は「中屋敷」、旧武井家は「小屋敷」に当たる。
これらの3種の身分の違いから、作られた屋敷が移築され、同じ場所で比較しながら見られるのも面白い。

共通していることは限られたスペースに自分の住まいを削っても招く客人の部屋は比較的広く、持てなしの心ゆきが感じられる。

<佐倉順天堂記念館>

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佐倉藩主「堀田正睦」は、攘夷鎖国が時代錯誤であることを痛感し、一刻も早く諸外国と通商すべきという開国派で蘭学を奨励した。

天保14年(1843年)、佐藤 泰然(さとう たいぜん)は佐倉藩主「堀田正睦」の招きで江戸から佐倉に移住し、病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」開設する。
「泰然」は、診療に役立つ知識・技術を習得させることを目指し、多くの人材が育ち、日本の近代医学の発展に大きな役割を果たしている。
ウイルス感染により起こる当時大変恐れられていた天然痘は、「泰然」の積極的な西洋式の医療技術の取り入れ内外に、高く評価されている。
外科の手術に自信があったが、華岡青洲によって開発された麻酔薬は、副作用がひどかったので、「副作用で死ぬ人が居る、生きたいのなら少々我慢しろ」佐藤泰然は手術に麻酔薬を用いず、患者の生命力を頼って手術したといわれている。
のこぎり他当時、使われた手術道具である。麻酔を使わず、生身の体に加えられる執刀の道具に想像しただけでも、身の毛のよだつものであったか、伝わってくる。 しかし、かかったら諦められた不治の病にメスを入れ、根治に繋げられる一縷の道にかけ、患者を救っていったのである。
安政5年(1858)蘭医塾・診療所となった建物は千葉県指定史跡になり、「佐倉順天堂記念館」として公開されている。

折しも某民放局の「JIN-仁」が華々しい前宣伝で4月17日に放映された。 脳外科医の「南方仁」が幕末の江戸時代にタイムスリップして色々な事件に巻き込まれていく。

仁は阪本龍馬の要請で京に向かい、医者の立場で要人を救う。中でも虫垂炎で瀕死の「西郷隆盛」を自ら、メスを入れ内蔵を抉る生々しいシーンが重々しく、蘇る。西洋医学の概念も無い時代に、腹切りの手術は切腹そのものであり、周囲の驚愕をよそに粛々と進められた。

一方、泰然は麻酔を使わず、敢然と病に立ち向かっているのである。生身の体に加えられる執刀の道具、麻酔もなしで手術に耐えた患者も偉かった。そんな事が思い起こされる「佐倉順天堂記念館」であった。

江戸の風が残る佐倉の詳細は以下による。

下総の国「佐倉」

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同心「石坂弥次右衛門」と「血梅」

Img_025621111 もう梅の時期は終わってしまったが、新選組研究家の故「谷春雄」さんは2003年に地元の日野広報「血梅」でこんな文を残している。
『私の家の庭に、1本の紅梅が植えられている。20年ほど前、八王子市に住む友人、佐宗【さそう】文雄氏が、息子さんと運んで植えていってくれた梅である。
 この紅梅は早春になると薄紅色の花を咲かせるが、花はガクが大きく、花びらの小さい原種に近いような花で、現在の華やかなものが多い紅梅に比べると、少し寂しいような花である。この梅の枝を切ると、中は血がにじんだように真っ赤なので、血梅という名で呼ばれているという。

 佐宗氏の語るところによると、この血梅は、もと八王子千人町の千人頭石坂弥次右衛門の屋敷内に植えられていた梅で、日野宿北原に住んでいた千人同心井上松五郎は、この石坂弥次右衛門組の世話役を勤めていた。
 文久一(1861)、二年のころの早春の一日、この石坂家を、井上松五郎の案内で近藤勇が訪れた。弥次右衛門も快く迎え入れ、種々談笑したが、近藤勇は庭に咲く血梅に目をとめて、慎ましく咲く様を激賞した。弥次右衛門も、「それほどお気に入りならば」と後日接木【つぎき】か取木【とりき】をして贈ることを約束した。

 しかし、この約束は、文久三年近藤勇が浪士組に参加して上洛し、新選組局長として京都市中取締りに当たったが、激動する時代に抗しきれず、慶応4年(1868)4月25日、板橋刑場の露と消えたことにより果たされることはなかった。
 一方、石坂弥次右衛門も、幕末期は多忙で、将軍上洛の先供【さきとも】、第一次・第二次長州征伐、甲州出張等席の温まる暇も無い程であった。慶応3年暮れから日光勤番を勤めていた千人頭萩原頼母【たのも】の病死により、急きょ後任として赴任した弥次右衛門は、着任早々日光に進攻した官軍に、無血で東照宮等日光を引き渡し、井上松五郎や、土方勇太郎等勤務していた同心を引き連れて閏【うるう】4月10日に帰郷した。
 弥次右衛門が帰郷すると、千人同心内の抗戦派から、日光を戦わずして官軍に引き渡した責任を問う声が高まり、この声に弥次右衛門もたまらず、同日深夜に切腹した。
 しかしこの時、剣術に熟達した長男は留守で、80歳になる父が介錯【かいしゃく】したが、老齢のために首が落とせず、弥次右衛門は、明け方までうめき苦しんで息を引きとったと伝えられる。

 明治維新という激動の中に、その姿を没していった近藤勇、石坂弥次右衛門両士が愛し、また激賞したというこの血梅は、明治以後石坂家の新潟移住等で、行方がはっきりしなかったが、千人町の石坂家の隣家の庭にひっそり残っていた。しかし昭和20年の八王子空襲で黒焦げになってしまったが、やがて芽吹き、花を咲かせるようになった。この梅の接穂【つぎほ】を入手した友人の佐宗氏が何本か育て、その1本を、「谷君は新選組が好きだから」と進呈してくれたものである。
 この血梅は、紅梅としては何となくつつましく、寂しいような花である。』

そんな血梅の姿をどうしても見たかった。日野宿本陣の裏側に谷さんのお住まいがあり、最近そば処「日野宿 ちばい」という手打ち蕎麦屋さんを始められた。

梅の時期に、わくわくしながら、同家に赴き、蕎麦を食べながら漸くその血梅を見る事が出来た。住宅地の中、通りから奥まったお住まいに、庭先に掲げられた「日野宿 ちばい」の看板が、目印である。
「ああ、これが近藤勇、石坂弥次右衛門両士が激賞した血梅なのか」
紅梅より、小振りで地味な血梅であるが、一度焼けた血梅の木がフエニックスの様に蘇り、芽吹き「弥次右衛門」と「近藤勇」二人の遺志を継いで、空高く咲き乱れていた。直に見る事が出来、漸く念願叶え嬉しかった。

二人が陥った時代背景は以下による。

  「石坂弥次右衛門」と「血梅」

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