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「お龍」の足跡を追って、横浜、横須賀へ、そして決行

「JR横浜西口から台町へ向かう、一行」

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前日からの雨、当日は台風に刺激され大雨の予報に、一部欠席の声もあり、当日行くのは己のみではと思えたが、幸いにして雨は小振りとなり決行した。
八王子を起点に、2次集合場所の横浜駅西口で一部の参加者をピックアップし、神奈川宿、台町の田中屋を目指す。
ビルの雑踏を抜け国道1号線沿いを神奈川駅側に向かうと、ビルの谷間の急階段に田中屋を見つける。
この階段を登り切った旧東海道の田中屋に出る。
安藤広重の東海道五十三次「神奈川宿台之景」から、坂の途中に「田中家」の前身「さくらや」の看板が見とれる。海に浮かぶ大きな船あたりが現在の横浜駅当たりと言われている。
従って、我々が歩いてきた当時は海中の中にあったのである。
全盛期では58軒の料亭が立ち並んだが、当時を語れるのはここ1軒だけで、看板を死守する姿に感服する。

            「旧東海道、神奈川宿台(現、台町)付近」

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お龍は明治7年(1874年)に自立の道を模索し、「菅野(かんの)覚兵衛」の紹介で 神奈川宿の料亭・田中家で仲居として働いている。
覚兵衛は土佐勤王党に加盟し、龍馬らともに神戸海軍操練所に参加し、長崎で亀山社中(のちの海援隊>を結成し、第二次長州征討の乙(いっ)丑(ちゅう)丸の艦長と海援隊隊士として活躍している。
慶応4年(1868年)3月、生前の龍馬の希望もあり長崎でお龍の妹・起美(三女)と結婚しており、龍馬、お龍との関わりが深い。
お龍は非常に頭が良く酒を好み、人情深く、客あしらいもうまく、当時無数にいた仲居の中でも飛び抜けて目立つ存在だった。
一方では土佐藩士からお龍のことを「有名なる美人なれども、賢婦人なるや否やは知らず。善悪ともに兼ぬるように思われたり」
と言われたり、龍馬の家督を継いだ坂本直は、訪ねて来たお龍を冷たく追い返したり、自ら持った気性から、回りから支援も余りなかったようだ。

□神奈川台の関門跡
田中屋から西に下り、神奈川台の関門跡がある。
開港後、外国人があいついで殺傷され、その捕縛がままならず、各国の領事から「幕府は何をやっているんだと」非難され
横浜周辺の主要拠点に関門や番所を設け、相次ぐ外国人襲撃から守るため警備体制を強化した。
その番所が此処に立ち、番兵がにらみを効かせていた。さしずめ怪しげな成相の己も、行く手を阻み、これ以上の西下を許さなかったのであろう。

□アメリカ領事館の本覚寺
関門跡から東海道を戻り、アメリカ領事館の本覚寺につく。
生麦事件で遭遇した4人の外国人の一人リチャ-ドソンは絶命、遺体は余りにも切り傷が凄いので途中の宗興寺で縫い合わせ、雨戸に乗せてここ本覚寺に運ばれる。苦しんでいるのでこのまま助からないと、「武士の情け」と喉を一突きし止めを刺したのが、薩摩藩の海江田武次である。

海江田武次は有村俊斎を名乗り、俊斎を頭に雄助、治左衛門の三兄弟であった。桜田門外の変で治左衛門は実行者の一人で自害、雄助は推進役として事件後切腹しており、維新以降生き残ったのが武次一人である。
薩摩の一行400人の行列はイギリス軍が来る前に、此処神奈川宿から保土ヶ谷へさっさと逃げてしまう。当然イギリスから下手人の始末を要請されたが、黙殺してしまう。
台町周辺はびっしりとビルが立つ、一等地にあるが、一歩離れ、ここ東海道はお龍あり、攘夷あり、生麦事件あり、幕末・維新史が埋もれた一角のようである。

京急に乗って横須賀中央へ
□おりょう会館

「寺田屋時代のお龍と旧知の中であったが、「西村松兵衛」と再婚し横須賀で暮らす。「松兵衛」が「菅野覚兵衛」の家に出入りし、「覚兵衛」の紹介された、と言う説と料亭田中家で仲居をしていた時に松兵衛と知り合ったという説もある。
夫に先立たれた妹・光枝がお龍を頼るようになり、3人で暮らすようになったが、やがて「松兵衛」と「光枝」の二人がお龍の元を離れて別居してしまい、一人暮らしになり、明治39年(1906)長屋の一角でひっそりと亡くなる。
晩年はアルコール依存症状態で、酔っては「私は龍馬の妻だ」と「松兵衛」に絡んでいたというが、僅か2年に満たない龍馬との生活を胸に約30年の横須賀暮らしであった。

会館には立派なおりょうの胸像と建物の裏側に終焉の地の碑が立っている。
ふと回りを見ると、何れお迎えが来る世代が多かった。会館でお世話になったら、お龍と一緒に夢想の世界へ案内してくれると、紹介したが、笑って流されてしまった。

□軍艦三笠へ
                   「軍艦三笠の雄姿」

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「龍馬」の遺構は「亀山社中」から「海援隊」に繋がり、帝国海軍の基礎を成し、ロシアのバルチック艦隊を破るまで成長した。
そう考えると、三笠の見学はこの旅ではで唐突無縁ではないことを、説明しようとした。しかし目の前の重装備の軍艦に、既に心を奪われ、つまらない説明は無用と、それぞれ赴くまま、三々五々飛んでいってしまった。(笑い)

圧巻は何と言っても、東郷平八郎と秋山真之らが指揮取った艦橋であった。降りしきる雨の中、片手に資料、片手に雨傘、手が塞がっている状態で足元も滑る急階段登り降りは厳しかった。砲弾飛び交う中で艦橋は殆ど無防備、こんな所で体を晒、指揮を取った幹部の姿が凄かった。
時間も無く足早に駆け抜けた三笠で、際立ったのが旅順口閉塞作戦で戦死した広瀬中佐の写真がそれを演じた俳優で元オリンピックの水泳選手「藤本隆宏」とそっくりであった。ロシア娘を虜にしただけあった男前の姿がそのまま、生き生きと輝いていた。

親父たちの世代が小学唱歌で唄っていた、広瀬中佐の唄が、微かに浮かんで来る。
「轟く砲音(つつおと)、飛来る弾丸(だんがん)。荒波洗ふ デッキの上に、闇を貫く 中佐の叫び。「杉野は何処(いずこ)、杉野は居ずや」>♪♪・・・♪。

□信楽寺
                   「山深い場所を背後にお龍が眠る信楽寺」

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京急京浜大津の信楽寺へ
墓碑は「贈正四位(ぞうしょうしい)阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれている大きな墓石である。『*贈正四位阪とは死後に贈られた正四位の位。
明治時代以降は、幕末の尊皇攘夷や明治維新において亡くなった功労者であった。』
ひっそりと、孤立無援のお龍には亡くなった時には墓らしいものもなかった。
「松兵衛」の知友「鈴木清治郎」と戊辰で東山道軍総督府大軍監、維新後宮内省の宮内官僚となった「香川 敬三」らの尽力によって、大正3年(1914)に立派な墓が建立された。
「龍馬」が長崎に居るころ、聞き慣れない音色に、取りつかれ、好奇心旺盛な「龍馬」は唐物屋に飛び込み、衝動的に買い求め、お龍に贈ったのが清国伝来の弦楽器「月琴(げっきん)」であった。
二人の木像、供併せ「月琴」(作り物)を拝見し、信楽寺を後にした。
横須賀の山深い信楽寺にこの雨の中、訪れ人も、我々以外に誰もおらず、お龍旅の最後を飾る、お寺であった。
この後、「龍馬」も警備陣に加わった、立会川の土佐藩浜川砲台跡へ向かう予定をしたが、雨中行軍で余力も失せ、多摩郡へ帰路についた。
本日は台風の余波で終日、凄い雨であった。こんな天気であったら、とても史跡巡りどころで無かったのが、せめてもの慰めであった。   

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「お龍」の足跡を追って、横浜、横須賀へ

横須賀大津の商店街

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草木が芽吹く時期を迎え、街中を歩くの良いのかなと「お龍の旅」を企画した。
しかし3.11の大地震により、予想も付かなかった足回りの混乱から旅、どころでは無く、中止になった。
そんな制限が解消され、改めて再チャレンジする。

今度の週末は台風の影響で雨模様であるが、2011ー5ー28、決行する。

□お龍の後半生を振り返ると
「龍馬」が凶刃に倒れる迄の僅か1年10カ月の「龍馬」との生活。未亡人となった後、下関、土佐、京都と転々するが、坂本家とも折り合いが悪く、新天地を求めて、東京に出て横須賀に暮らす。
横須賀で寺田屋時代のお龍と旧知の中であったが「西村松兵衛」と再婚し30年近く暮らすが、凋落しひっそりと66歳で亡くなる。
「龍馬」の遺志は「亀山社中」から「海援隊」に繋がり、帝国海軍の基礎を成し、ロシアのバルチック艦隊を破るまで成長した。
その華々しい戦果を見届け、お龍は天国の竜馬の元に走り報告に向かう。

折しも、日露戦争のとき、龍馬の姿が明治天皇の皇后の夢枕に立ったとの新聞記事が話題となった。新聞記事は竜馬の夢枕という事件を利用して、皇后陛下が日本海軍の戦略に関して口出し、天皇、皇后が政治に発言する機会を作りあげた。恐らく世論も味方
につけて、薩長派閥から除外された天皇親政派の喧伝による情報操作とも言われている。
贈正4位のお龍の立派な墓が建立される。

□そんな背景から横浜、横須賀の縁の地を追ってみる。
仲居時代の横浜の田中屋。晩年暮らした横須賀。バルチック艦隊を破った三笠。静かに眠る大津信楽寺。

<ちょっと欲張って>

龍馬が剣術修行で江戸に来たときに、ペリー来航で、動員された品川の浜川砲台跡

などなど、たっぷりと彼らの跡を辿ってみたい。

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幕末を駆けめぐる日野剣士「日野義順」

            近藤勇の天然理心流四代目披露の野試合が行われた「大国多摩神社」Senninhino102

日野義順は八王子千人頭河野仲次郎通聿【みちのぶ】の組頭日野嘉蔵義貴【ひのかぞうよしたか】の長男として、天保10年(1839)6月13日に生まれた。18歳のときから戸吹村(八王子市)の松崎和多五郎の道場で天然理心流を修行する。文久元年(1861)には近藤勇の天然理心流四代目披露の野試合に、一門を代表して出場しており、大将を支える4つの隊の隊長に抜擢されている。義順の配下に山南啓介が付いており、山南が敵大将佐藤彦五郎を打ち取り赤軍が一矢を報いるなど記録されている。
新選組の中心人物となった土方歳三らとも親交があった。
慶応元年(1865)5月、千人同心が第二次長州征討に出動すると、義順も第五小隊小司として市域の井上松五郎や土方健之助らとともに参加している。
京・大阪在陣警備の後、翌慶応2年、広島小倉に出陣したが、戦闘に幕府利有らずと小倉から撤退する。大阪で徳川将軍家茂公逝去の報にそれぞれ帰郷した。
翌2年に千人隊と改称する。

                                八王子千人同心が住んでいた千人町

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同4年3月甲州街道を西から江戸に向かう土佐藩兵を中心とした東征軍(官軍)を迎え撃つために近藤勇率いる甲陽鎮撫隊が甲府を目指す。
甲陽鎮撫隊は東征軍に勝沼で破れ、江戸へ逃げる。東征軍は甲陽鎮撫隊を追討し八王子、日野へ厳しく探索する。千人隊は戦う意志なしと東征軍に恭順を示した。
しかし官軍に従う恭順派の行動に不満を持った非恭順派は江戸へ出て、彰義隊の上野戦争に八王子方として参加する。八王子方の中心的役割は千人隊之頭(旧千人頭)河野仲次郎が担い、河野組の組頭を勤めた義順も河野の副と言うべき地位で参加する。
同年5月15日、大村益次郎率いる東征軍は上野の彰義隊に攻撃をかけ、彰義隊は一日で破れてしまう。
義順と河野は八王子へ戻ってくるが、首謀者として東征軍に捕えられ、甲府の一蓮寺に幽閉され、居宅を召し上げの処分を受けた。
2人は吟味の上、預けられが明治2年(1869)1月に解放された。
幕末期に幕府が瓦解する中で衝撃的な事件であったといえよう。
その間、千人隊は解体し、278年の歴史の幕引きを迎える。隊士は駿河(静岡県)に従う随従派、多摩の農民として生きる土着派、新政府に出仕する朝臣派に分かれたが、義順は多摩の地域住民として再出発の道を選んでいる。   

                         義順始め日野家が眠る欣浄寺                                                 

090500221維新後の明治6年(1873)学制発布により日野学校が開設されると義順は教師となり、現日野第一小学校の校長を勤める。
更に政治の世界に足を踏み入れ日野宿宿会議員に選ばれ議長にもなった。多摩郡に自由民権運動が高まると、明治16年には自由党に入党のち神奈川県会議員になって活躍している。こうした政治活動から明治20年代になると、一転して地方産業の振興に取り組むようになり、東京府農会議員、南多摩郡農会副会長に就任した。さらに初代の日野町長として同33年10月~同39年4月まで在任している。その間、
日野町と桑田村の合併、日野町農事調査の実施などの足跡を残したが、大正5年(1916)4月18日、78歳で波乱に富んだ一生を終わったのである。
義順は日野に住み、井上松五郎(新選組井上源三郎の兄)と同じように千人同心を代々務めた家である。東征軍が江戸開城目指し、千人同心は官軍に帰順するなかで、非恭順派として彰義隊の八王子方の幹部の一人として参戦し、徳川に忠節する意志を貫いている。
敗戦後首謀者の一人として捕縛され甲府に連行される事実は、維新後、新政府に抗する民権運動のエネルギーになっているように思える。
町長まで務めた逸材であるが、新選組の影に隠れ、余り報じられていない日野の剣士の一人である。

詳細は以下でまとめた

日野義順

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被災にあった佐原、佐倉の街

Sawara304江戸時代、佐原は 利根水運を利用し江戸との交流が隆盛をきわめ、醸造業や商業が大いに発達した。江戸から文人墨客が往来し、佐原の文化形成を成している。佐原を代表する商家の一つ伊能家は佐原支えていた。全国を測量して地図を作った伊能忠敬も養子に来て伊能家を支えた一人である。
利根川に分流する小野川と香取神宮に通じる香取街道には江戸時代の建物が多数残り、文化財として保護され、街ぐるみ江戸の街並みをそっくり残している。
香取神宮の重厚な本殿や、伊能忠敬が残した遺産、それを包み込んだ小江戸と言われる歴史の佐原を一回りした。
更に佐原から南西方向で約30㎞で結ぶ佐倉も歴史を残す大事な場所である。
佐原から佐倉へ廻ったのが昨年(2011)の11月のことであった。

佐原は江戸風情が残る小野川沿岸の風景を観光遊覧船から眺め、のんびり時を過すのもまた楽しい。
周りを憚らず、ほぼ、横になっても、咎められる事は無い。短い足を思い切り延ばして勝手きままな姿で、位置取りして、軽いエンジン音で船は走り出す。風もなく、真っ青の空、ゆっくり動く空気が何とも心地よく、石垣を超え、見上げる古い街並みにすっぱり、時を戻す、タイムカプセルに入った感じがする。

小江戸と言われる歴史の佐原を一回りした。
舟を操る、深い笠を被り、頬っ被りで隠した着物姿のお姉さんは真っ白い素肌の乙女姿を勝手に想像してしまった。素顔がどうしても気になる。ドギマギしながら下から見上げると、タオルの内側は日焼けし、かなり風化した何十年前の素朴なお姉さんであった。

小野川を散策中、同行者が「正斎貞亮書」の宝物の石碑を街角で発見した。「正斎」は佐原中宿の人、江戸の昌平黌で漢学を学び、書の大家として有名であった。剣術に長じ、千葉周作とも親交があった。
日野宿本陣の玄関の間の扁額「乃武乃文」「正斎」の作品として、馴染みがあるが、佐原で代表する、著名人の一人であった。
「佐藤彦五郎」と「正斎」とが文化人としての接点から、日野にも作品が残されたと想像するが、そのルーツをこの碑が語りかけてくれた。

佐倉は城下町であるが、その佐倉を代表する一つは、「佐藤泰然」が幕末に西洋医学を取り入れ優秀な人材を育てた場所が佐倉順天堂である。幕府軍医「松本良順」は息子であり、「佐藤彦五郎」の息子の養子先の有山家からも優秀な人材の一人として順天堂の歴代理事を務めている。
そんな医学のルーツと日野との関わりを確かめることができた。佐原と佐倉、何れも日野との繋がりがあることが、この旅の大きな収穫でもあった。

そんな佐原の街並み、佐倉を楽しんだのが昨日のことのようであった。それが、あの3.11で夢が吹っ飛んだ。

佐倉の順天堂記念館から、生々しい情報を手紙で頂いた。それによると

『3.11は震度6近い大地震に見舞われた。激しく、且つ長く揺れる地震に建物が倒れるのではと心配されたようであった。幸いに漆喰など一部が損傷しただけで大事に至らず、それでも数日間の臨時休館の後、通常通りの開館をしている。』とのことで、経験のない大きな地震であったことが伝えられている。

<佐原の街の姿を震災前後で対比してみた>・・・震災後はネットから引用

福新呉服店(明治28年)震災前

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震災後の姿 、左は福新呉服店で右隣はそば屋の小堀屋本店、梯子が架けられ復旧工事にかかっている。当時、毎員盛況で時間をかけての手打ち蕎麦を食べたのが此処、小堀屋本店であった。Fukusin11111 

正文堂書店(明治13年)震災前

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震災後、一・二階の瓦が殆ど落ち、下地がむき出しである。 看板も落下物で覆われ、道路は大量な落下物で積まれている。激しかった震災の模様が伝わってくる。

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観光船が走った、小野川震災前風景

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震災後、小野川の護岸の石積み部分が崩壊、道路も一部陥没している。

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街のいたるところで激しく屋根瓦は崩れ落ち、土蔵は土を剥き出しになった。道もいたるところ、損壊しているようである。大震災により、町並み景観はかなり崩れた。しかし倒壊が無かったのはせめてもの救いだったのであろうか。かなりの激しい深手を追ったが、再び往事の街の姿に恐らく復元しているのであろう。唯一、江戸を語り継げる、風情ある街並み。再びの賑わいを見守りたい。

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