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同心「石坂弥次右衛門」と「血梅」

Img_025621111 もう梅の時期は終わってしまったが、新選組研究家の故「谷春雄」さんは2003年に地元の日野広報「血梅」でこんな文を残している。
『私の家の庭に、1本の紅梅が植えられている。20年ほど前、八王子市に住む友人、佐宗【さそう】文雄氏が、息子さんと運んで植えていってくれた梅である。
 この紅梅は早春になると薄紅色の花を咲かせるが、花はガクが大きく、花びらの小さい原種に近いような花で、現在の華やかなものが多い紅梅に比べると、少し寂しいような花である。この梅の枝を切ると、中は血がにじんだように真っ赤なので、血梅という名で呼ばれているという。

 佐宗氏の語るところによると、この血梅は、もと八王子千人町の千人頭石坂弥次右衛門の屋敷内に植えられていた梅で、日野宿北原に住んでいた千人同心井上松五郎は、この石坂弥次右衛門組の世話役を勤めていた。
 文久一(1861)、二年のころの早春の一日、この石坂家を、井上松五郎の案内で近藤勇が訪れた。弥次右衛門も快く迎え入れ、種々談笑したが、近藤勇は庭に咲く血梅に目をとめて、慎ましく咲く様を激賞した。弥次右衛門も、「それほどお気に入りならば」と後日接木【つぎき】か取木【とりき】をして贈ることを約束した。

 しかし、この約束は、文久三年近藤勇が浪士組に参加して上洛し、新選組局長として京都市中取締りに当たったが、激動する時代に抗しきれず、慶応4年(1868)4月25日、板橋刑場の露と消えたことにより果たされることはなかった。
 一方、石坂弥次右衛門も、幕末期は多忙で、将軍上洛の先供【さきとも】、第一次・第二次長州征伐、甲州出張等席の温まる暇も無い程であった。慶応3年暮れから日光勤番を勤めていた千人頭萩原頼母【たのも】の病死により、急きょ後任として赴任した弥次右衛門は、着任早々日光に進攻した官軍に、無血で東照宮等日光を引き渡し、井上松五郎や、土方勇太郎等勤務していた同心を引き連れて閏【うるう】4月10日に帰郷した。
 弥次右衛門が帰郷すると、千人同心内の抗戦派から、日光を戦わずして官軍に引き渡した責任を問う声が高まり、この声に弥次右衛門もたまらず、同日深夜に切腹した。
 しかしこの時、剣術に熟達した長男は留守で、80歳になる父が介錯【かいしゃく】したが、老齢のために首が落とせず、弥次右衛門は、明け方までうめき苦しんで息を引きとったと伝えられる。

 明治維新という激動の中に、その姿を没していった近藤勇、石坂弥次右衛門両士が愛し、また激賞したというこの血梅は、明治以後石坂家の新潟移住等で、行方がはっきりしなかったが、千人町の石坂家の隣家の庭にひっそり残っていた。しかし昭和20年の八王子空襲で黒焦げになってしまったが、やがて芽吹き、花を咲かせるようになった。この梅の接穂【つぎほ】を入手した友人の佐宗氏が何本か育て、その1本を、「谷君は新選組が好きだから」と進呈してくれたものである。
 この血梅は、紅梅としては何となくつつましく、寂しいような花である。』

そんな血梅の姿をどうしても見たかった。日野宿本陣の裏側に谷さんのお住まいがあり、最近そば処「日野宿 ちばい」という手打ち蕎麦屋さんを始められた。

梅の時期に、わくわくしながら、同家に赴き、蕎麦を食べながら漸くその血梅を見る事が出来た。住宅地の中、通りから奥まったお住まいに、庭先に掲げられた「日野宿 ちばい」の看板が、目印である。
「ああ、これが近藤勇、石坂弥次右衛門両士が激賞した血梅なのか」
紅梅より、小振りで地味な血梅であるが、一度焼けた血梅の木がフエニックスの様に蘇り、芽吹き「弥次右衛門」と「近藤勇」二人の遺志を継いで、空高く咲き乱れていた。直に見る事が出来、漸く念願叶え嬉しかった。

二人が陥った時代背景は以下による。

  「石坂弥次右衛門」と「血梅」

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11、千人同心」カテゴリの記事

コメント

こんにちは、弥次右衛門の子孫です。この梅のことは初めて聞きました。是非枝わけしてもらいたいですね。

投稿: 石坂 | 2011年7月26日 (火) 20時20分

石坂さま
ようこそいらっしゃいました
弥次右衛門さんの御子孫さまの書き込みに驚いております
血梅の記事は2003年故谷春雄さんが書かれ、「日野の歴史と民族」で発表されています。
その故谷春雄さんのご子息が、最近そば処「日野宿ちばい」という手打ち蕎麦屋さんを始められました。
その中庭に血梅がしっかり根付いている姿を今年の梅の時期に確かめることが出来ました。

コメント書き込みで「メールアドレス」を教えて頂ければ、子細をお伝えすることが可能と思います。

投稿: 隠れ新八 | 2011年7月28日 (木) 22時57分

こんばんは。
石坂です。丁寧なお返事ありがとうございました。
きょう(8/14)西八王子の興岳寺に墓参りに行ってきました。その帰り道に、「ちばい」に突然おじゃましてみました。谷さんは今年の3月にご逝去なされたとのことでしたのでお線香をあげさせていただきました。父である石坂家の現当主も80歳となりましたが、同行し、先祖が愛でた梅と対面することができました。ありがとうございました。また、ちばいの奥さまにおかれましても、アポなしの訪問なのに嫌な顔ひとつされず、お茶までごちそうになり、この場をお借りしてお礼申し上げます。隠れ新八様、もし可能なら、詳細についてメールいただけますと幸いです。石坂圭司。

投稿: 石坂圭司 | 2011年8月15日 (月) 00時37分

本日(8月17日)、日野へ用事があり、ちばいへ伺い、ご挨拶して来ました。
石坂さまのお話を伺い、大勢でお見えになった旨、お聞きしました。
谷春雄さんは2004年、折しも新選組大河ドラマの年に、ご逝去されておられます。
新選組の記事を発信続けた谷さんが、ドラマの終りを見ないまま、大変残念だったと思います。

血梅との対面が実現したようで、大変嬉しいです。
図らずも、血梅の記事がご縁で、お役にたったようで、歴史的な対面が生れた事に感動さえ覚えます。
梅の咲く時期にちばいへの来訪をお待ちしております。

投稿: 隠れ新八 | 2011年8月17日 (水) 21時58分

隠れ新八さま

谷春雄さまは2004年にお亡くなりになったのですね、失礼しました。

15日は現当主(16代目)の次男(私)三男(弟)の家族で墓参りに行ってのことだったので、結構な人数になってしまいました。ホントにちばいの奥さまには大変失礼しました。子どたちは奥さま自家製のシソジュースをごくりごくりとおいしそうに飲んでいました、ありがとうございました。

血梅のことについては、父も全く初耳だったようで、その昔先祖が愛した梅の木を感慨深げに触って見上げていました。写真に撮りましたのでそのシーンはいつかどこかでご覧いただければと思います。

父もあまり、祖父や祖祖父から先祖のことを聞いていないみたいで、知らないことが結構あります。こうして何かのご縁で見ず知らずの方からの情報で、歴史の断片を拾い集めるのもなんだか不思議な気持ちです。これも全て、先祖からの導きなのでしょうか。

この梅の木が、どこにあったのかご存知でしたらご教示いただければ幸いです。

時節柄ご自愛ください。
石坂圭司

投稿: 石坂圭司 | 2011年8月21日 (日) 23時27分

突然すみません。
石坂弥次右門に興味を持ちコメントを残しました。
いきなり質問すみません。
弥次右門一族の家紋って何ですか

投稿: HЁRO | 2012年9月13日 (木) 00時09分

石坂家の家紋は
「左三つ巴」と思います
石坂家の菩提寺である八王子の興岳寺に石坂家の墓があります。
その墓地の線香石に家紋がありました。

投稿: 隠れ新八 | 2012年9月13日 (木) 10時02分

石坂家の家紋は新八さんの
ご指摘通り左三巴です。
もう少し細かく言うと
丸に尾長左三つ巴です。
ネット上では見た事がありません。
あえていうと、紀伊熊野生神社で使われている
尾長左三巴に丸がつくと思っていただければと
思います。一般的な三つ巴とは
少し印象が異なるかもしれませんね。
替紋は武田菱だったような。

投稿: 石坂 | 2012年10月13日 (土) 14時09分

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