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幕末の風を求め「佐倉」へ

Sakura107佐倉市は千葉県北部、北総台地の中央部に位置し、都心から40㎞の距離にある。千葉には南西20㎞、北部には印旛沼がひろがる
面積は約104k㎡ある。佐倉の市域は印旛沼の南に広がる、低地、台地、傾斜地と変化に富んだ地形にあり、その間を鹿島川、高崎川、小竹川が流れ印旛沼に注いでいる。佐倉城址周辺、印旛沼周辺や東部、南部の農村地帯など豊かな自然が残っている。
その佐倉で吹いた歴史の風を辿ってみた。
佐倉は戦国時代から大名千葉氏の居城として、栄え豊臣に滅びるまでの歴史を持ち、更に幕府配下で佐倉城の築城もあった。
そんな背景から下総国(現千葉・茨城)の中心地ととして、歴史的な基盤を備え、明治維新後、そのまま千葉県の県庁所在地になってもおかしくない都市であった。
維新後、徳川親藩の堀田家で官軍に素直に従わなかったからか、県庁所在地は千葉市に取って代わられた。同じような運命をたどった都市は、滋賀県の彦根市(井伊大老の彦根藩)、山形県の米沢市、新潟県の長岡市なども同様の扱いと考えられる。地方の大きな都市として歴史と文化を持ちながら、その時の主(あるじ)の考え方が、幕府側についたと言ういうことで、何れも県庁所在地になりえなかったのである。


廃藩置県後、佐倉城は取り壊され、城跡は鎮台が置かれ、今は国立歴史民俗博物館が建っている。
かっての栄華を誇った佐倉城も、積み上げられた土塁が僅かな城跡を留める程度であった。
宮小路町はその佐倉城に出仕した武士たちの屋敷が建ち並び、今でも一部残っている町なのである

<武家屋敷>

Sakura509佐倉城から西へ「ひよどり坂」を下って武家屋敷のある、鏑木小路に向かう。坂の名前の由来は判らないが「ヒヨドリの鳴き声が聞こえた」ということなのであろうか、名の通り幻想的な世界を生み出すロマンチックな、急坂である。現在は真竹から孟宗竹に種類が変わったものの、深い竹林に囲まれた坂道の形状は、昼尚暗く、江戸時代と、ほとんど変わっていないという。土の地面と言い、自然の中の世界は江戸の世界をそっくり、残した異境の世界である。
鏑木小路は、土手・生垣で整備され、花道として武家屋敷の世界を演出している。
江戸時代の武家屋敷の大半は藩の所有で、藩士は貸しあたえられた。大名屋敷などと比べ、規模は小さく質素であった。

屋敷の規模や様式は居住する藩士も身分によっても変わってくる。天保改革によってぜいたくは諫めることを目的に、身分によって、住宅の規模や門の形式、玄関の間口と構造、畳の種類まで細かく規定している。
佐倉に保存公開されているものも、それぞれ3種の等級を持ち、旧河原家住宅は「大屋敷」、旧丹馬家は「中屋敷」、旧武井家は「小屋敷」に当たる。
これらの3種の身分の違いから、作られた屋敷が移築され、同じ場所で比較しながら見られるのも面白い。

共通していることは限られたスペースに自分の住まいを削っても招く客人の部屋は比較的広く、持てなしの心ゆきが感じられる。

<佐倉順天堂記念館>

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佐倉藩主「堀田正睦」は、攘夷鎖国が時代錯誤であることを痛感し、一刻も早く諸外国と通商すべきという開国派で蘭学を奨励した。

天保14年(1843年)、佐藤 泰然(さとう たいぜん)は佐倉藩主「堀田正睦」の招きで江戸から佐倉に移住し、病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」開設する。
「泰然」は、診療に役立つ知識・技術を習得させることを目指し、多くの人材が育ち、日本の近代医学の発展に大きな役割を果たしている。
ウイルス感染により起こる当時大変恐れられていた天然痘は、「泰然」の積極的な西洋式の医療技術の取り入れ内外に、高く評価されている。
外科の手術に自信があったが、華岡青洲によって開発された麻酔薬は、副作用がひどかったので、「副作用で死ぬ人が居る、生きたいのなら少々我慢しろ」佐藤泰然は手術に麻酔薬を用いず、患者の生命力を頼って手術したといわれている。
のこぎり他当時、使われた手術道具である。麻酔を使わず、生身の体に加えられる執刀の道具に想像しただけでも、身の毛のよだつものであったか、伝わってくる。 しかし、かかったら諦められた不治の病にメスを入れ、根治に繋げられる一縷の道にかけ、患者を救っていったのである。
安政5年(1858)蘭医塾・診療所となった建物は千葉県指定史跡になり、「佐倉順天堂記念館」として公開されている。

折しも某民放局の「JIN-仁」が華々しい前宣伝で4月17日に放映された。 脳外科医の「南方仁」が幕末の江戸時代にタイムスリップして色々な事件に巻き込まれていく。

仁は阪本龍馬の要請で京に向かい、医者の立場で要人を救う。中でも虫垂炎で瀕死の「西郷隆盛」を自ら、メスを入れ内蔵を抉る生々しいシーンが重々しく、蘇る。西洋医学の概念も無い時代に、腹切りの手術は切腹そのものであり、周囲の驚愕をよそに粛々と進められた。

一方、泰然は麻酔を使わず、敢然と病に立ち向かっているのである。生身の体に加えられる執刀の道具、麻酔もなしで手術に耐えた患者も偉かった。そんな事が思い起こされる「佐倉順天堂記念館」であった。

江戸の風が残る佐倉の詳細は以下による。

下総の国「佐倉」

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